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予兆
あの月が――
しおりを挟む夜の龍王山は、昼間の熱気が嘘のように引けている。
拝殿の回廊に座っていた透子は、欄干に手をやり空を見上げた。
煌々と真白い月が、鳥居の上に浮かんでいる。
毎日こうして見ていると、月にかかる影が少しずつ消えていく様がよくわかった。
夢の中の満月を思い出し、冷えた欄干に額をぶつけるように寄せる。
ふいに何かが袴を引っ張った。
振り向くと、龍也が立っていて、透子はその足許を指さし言った。
「ちょっとあんた、踏んでるわよ」
木の床の上に広がる紅い袴の裾を龍也は踏んでいた。
「おや、お姉様、気づきませんで。
何の荷物が置いてあるのかと思いましたよ」
そう言いながら、ぐりぐりと裾を踏みつける。透子はその脚をはたいた。
「やめなさいよ。
罰当たりな奴ね」
固い臑に当たって、痛みに手を振る。
ばか、と言う龍也の口の動きが目の端に見えた。
「そっ、それから、そんな真っ黒な上下でこういうとこ、うろうろするのやめてよね。
氏子さんたちが見たら、びっくりするでしょ?」
「真っ黒な法衣で、うろつく和尚たちよりはマシだろ。
だいたい、罰当たりって何だよ。
何様だよ、お前」
「私に対して言ってるわけじゃないわよ。
装束に対して言ってるの」
「そうだよな。
中身はもう価値ねえもんな。
ああ、昔からなかったのか。
俺達が知らなかっただけで」
「しつっこいわね、あんたも」
と言いかけた透子は、龍也の手に握られている子機に気がついた。
そういえば、なんだかメロディが聞こえている。
「あんたそれ、保留にしてるんじゃないの?」
おお、そうだった、と龍也はわざとらしく言い、透子に差し出した。
「春日さん。
目茶苦茶待たせたから、もう切れてるかもしれねえけど」
ぱっと弟の手から引ったくる。
「あんた、なんて失礼なことするのよ。
もっ、もしもし?」
「あーあ、男と見ると目の色変えやがって」
「龍也っ!」
『ど、どうかされたんですか? 透子さん』
さんざん待たされたと思ったら、急に怒鳴り出したからだろう。
春日の脅えたような声が聞こえた。
「あ、いえ。すみません。お待たせして。
ちょっと今、弟が反抗期で」
反抗期って年か、と思いながら言う透子に、春日は歯切れの悪い口調で訊いてきた。
『透子さん、あの……今、龍也くんに聞いたんですけど』
「はい?」
『和尚くんと結婚するって本当ですか?』
振り返ったときには、龍也はもう居なかった。
まったく、反対なくせに、しゃべるのだけは、ぺらぺらしゃべるんだから。
『自分で、けしかけておいてなんですけど。
やっぱり、ちょっと残念ですね。
僕と見合いなんかしたから、和尚くんも焦ったんでしょう。
でもまあ、よかった……かな?』
と自分で自分に確かめるように言いながら、力なく笑う春日に、物の弾みです、とも言えずに透子は曖昧に濁した。
膝をつき、欄干から身を乗り出すようにして寄りかかると、月を見上げる。
月はまだ、透子を護るように照らしていた。
ひとしきり、たわいもない話をしたあとで、透子は言った。
「そうだ、春日さん。
来週からうち、お祭りなんですよ。
いらっしゃいませんか?」
『でも、僕はもう貴女とは会わない方がいいんじゃないですか』
遠慮がちに言う春日に透子は笑った。
「そんなこと、うちの人間は誰も気にしません。
それに――
もう一度、お会いしたかったんです」
忠尚たちが居たら、そういう発言をするから誤解されるんだっと叫ぶところだった。
だが、今の透子にはそんなこと、どうでもよかった。
「ぜひ、いらしてください。出来たら中日に。
私、神楽を舞いますから」
風が懐かしい匂いがしていた。
草の匂い。
夜の匂い。
そして、何かが始まる前のような生温い風の肌触り。
目を閉じてそれを感じる。
透子はもう一度、瞳を夜風に晒し、夜に染まる境内を見つめた。
もうすぐ満月――。
何度もそれは訪れるけれど、今度のは、いつもと違うような、そんな気がしていた。
きっとあの月が昇る。
何度も見ていた、あの月が――。
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