冷たい舌

菱沼あゆ

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はじまり

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 透子は水を張った檜の風呂にその身を浸した。

 淵から引いている御神水だ。

 縦格子の窓から月が見える。

 そっと水を掬い窓際に運んだ。手の中の水にその姿を映す。

 ゆらゆらとほとんど満ちている月が揺れていた。

 髪まで水で濡らして上がろうとした透子は、水の中に、たくさんの髪が浮いているのに気がついた。 

 始めは自分の髪が抜けたのかと思った。

 だが、それにしては短いようだし。

 第一、数が多すぎる。

 なに……?

 思わず伸ばした透子の手に、それは絡みついた。

「きゃっ」
 ぐいっと引かれて、水の中に突っ込む。

「やだっ」

 底に手をついて、必死に立ち上がろうとする自分の前に、光るものがあった。

 え……?

 髪がこんもりと水から浮いている。

 その下の暗い空間に、光る二つの眼があった。

「きゃーっ!
 おっ、おばけっおばけっおばけーっ!」

 おどろおどろしい幽霊の前には、龍神の巫女も形無しだった。

 盲滅法、手を振り回し、髪を払って逃げようとするが、うまくいかない。

 思わず透子は叫んでいた。

「か、和尚、和尚、和尚ーっ!」

「透子っ」

 ガラッと戸が開いて、顔を覗けたのは龍也だった。

 その瞬間、ふっと手を絡めとっていた気配が消えた。

「龍也っ!?」

 駆け寄った龍也に、透子は縋りつく。

 そして、水面を指さし、

「あれ、あれ、あれ、あれっ!
 あ、あれ? ない……」

 透子は龍也から手を放し、ぱしゃんっと水の表面を弾いてみる。

「あれえ?」

 透子は龍也を振り返り、

「今、ほんとにいたのよ。
 此処に、変なものがっ。

 いっぱいの髪の毛が私の手に絡みついて……」

 自分の腕を押さえてみる。

 月明かりに青白く輝いて見える肌には何もない。

 だが、その腕に絡みついていたたくさんの糸みたいな厭な感触は、はっきりと残っている。

 透子はあの底光りのする眼を思い出して、ぞっとしたが、龍也は呆れ顔で姉を見ていた。

「お前、ほんとに巫女なのかよ。
 祓えよ、それくらい」

「……私、幽霊は専門分野じゃないのよ。
 和尚、呼ばなくちゃ」

 頼りないことを呟く透子に、龍也は付け足した。

「和尚呼ぶんなら、取り合えず、服着たら?」

 ようやく自分のあられもない姿に気づいた透子は、恐ろしいはずの水に、ざぷんと浸かる。

「いっ、いやっ!
 なんでいるのよ、龍也!

 出てってよっ」

 つい、助けてもらったことも忘れて、そこにあった桶を投げつけた。

「お前が呼んだんだろっ」

 頭を押さえて、透子の攻撃を避けた龍也の後ろに、公人が遅れて現れた。

「なにやっとるんじゃ、透子。
 龍也、禊の最中の透子に触れるなと言ったじゃろうが」

「俺のせいじゃねえっ!」

 公人は二人の言い分など聞かずに、中に入ってきながら言った。

「透子、禊をやり直せ」
「お祖父ちゃん」

 情けなげな声をあげる透子に、公人は風呂の水に手を入れて、顔をしかめる。

「心配するな……。
 和尚は呼んでおいてやる。

 早く上がれ」

 お祖父ちゃん?

 濡れて束になった黒髪から滴る冷たい水が透子の体を、ゆっくりと這っていった。



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