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イデアル王国は緑豊かな穏やかな国だ。近隣諸国との諍いも少なく、獣人と人間、そしてその間に産まれた半獣人が互いの存在を認めあって生活している。
現イデアル国王は争いを好まず、政に関しても重臣たちと共によく話し合ってから決断し国民に不利益にならないよう心掛けている優しい王だ。国民はそんな王を少し頼りなく思いながらも、今の平和な暮らしがあるのは王のおかげだと敬っている。
後継者である王子は王の良いところを引き継ぎ、尚且つ賢く勇敢でカリスマ性がある。誰しもが次の国王の統治する未来のイデアル王国に期待していた。
国を護る騎士団も平和ボケなどせず鍛錬に勤しんでいる。中でも隊長のレストは銀の美しい毛並みをした狼の獣人で、その強さも圧倒的だった。
王国を取り巻く重臣や役職のある者の殆どはαと呼ばれる男女以外の第二の性別の者が多い。α性は優秀な遺伝子を持っていて、国王も王子もα性だ。イデアル王国ではα性のみが国王になれる為、王の子供で長子であってもα以外のβ性もしくはΩ性は王にはなれない。
諸外国はΩを軽んじ、その独特の性質を利用し奴隷にしたり娼館で働かせたり、政の道具として利用している。
それはΩ性にしかない発情期というもののせいだ。個人差はあるが、Ω性は他人を誘惑するフェロモンを自らの意思とは関係なく分泌する期間がある。この期間になるとΩは性欲を満たす事しか考えられなくなる。
このフェロモンに最も影響を受けるのがα性である。Ωのフェロモンを感じるとαも理性が保てなくなり、目の前のΩを無理やりにでも犯したくなる。その結果、Ωは壊れるまで犯され、望まぬ妊娠をしてしまう事もある。
しかしその体質を利用して発情期のΩをわざとαに差し出し、金儲けや交渉の切り札にする。Ωには人権というものが全くなかった。
そんな存在のΩを保護の対象としてαやβと同じ生活が出来るように取り計らったのが、現イデアル国王、その人である。
イデアル国王はまず発情期に安全に過ごせる様にΩ専用の施設を城内の敷地に建てた。そこはΩのみが出入り出来る場所で、警備にあたる者はΩのフェロモンに耐性がある番を持つαだけだ。
番はαとΩの間だけで成立する特別な関係。発情期中のΩと性交渉をしている最中にαがΩの項を噛む事で成り立つ。一度、番が成立するとそのΩのフェロモンは番になったαにのみ効果を示す為、他のΩが発情期になっても番のいるαは誘惑されない。
番は婚姻とも違う関係でその絆も深い。今までは利用され無理やり番にさせられたΩが多かったイデアル王国も、国王のΩへの政策が功を奏し、思い合う相手と番うΩが増えてきた。
この政策を知った諸外国に住むΩがイデアル王国に移住してくるようになり、発情期以外のΩ達は生きやすくなった。人口が増えたイデアル王国は働き手も増え、発情期ではない時のΩ達も一生懸命働いて国王に忠義を示した。
イデアル王国は長い歴史の中で今が一番平和で豊かな時を迎えて繁栄していた。
しかしその政策には秘密があった。王とその家族、そして重臣の極限られた者のみが知っている事実。
イデアル国王は国民に公表していない子供がもう一人いる。その子は産まれながらにしてΩ性であると判別された。α同士の婚姻をしてきた王家からΩが産まれるはずはなかった。当初、重臣達の間では王の妻である王妃の不貞を疑っていたが王がそれを否定し王妃を庇い続けた。
産まれたばかりの子がΩだと公表すればそれを利用しようとする者も出てくると予想され、王は子供を守る為にその子を我が子と認めた上で周囲には公表せずに密かに育てることにした。
その子が成長し、発情期を迎えた頃にΩが住みやすい国にしておかねばならないと決意した王は時間を掛けてその政策を実現した。
Ωの子供は性別など関係なく両親と兄に大切にされ、真っ直ぐに育った。
αであれば第二王子として表舞台で兄の補佐をする役割を担っていたであろうΩの子は、存在を公表していない為、政にも参加出来ず騎士団に入る訳にもいかず、ただ毎日を城の敷地内で目立たずに過ごすだけだった。
とても健康で大きな病気もせず、体力をつけこっそりと鍛えているのにΩの発情期が戦闘中に起こった時の混乱を防ぐためΩは騎士団にも入れない。自分の居場所が何処なのか彷徨い続けていた頃に見掛けたのが獣人の騎士、レストだった。
Ωの子は彼に憧れを抱いた。仲良くなって剣の技を鍛えてほしかった。騎士団には入れなくとも自分の身は自分で護れるくらいの強さが欲しかった。
王子である事を伏せて彼は騎士に理由を話した。強くなりたい、と。最初は渋っていたレストも騎士団の訓練が終わって他に予定がなければ相手にすると了承してくれた。以来、Ωの子は狼の騎士に挑み続けている。
怒りに任せて城内を歩いていたクレエは足を止めて方向を変えた。
政務を執り行う城とは別に、城内の広大な敷地には王族が生活をする宮殿がある。今の時間なら午後の執務を始める前の休憩時間だから王は宮殿の自室にいるはず。
王の部屋に向かう為に早足で移動を始めたクレエ。
レストもその周りにいる騎士達も、城内で会う者達の誰もがクレエをたくさんいる下働きのうちの一人だと思っている。Ωにも積極的に仕事を与えている王は保護したΩ達をαに会う機会があまりない下働きや厩舎の馬の世話係などをさせていた。
城内で働いているうちは衣食住に困る事はない為、数人のΩが城で働いている。レストはクレエもその一人だと勘違いしていたが、クレエは訂正するつもりはなかった。
今まで存在を隠して生きてきた二人目の王子がクレエだなんて、きっとレストは信じないだろう。もしも信じてしまったらレストの強い王家への忠誠心から、もうクレエと気軽に過ごしたり出来なくなる。今の関係を気に入っているクレエにはそんなのは嫌だった。
「父上は中に?」
王の部屋の前にはクレエの事情を知る数少ない人間の一人が警護の為に姿勢良く立っていた。王がまだ即位する前からずっと王を警護してきたこの衛兵は出世を望めばすぐにでも高い地位にいける程の信頼を王から受けているのに、この場所を明け渡す気はないらしい。引退するまで一衛兵として王の警護をすると誓っている。
王は周りの臣下にとても恵まれていた。それは王の人柄によるものだ。
「これはクレエ様。ちょうど中におられます」
クレエに頭を下げてから王の自室の扉を叩くと衛兵は「クレエ様がお越しです」と中にいる王に向けて声をかけた。
王の返事も待たずにクレエは扉を開けて中に入る。
そこには丸いテーブルを間に挟み、豪奢な椅子に腰掛けお茶を飲む恰幅のいい王が目の前で同じくお茶を飲んでいるクレエの兄、スエラと談笑していた。
「おお、クレエ、よく来た。お前も一緒にお茶にしよう」
皺の寄った目元をさらに皺だらけにして王はうれしそうに微笑む。
「兄上も一緒でしたか。お茶は結構です」
椅子に座るように促す王にあえて立ったままクレエは腰に手を当てた。
結構です、と言ったのに王付きの従者がお茶を淹れ始めたのに気付きクレエは仕方なく椅子に腰掛けた。幼い頃から人の好意は無下にしてはいけないと教えられてきたクレエには、従者がせっかく淹れてくれたお茶も残すことは出来なかった。
「それで、今日は一体どうした? 呼んでもなかなか来ないお前が自分から来るとは」
父王はとにかく子煩悩で二人の息子をとても可愛がった。兄が跡を継ぐからと弟を蔑ろにはせず、弟がΩだからといって偏見の目で見ることもなかった。
限られた一部の人間しかクレエの存在は知られていないため、親子で過ごせる時間は少ない。この休憩時間は数少ない親子での交流が持てる時間の一つだ。
王はその時間によく息子たちを呼んでお茶を飲みながら他愛のない会話を楽しむのが何より好きで、クレエも三日と空けずに誘われる。しかしあまり頻繁に出入りしていると事情を知らない者に見られた時に困る。噂話にでもなればあっという間に広がる。父や兄に自分のことで変な噂話が流れたり、政の邪魔にだけはなりたくなかった。
だから誘われても最近は来ないようにしていた。クレエが王家のために出来ることは、目立つことなくひっそりと生きていくことだけ。自分の部屋から外に出る時は庶民の服装を着て、周りに人がいないかしっかり確認しないといけない。そんな生活をずっと続けていた。
服装一つ違うだけで誰も自分の事を第二王子だとは気付かない。Ωという性で産まれたおかげで王家の一員としての権限は殆どないが、発情期さえ気を付けていれば自由に動き回っても問題ない。レストに出会った時もクレエは庶民が着るような動きやすく、汚れても平気な服装だった為にレストに王子だとバレなかった。
「騎士団隊長のレストに見合い話を持ちかけたと聞きました」
本来なら当人同士の話だからクレエには関係ないがどうしても気になってここまで来てしまった。レストの見合い相手が誰なのか、どこまで話が進んでいるのか、気になりだしたら足が勝手に父王の部屋に向かっていた。
「ああ、その話か。宰相が自分の娘はどうかと言ってきてな。何度か会った事があるが気立てのいい娘だ、悪い話ではないだろう」
「宰相の……」
イデアル国の宰相は頭の回転が速く、優秀な獣人だ。その娘ということは当然、獣人。身分も不足はない。これ以上ない良い話だ。
「それがどうかしたか?」
「いえ……今までそういう話は本人があまり乗り気ではなかったので、今回もそうではないかと。王と宰相に言われてしまったら断りづらいですし……」
いっそ番にならないかと苦し紛れでクレエに言ってしまうくらい、レストはこの見合い話に乗り気ではないのは確かだ。けれど相手には何の問題もないのに何故そこまで結婚を嫌がるのかクレエは不思議に思った。
「ふむ……乗り気ではないか。しかし何故クレエがそれを心配するのだ?」
「え……」
それは、と言いかけて言葉に詰まる。
レストが結婚しようとも騎士団隊長であることに変わりはない。今までのようにレストに挑みにも行けるだろう。むしろもっと出会いを求めろと後押ししてやるのが王子としての勤めではないか。
「父王、クレエは隊長殿に結婚してほしくないのですよ」
優雅にお茶を飲む兄がクレエに微笑みかけながら言った。
「何故だ?」
「クレエと隊長殿は仲が良いですからね。時折、二人がお喋りをしているのを見かけますがとても初々しい様子で間に割って入るのも憚られます」
ニコニコと父王に報告する兄にクレエは驚きを隠せなかった。
レストとは密会をしていた訳ではないから後ろめたいことはないが、兄にはそんなふうに見えていたのかと恥ずかしくなる。
「クレエも遠回しに言わずにはっきりと父上に言えば良いではないですか。自分達の邪魔をするなと」
気のせいか兄はクレエの反応を楽しんでいるようだった。唖然としているクレエを笑顔で見つめている。
「なんと、二人はそんな間柄だったのか。それでは乗り気にもなりはしないだろう、レストには申し訳ないことをしたな」
「え、いや、父上っ……」
自分達はただの友人でそんな関係ではないと否定しなければいけないのに、心の中にいるもう一人の自分が「素直になれ」と引き止める。そんな感情に困惑して何をどうしたらいいのか浮かばない。
「クレエにも相応しい相手をと考えていたがレストなら申し分ない。この話、進展があれば以後必ず報告するように。わかったか、クレエ?」
「え、それはっ」
進展などある訳ないと焦っているとクスリと兄の小さな笑い声が聞こえて思わずそちらを睨んだ。昔から兄には敵わない。
「午後の政務のお時間です」と従者が父王に告げると、父王は立ち上がり「必ずだぞ」と言い残し部屋を出ていった。
残されたクレエは兄を恨めしげに睨み、兄は楽しげに微笑む。
「どういうつもりですか!」
「どうもこうも、間違いだというのならいくらでも否定できたはず。そもそもクレエが見合い話に口を挟むことがおかしいのではないか?」
兄の言っていることは尤もだ。ただの友人であるクレエが王の元に訪れて直接意見するなんてお門違いもいいところ。これではレストの将来を邪魔しているだけだと唇を噛んだ。
「クレエ、お前は賢い子だ。自分の素直な気持ちを家族にも隠して、Ωだからと我慢して人の何倍も良い息子、良い弟であろうとしてくれた」
クレエの手を取って、兄は優しく語りかける。
「けれど、一番大切なものは簡単に手放してはならない。誰かと争うことになっても、譲れないと思えるのならそれを貫かねば一生後悔する」
「兄上……」
「いい加減、自分の気持ちを誤魔化すのはやめてきちんと向き合うのです。本当は、わかっているのだろう?」
兄に諭されて、クレエは言葉もなく俯いた。
本当は気が付いている。何故、こんなにもレストの見合い話が気になるのか。何とか見合いさせないように出来ないかと考えを巡らせているのか。
レストのことを、本当はどう思っているのか――。
「……玉砕したら慰めてください」
「その時は久しぶりに一緒に寝ようか? 子供の頃は怖い夢を見たと言っては私のベッドに潜り込んできて可愛かったものだ」
「そんなことは忘れましたっ」
ふふ、と声を出して笑う兄につられてクレエも笑ってしまう。
心が温かくなって、今なら何でも出来そうな気がした。
現イデアル国王は争いを好まず、政に関しても重臣たちと共によく話し合ってから決断し国民に不利益にならないよう心掛けている優しい王だ。国民はそんな王を少し頼りなく思いながらも、今の平和な暮らしがあるのは王のおかげだと敬っている。
後継者である王子は王の良いところを引き継ぎ、尚且つ賢く勇敢でカリスマ性がある。誰しもが次の国王の統治する未来のイデアル王国に期待していた。
国を護る騎士団も平和ボケなどせず鍛錬に勤しんでいる。中でも隊長のレストは銀の美しい毛並みをした狼の獣人で、その強さも圧倒的だった。
王国を取り巻く重臣や役職のある者の殆どはαと呼ばれる男女以外の第二の性別の者が多い。α性は優秀な遺伝子を持っていて、国王も王子もα性だ。イデアル王国ではα性のみが国王になれる為、王の子供で長子であってもα以外のβ性もしくはΩ性は王にはなれない。
諸外国はΩを軽んじ、その独特の性質を利用し奴隷にしたり娼館で働かせたり、政の道具として利用している。
それはΩ性にしかない発情期というもののせいだ。個人差はあるが、Ω性は他人を誘惑するフェロモンを自らの意思とは関係なく分泌する期間がある。この期間になるとΩは性欲を満たす事しか考えられなくなる。
このフェロモンに最も影響を受けるのがα性である。Ωのフェロモンを感じるとαも理性が保てなくなり、目の前のΩを無理やりにでも犯したくなる。その結果、Ωは壊れるまで犯され、望まぬ妊娠をしてしまう事もある。
しかしその体質を利用して発情期のΩをわざとαに差し出し、金儲けや交渉の切り札にする。Ωには人権というものが全くなかった。
そんな存在のΩを保護の対象としてαやβと同じ生活が出来るように取り計らったのが、現イデアル国王、その人である。
イデアル国王はまず発情期に安全に過ごせる様にΩ専用の施設を城内の敷地に建てた。そこはΩのみが出入り出来る場所で、警備にあたる者はΩのフェロモンに耐性がある番を持つαだけだ。
番はαとΩの間だけで成立する特別な関係。発情期中のΩと性交渉をしている最中にαがΩの項を噛む事で成り立つ。一度、番が成立するとそのΩのフェロモンは番になったαにのみ効果を示す為、他のΩが発情期になっても番のいるαは誘惑されない。
番は婚姻とも違う関係でその絆も深い。今までは利用され無理やり番にさせられたΩが多かったイデアル王国も、国王のΩへの政策が功を奏し、思い合う相手と番うΩが増えてきた。
この政策を知った諸外国に住むΩがイデアル王国に移住してくるようになり、発情期以外のΩ達は生きやすくなった。人口が増えたイデアル王国は働き手も増え、発情期ではない時のΩ達も一生懸命働いて国王に忠義を示した。
イデアル王国は長い歴史の中で今が一番平和で豊かな時を迎えて繁栄していた。
しかしその政策には秘密があった。王とその家族、そして重臣の極限られた者のみが知っている事実。
イデアル国王は国民に公表していない子供がもう一人いる。その子は産まれながらにしてΩ性であると判別された。α同士の婚姻をしてきた王家からΩが産まれるはずはなかった。当初、重臣達の間では王の妻である王妃の不貞を疑っていたが王がそれを否定し王妃を庇い続けた。
産まれたばかりの子がΩだと公表すればそれを利用しようとする者も出てくると予想され、王は子供を守る為にその子を我が子と認めた上で周囲には公表せずに密かに育てることにした。
その子が成長し、発情期を迎えた頃にΩが住みやすい国にしておかねばならないと決意した王は時間を掛けてその政策を実現した。
Ωの子供は性別など関係なく両親と兄に大切にされ、真っ直ぐに育った。
αであれば第二王子として表舞台で兄の補佐をする役割を担っていたであろうΩの子は、存在を公表していない為、政にも参加出来ず騎士団に入る訳にもいかず、ただ毎日を城の敷地内で目立たずに過ごすだけだった。
とても健康で大きな病気もせず、体力をつけこっそりと鍛えているのにΩの発情期が戦闘中に起こった時の混乱を防ぐためΩは騎士団にも入れない。自分の居場所が何処なのか彷徨い続けていた頃に見掛けたのが獣人の騎士、レストだった。
Ωの子は彼に憧れを抱いた。仲良くなって剣の技を鍛えてほしかった。騎士団には入れなくとも自分の身は自分で護れるくらいの強さが欲しかった。
王子である事を伏せて彼は騎士に理由を話した。強くなりたい、と。最初は渋っていたレストも騎士団の訓練が終わって他に予定がなければ相手にすると了承してくれた。以来、Ωの子は狼の騎士に挑み続けている。
怒りに任せて城内を歩いていたクレエは足を止めて方向を変えた。
政務を執り行う城とは別に、城内の広大な敷地には王族が生活をする宮殿がある。今の時間なら午後の執務を始める前の休憩時間だから王は宮殿の自室にいるはず。
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レストもその周りにいる騎士達も、城内で会う者達の誰もがクレエをたくさんいる下働きのうちの一人だと思っている。Ωにも積極的に仕事を与えている王は保護したΩ達をαに会う機会があまりない下働きや厩舎の馬の世話係などをさせていた。
城内で働いているうちは衣食住に困る事はない為、数人のΩが城で働いている。レストはクレエもその一人だと勘違いしていたが、クレエは訂正するつもりはなかった。
今まで存在を隠して生きてきた二人目の王子がクレエだなんて、きっとレストは信じないだろう。もしも信じてしまったらレストの強い王家への忠誠心から、もうクレエと気軽に過ごしたり出来なくなる。今の関係を気に入っているクレエにはそんなのは嫌だった。
「父上は中に?」
王の部屋の前にはクレエの事情を知る数少ない人間の一人が警護の為に姿勢良く立っていた。王がまだ即位する前からずっと王を警護してきたこの衛兵は出世を望めばすぐにでも高い地位にいける程の信頼を王から受けているのに、この場所を明け渡す気はないらしい。引退するまで一衛兵として王の警護をすると誓っている。
王は周りの臣下にとても恵まれていた。それは王の人柄によるものだ。
「これはクレエ様。ちょうど中におられます」
クレエに頭を下げてから王の自室の扉を叩くと衛兵は「クレエ様がお越しです」と中にいる王に向けて声をかけた。
王の返事も待たずにクレエは扉を開けて中に入る。
そこには丸いテーブルを間に挟み、豪奢な椅子に腰掛けお茶を飲む恰幅のいい王が目の前で同じくお茶を飲んでいるクレエの兄、スエラと談笑していた。
「おお、クレエ、よく来た。お前も一緒にお茶にしよう」
皺の寄った目元をさらに皺だらけにして王はうれしそうに微笑む。
「兄上も一緒でしたか。お茶は結構です」
椅子に座るように促す王にあえて立ったままクレエは腰に手を当てた。
結構です、と言ったのに王付きの従者がお茶を淹れ始めたのに気付きクレエは仕方なく椅子に腰掛けた。幼い頃から人の好意は無下にしてはいけないと教えられてきたクレエには、従者がせっかく淹れてくれたお茶も残すことは出来なかった。
「それで、今日は一体どうした? 呼んでもなかなか来ないお前が自分から来るとは」
父王はとにかく子煩悩で二人の息子をとても可愛がった。兄が跡を継ぐからと弟を蔑ろにはせず、弟がΩだからといって偏見の目で見ることもなかった。
限られた一部の人間しかクレエの存在は知られていないため、親子で過ごせる時間は少ない。この休憩時間は数少ない親子での交流が持てる時間の一つだ。
王はその時間によく息子たちを呼んでお茶を飲みながら他愛のない会話を楽しむのが何より好きで、クレエも三日と空けずに誘われる。しかしあまり頻繁に出入りしていると事情を知らない者に見られた時に困る。噂話にでもなればあっという間に広がる。父や兄に自分のことで変な噂話が流れたり、政の邪魔にだけはなりたくなかった。
だから誘われても最近は来ないようにしていた。クレエが王家のために出来ることは、目立つことなくひっそりと生きていくことだけ。自分の部屋から外に出る時は庶民の服装を着て、周りに人がいないかしっかり確認しないといけない。そんな生活をずっと続けていた。
服装一つ違うだけで誰も自分の事を第二王子だとは気付かない。Ωという性で産まれたおかげで王家の一員としての権限は殆どないが、発情期さえ気を付けていれば自由に動き回っても問題ない。レストに出会った時もクレエは庶民が着るような動きやすく、汚れても平気な服装だった為にレストに王子だとバレなかった。
「騎士団隊長のレストに見合い話を持ちかけたと聞きました」
本来なら当人同士の話だからクレエには関係ないがどうしても気になってここまで来てしまった。レストの見合い相手が誰なのか、どこまで話が進んでいるのか、気になりだしたら足が勝手に父王の部屋に向かっていた。
「ああ、その話か。宰相が自分の娘はどうかと言ってきてな。何度か会った事があるが気立てのいい娘だ、悪い話ではないだろう」
「宰相の……」
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「それがどうかしたか?」
「いえ……今までそういう話は本人があまり乗り気ではなかったので、今回もそうではないかと。王と宰相に言われてしまったら断りづらいですし……」
いっそ番にならないかと苦し紛れでクレエに言ってしまうくらい、レストはこの見合い話に乗り気ではないのは確かだ。けれど相手には何の問題もないのに何故そこまで結婚を嫌がるのかクレエは不思議に思った。
「ふむ……乗り気ではないか。しかし何故クレエがそれを心配するのだ?」
「え……」
それは、と言いかけて言葉に詰まる。
レストが結婚しようとも騎士団隊長であることに変わりはない。今までのようにレストに挑みにも行けるだろう。むしろもっと出会いを求めろと後押ししてやるのが王子としての勤めではないか。
「父王、クレエは隊長殿に結婚してほしくないのですよ」
優雅にお茶を飲む兄がクレエに微笑みかけながら言った。
「何故だ?」
「クレエと隊長殿は仲が良いですからね。時折、二人がお喋りをしているのを見かけますがとても初々しい様子で間に割って入るのも憚られます」
ニコニコと父王に報告する兄にクレエは驚きを隠せなかった。
レストとは密会をしていた訳ではないから後ろめたいことはないが、兄にはそんなふうに見えていたのかと恥ずかしくなる。
「クレエも遠回しに言わずにはっきりと父上に言えば良いではないですか。自分達の邪魔をするなと」
気のせいか兄はクレエの反応を楽しんでいるようだった。唖然としているクレエを笑顔で見つめている。
「なんと、二人はそんな間柄だったのか。それでは乗り気にもなりはしないだろう、レストには申し訳ないことをしたな」
「え、いや、父上っ……」
自分達はただの友人でそんな関係ではないと否定しなければいけないのに、心の中にいるもう一人の自分が「素直になれ」と引き止める。そんな感情に困惑して何をどうしたらいいのか浮かばない。
「クレエにも相応しい相手をと考えていたがレストなら申し分ない。この話、進展があれば以後必ず報告するように。わかったか、クレエ?」
「え、それはっ」
進展などある訳ないと焦っているとクスリと兄の小さな笑い声が聞こえて思わずそちらを睨んだ。昔から兄には敵わない。
「午後の政務のお時間です」と従者が父王に告げると、父王は立ち上がり「必ずだぞ」と言い残し部屋を出ていった。
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「どういうつもりですか!」
「どうもこうも、間違いだというのならいくらでも否定できたはず。そもそもクレエが見合い話に口を挟むことがおかしいのではないか?」
兄の言っていることは尤もだ。ただの友人であるクレエが王の元に訪れて直接意見するなんてお門違いもいいところ。これではレストの将来を邪魔しているだけだと唇を噛んだ。
「クレエ、お前は賢い子だ。自分の素直な気持ちを家族にも隠して、Ωだからと我慢して人の何倍も良い息子、良い弟であろうとしてくれた」
クレエの手を取って、兄は優しく語りかける。
「けれど、一番大切なものは簡単に手放してはならない。誰かと争うことになっても、譲れないと思えるのならそれを貫かねば一生後悔する」
「兄上……」
「いい加減、自分の気持ちを誤魔化すのはやめてきちんと向き合うのです。本当は、わかっているのだろう?」
兄に諭されて、クレエは言葉もなく俯いた。
本当は気が付いている。何故、こんなにもレストの見合い話が気になるのか。何とか見合いさせないように出来ないかと考えを巡らせているのか。
レストのことを、本当はどう思っているのか――。
「……玉砕したら慰めてください」
「その時は久しぶりに一緒に寝ようか? 子供の頃は怖い夢を見たと言っては私のベッドに潜り込んできて可愛かったものだ」
「そんなことは忘れましたっ」
ふふ、と声を出して笑う兄につられてクレエも笑ってしまう。
心が温かくなって、今なら何でも出来そうな気がした。
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