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予兆
澱む淵
しおりを挟む家の台所で、和尚は水を汲んでいた。
だが、その水は、いつまでもコップの中を循環しては、零れ落ちていく。
「兄貴」
と背後で強張った声がした。
和尚は振り返らず、ただ、流れていく水を見ていた。
「さっき、俺が潤子さんに呼ばれて母屋に行ってたとき、何があったんだ。
透子、泣きながら出てきたじゃねえか」
忠尚ともあろうものが、逃げるように林へ駆け込んだ透子に、何もできなかったのだ。
追いかけることも、呼び止めることも。
「お前、透子におかしなことしたんじゃないだろうな」
「あのババアの部屋で、そんなことできるかよ」
ようやく口を開いた和尚は、吐き捨てるようにそう言うと蛇口を締め、振り返る。
「心配すんな。
透子には、お前が手が出せないように、お前も出せねえから」
なんだと、と言おうとした忠尚は、和尚の眼に言葉をなくす。
その表情の読めない瞳に、共に産まれ、育ってきたはずの忠尚でさえ近寄りがたいものを感じて、身を引いた。
何も言わずに、和尚が側を擦り抜けたとき、ひんやりとした空気が漂ったのに気づく。
和尚……?
忠尚は、成す術もなく、ただ兄の姿を見送った。
淵の空気は、どんよりと濁っていた。
いけない、と透子は泣くのをやめて立ち上がる。
私たちが、喧嘩なんかして、気を乱してしまったから。
透子は重い足を引きずり、ほとりまで歩いて行った。
石の祠の前に、可憐な野の花が置かれているのに気づく。
――これは?
思わず手を伸ばして触れると、それは、はらりと崩れて落ちた。
嫌な感じがした。
まさか……あれからずっと、誰かが淵に願掛けしているの?
透子が触れた途端、形を失ったのは、その生命が、何かに使われていた証拠だ。
昔はよくこうしてお百度参りのように祠にお供え物をして行ったというが。
まずいな。
淵がバランスを崩している今、そんなことをされれば、叶えてくれるものを失い、行き場をなくした思いはこの淵に漂い続ける。
それが良い願いなら、まだいいけど。
もし、悪いものだったら……?
龍神を殺したあと、透子と和尚、そして、公人は、薫子の指示のもと、淵を清めてきた。
だが、あれから十年、八坂の夜は、年々暗くなる。
薫子が死んでからは加速度的にひどくなっている気がする。
八坂の淵は力の集まる臍のようなもの。
いずれ自分たちでは制御できなくなってしまう。
もう私には、何も救うことはできないの?
何も―― 誰も。
透子は泣きたい思いで、その崩れ落ちた花を握り締める。
そのとき、ずきんっ、と胸の奥深くが痛んだ。
いけないっ。
私、この花の願掛けの主と共鳴してるっ!
急いで手を放そうとしたが、崩れた花は黒い臭気を放ち、透子の手の上で踊るように揺れていた。
まるで透子のすべてを吸い取ろうとするかのような、その悪意。
透子はたまらず手を振ったが、吸いついて離れない。
「いやっ。
和尚っ!」
ついそう叫んでしまったとき、ぱんっ、とその手を見慣れた木の珠が打った。
力を失った花の欠片は、ぱらぱらと透子の手から落ちていく。
黒衣を纏い、念珠を手にした和尚が透子を見下ろしていた。
「都合のいいときだけ、俺に頼るな」
透子でさえ、感情の読み取れない瞳だった。
ごめん……と呟き、透子は力なく立ち上がる。
「和尚、今、此処に」
わかっている、と和尚は袖を翻して、淵のほとりに立つと、長い念珠をその腕に絡め直した。
淵の異常に気づいて、わざわざ戻ってきたらしい。
「この間からずっと続いてる。
真夜中に願掛けしてるらしい」
いつも、お前が来る前に始末していた、と言われた。
「言ってくれれば、私だって、おじいちゃんだって」
「もうお前等の手を借りたくないんだ」
手を合わせ、目を閉じた和尚の口から、迷いのない真言が溢れ出した。
それに共鳴したかのように、淵の水が振動し始め、やがてそれは、辺りの空気をも揺るがし始める。
淵の空気が少しずつ奇麗になっていくのを感じた。
だが、透子は和尚の腕にしがみついて、その合掌を崩す。
「透子っ!」
思いがけない行動に驚き、和尚が叫んだ。
「やめて、やめて。
もうやめてっ!
これ以上、無駄に力を放出して、貴方自身を痛めつけたりしないで!」
「なにを言ってるんだ」
「誤魔化さないでよっ!」
透子は気づいていた。
和尚がお酒も煙草もやらないのも、みんなと遊び歩いたりしないのも、それが彼の主義だから、それだけじゃない。
そんなことをする身体の余裕がないのだ。
薫子亡き後、ほとんど一人で、この淵を支えてきた和尚の体も精神ももう限界だった。
そうして、自分はそれを支えてあげることもできないのだ。
透子は、ぎゅっと和尚を掴む手に、力を込めた。
俯く透子の顎に和尚の手が触れる。
いつもとは違う瞳が、透子を見下ろしていた。
「今のお前には何もできない。
龍神の力を失ったお前には」
「……和尚」
「帰れ、透子。
此処は俺が始末しておく」
突き放すような和尚の言葉に、透子は仕方なく手を放した。
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