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予兆
もうすぐ、満月
しおりを挟む暗い顔で、青龍神社に戻った透子を、公人が待ち構えていた。
欄干の側で熊手を持つ祖父は、不興気な顔をしてた。
「なに、おじいちゃん」
気のない声で、透子は訊いた。
透子よ……と溜息まじりに呟く。
「あれを怒らすなと言ったろう」
「仕方ないじゃない。あいつ、気が短いんだもの」
そう言って、さっさと回廊に昇ろうとする。
その足を公人が熊手で止めた。
いつになく真剣な眼の公人がそこに居た。
「いつもの怒り方じゃなかったぞ。
透子。
お前、自分が何をしているのかわかっているのか?」
わかってるわよ、と透子は投げやりに嗤う。
「わかってたわよ。
今も昔も」
ふと表情を変え、透子は言った。
「でも……これでよかったのかも」
「透子?」
空を見上げる透子の姿に、公人は不安げにその名を呼んだ
もうすぐ、満月――。
透子は拝殿に入ると、柱に背を預けた。
視線を中央に向ける。
そこに祀ってあるのは、金属であつらえられた丸い大きな鏡。
龍神の姿を映すと言われる御神体のひとつだ。
透子は、それをぼんやり見たまま呟くように言った。
「……お祖母ちゃん」
もう淵は限界だ。
やっぱり、あの夢は――。
俯きかけたその顔を、もう一度上げたとき、透子は磨き上げられた鏡が、滴る血のように紅く染まっているのを見た。
「きゃっ」
口許を覆い、座り込む。
高く掲げられた紅い鏡は、まるで、あの夢の月のように不気味に輝いていた。
夕暮れ、透子は神楽の衣装合わせのため、薫子の部屋に籠もっていた。
此処は古い畳の匂いがする。
薫子の嫁入り道具だった細長い一面鏡の前で、禊の後に羽織っていた白い着物を落とそうとした透子は、ふと気づいて振り返る。
公人が着物を整える振りをしながら、そこに居た。
やっぱり、まだ居やがった。このジジイ。
「……お祖父ちゃん、この辺は自分で出来るんだから、出ててくれない?」
「いや、すまんのう。じゃあ、支度が出来たら、呼んでくれ。
髪を結うのは儂がやってやるでな」
公人は急に老人のふりをして出ていく。
ったくもう。
着物の下着につけなおした透子は、衣桁に掛かった豪奢な装束に手を伸ばす。
龍の透かしの入った絹に、赤い縁取り、金の飾り。
また、龍神に奉納するための神楽を舞うのか。
神楽は見物客のための目玉だ。
あのあと、和尚は降ろされたが、まさか龍神の巫女である自分がやめるわけにはいかない。
透子はこの十年、姿を見せぬ神のための神楽を一人、舞い続けてきた。
透子は衣装から手を放し、溜息をついた。
ぱさりと落ちたそれは、幾ら豪華でも清めてあっても、ただの着物に見えた。
これに袖を通すのが厭だと思うのは、自分の心が疚しいから――。
ぼんやりと床に広がるそれを見つめていると、障子の向こうから公人の声がした。
「透子、まだか?」
「待って。もう少し」
慌てて朱金に彩られた装束に手を伸ばす。
そして覚悟を決めて、袖を通した。
美しいが、冷たいその肌触りは、あの日触れた、龍の舌のようだ―
永遠に――
私を搦めとり……逃がさない。
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