冷たい舌

菱沼あゆ

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予兆

くそババアの記憶

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 ミンミンと蝉の泣く青龍神社の夏。

 七つか八つだった和尚は、縁側で薫子が膝に透子を載せて、彼女の耳を掃除してやっているのを見ていた。

 年老いてなお、美しかった薫子。

 もともとは何処かの資産家の出だったらしく、品のよい婦人だったが、その切れ長の目の奥の眼光は公人よりも鋭かった。

『ばあちゃん、面白い匂いがする』

 縁側から足をプラプラさせて和尚は言った。

『ああ、これか』
と薫子は笑みを漏らす。

 決して、馴染みやすい笑顔ではないが、不思議と人を魅了するものがあった。

 嫁して三十年、今では公人よりもこの八坂で信望を集めていると言われるだけのことはある。

 彼女は濃茶の着物の懐から、綺麗な匂い袋のようなものを出して和尚に見せた。

『これは、私が呪法を行うときに使う香だ。
 お前も、そのうち自分に合ったものを捜すといい』

 いた……と小さな透子が声を上げた。

 長くて艶やかな透子の髪が今よりもっとあどけないその顔にまとわりついて、薫子の着物の膝の上に流れていた。

 和尚は透子の髪が好きだった。

 涼やかで清潔で、透子の匂いがする。
 和尚が一番、落ち着く匂いだ。

 耳を押さえようとする透子の手をはたき落として薫子は言う。

『ほんにお前は痛がりじゃのう。たいして引っかいておらんわ』

 透子は拗ねたように薫子を見上げた。

『うそ。お祖母ちゃん。
 だって、この間も、そう言ってたけど、血が出てたわよ』

『なに、そんなの。
 お前の母親に比べればマシじゃろう。

 潤子さん、昔、お前の髪を切るとか言って、間違えて耳を切っておったわ』

 薫子は澄ました顔で言った。

 おそろしい一家だ……。

 ときどき、潤子がバリカン持って、和ちゃん、髪刈ったげようかとか言っていたが、やめておいてよかった。

『透子、和尚、ばあちゃん!
 クワガタ、クワガタ、大クワガタ!』

 近くの木の根元で、ごそごそしていた忠尚が、わさわさと脚を動かしている黒く光る虫を指で掴んで振り回している。

『ゴキブリじゃねえのか?』
 ちょっと悔しくてそう言った。

 違うってー、と忠尚は素直に叫び返す。

 悔しければ、一緒に捜せばよかったようなものだが。

 和尚は薫子の膝の上で、甘えるようにまるくなっている透子の顔を見て、つい微笑む。

 それを見ていた薫子が面白そうに言った。

『懲りない男だな、お前も。
 まあ、せいぜい地獄を見ぬように』

 にやりと笑った薫子をなんだかわからないまま、睨み返していた。


 そうだ。昔から薫子は人が悪く、言い出したら聞かなくて、どっちが悪かろうが、相手をこてんぱんに叩き潰していた。

 透子なんかもう、やり返す気もなくて、はいはい、と聞き流していたようだが。

 ふいに和尚の胸に、長年しこっていた薫子への恨みの念が吹き上げてきた。

「あんの、くそババアッ!」

 その瞬間、パン、と薄い氷が割れて落ちるような音がした。

 反射的に閉じた瞼の裏に、ひとつの映像が見えてくる。
 
 
 見慣れた景色なのに少し目線が低い。
 夕陽を浴びてオレンジに染まり、流れる淵。

 それに脚まで浸かっている自分は、まるで龍の背に乗ってるようだと思った。

 目の前に誰か居る。

 白い装束に浅葱の袴を身に着けた男。
 伸ばして束ねた長い髪が、風に揺れている。

 これは……俺?

 近づく自分をその視線が見上げたそのとき―――


 
「だっ、駄目、駄目、駄目ぇっ」
 透子の声が幻想を切り裂いた。

 半泣きの透子が自分を見上げている。

「お前……今のなんだ?」
「しっ、知らないっ」

「知らないわけないだろう?」
「ほんとよっ、初めて見たわ!」

 後ずさった透子は、石の祠の端に足を引っかけた。

 信心深い彼女は、祠に寄りかかるようなことはしなかったので、そのまま綺麗に引っくり返る。

「透子っ!」

 慌てて駆け寄った和尚は、草原に倒れる透子を見て、ふいに子供のころ買っていたモルモットのことを思い出した。

 そういえば、足を滑らせて大車輪から落ちたとき、こんなすっ頓狂な顔をしていた。

 和尚は珍しく曇りのない声で高らかに笑い出す。

「はははははは。馬鹿じゃねえ?」

 透子は、むっとしたように見上げて叫んだ。

「誰のせいなのっ!?」

「……俺のせいなのか?」

 心の底から疑問に思って訊いた。

 泥のついた袴をはたく透子の髪に千切れた茅が引っかかっていた。

「お前、髪に……」
と思わず指を伸ばすと、え? と透子があの黒い瞳を自分に向ける。

 思いがけず近くにあった顔に、つい不遜なことを考えた。

 が――

「透子っ! 和尚っ!」

 いきなりした怒声に、なんとなく予想していたとはいえ、溜息をつく。

 振り返ると、案の定、忠尚が林の方から駆け込んでくるところだった。

 息を切らして二人の横に立つ弟に、和尚は厭々ながらも訊いてみた。

「……なんの用だ」

 忠尚は汗で重くなった前髪を鬱陶しげに払って言った。

「なんの用だじゃねえよっ、お前等、それの何処が参拝だっ!?

 こんな薄暗い淵で、そんなに接近する必要が何処にあるっ」

 今日は厄日か? 龍也といい、忠尚といい。

 こいつの周りには、ほんと小煩くて目敏い男が多くて困る。

 あ、と透子が声を上げ、忠尚を指さした。

「薄暗いで思い出した。私はちゃんと日が落ちる前に帰って来たわよ」

「俺だって……、帰ってきたじゃねえか」

 まだ、はあはあ息を切らしながら、忠尚は言う。

 恐らく、間に合わないと思って走ってきたのだろう。

 透子は黒い山の上にある夕陽の残滓を指さして言った。

「何処が間に合ってんのよ」
「まだ、明るいだろ?」

「今、薄暗いって言ったの、あんたでしょ? 私、グリーンティ」
「じゃあ、俺はクッキー&クリーム」

「ちょっと待て、お前等! なんの話だっ」

 叫び出す忠尚に、口を揃えて言った。

「夕食の後でいいから」

「いつアイスを賭けたんだ!
 しかも、和尚っ、なんでお前まで参加してるんだっ!」

 叫ぶ忠尚の肩を掴み、お前もたまには参拝しろと強引に座らせる。

 忠尚はぶつくさ言いながらも、おとなしく礼をし、手を叩いた。

 相変わらず単純な忠尚に、透子と二人、顔を見合わせ、笑う。



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