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―幸せのかたち― 6話
しおりを挟む夜の世界で十年間働いて、得た私の身体。
やっと心と体がひとつになって、鏡に映る自分の姿を真正面から見ることが出来た時。
今まで、何かに取り憑かれていたような思いが消えた。
もうこれで後の人生は静かに父母のもとで過そうと、私が傍にいることで少しでも親不孝の償いになるのなら。
家に帰る決心をした。
家に帰ると父は私の姿に驚いたが母は薄々感じていたようで、むしろ自分の罪のように私を抱きしめ謝った。
弟の宏之も最初は戸惑いやぎこちなさがあったけれど、私のことを受け入れ理解してくれるほど大人に成長していた。
かつての家族の形態は、時が魔法を掛けたように形を変えて再現された。
「ねぇ、マスター、会わなければ良かったのよ。あのままだったら良かったのよ」
カランと氷の音がして、何杯目かしら。
何杯飲んだかわからないくらい飲んでいるのに、ちっとも酔わない。
「何言ってるの、酔ってるよ、真澄ちゃん。いい加減ペースを落しなさい」
そう言ってマスターが次に作ってくれたのは、薄い水割り。
「酔ってなんかいないわよ! マスター! こんな水引っ込めてよ! 」
ダンッ!とグラスを置いたら、マスターは知らん顔なのにママがギロリと睨んだ。
「お静かになさって下さい。お客様でもお行儀の悪い娘は、出て行ってもらいますよ」
私への言葉なのにママの声は周囲にまで威厳が轟いて、カウンターに座っている客は一様に固まった。
「あははっ、久々に出ましたねぇ、ママの〝悪い娘〟」
マスターだけがママの威厳もどこ吹く風で、のん気な笑い声を上げた。
そして小声で私に耳打ちをした。
「真澄ちゃん、昔は〝悪い娘〟でよく叱られたよね。気をつけないとお客様でも次は追い出されるよ」
「マスターってば、嫌なことばかり覚えているんだから・・・」
―ママは私をとても可愛がってとても叱ってくれた人。マスターはいつも優しく慰めてくれた人―
心の拠りどころ。ここには私の居場所があるの。
「失礼します。お拭きいたします」
さっきグラスを乱暴に置いた際に零れてしまった水割りの滴を、サッと拭き取ってコースターも新しいものと敷き代える。
多少手際の良くなった坊やは、以前のおどおどした感じも消えて一人前に愛想笑いまでするようになっていた。
「・・・・・トモ君、だった? 」
カウンターの端っこで洗い物をしたりグラスを磨いたり、やけにテキパキ動く姿が目に付いた。
「はい!」
きびきびとした、夜の世界には似つかわしくない体育会系の返事と明るい笑顔。
「随分慣れたみたいね」
「ありがとうございます。篠田さん、ずっとお待ちしていました」
「なぁに?口までお上手になって」
前に来たのが夏だった。
透と揉めて八つ当たりに坊やの足をわざと踏んだ。
足を踏まれた私を待っていたなんて、社交辞令も行き過ぎると嫌味だわ。
「本当です。篠田さんは僕の憧れです」
若々しい屈託の無い笑顔が眩しかった。
ああ・・・どこかで見た笑顔。
十五歳。大人のずるさもなく、思春期特有の正義感と潔癖さに溢れた笑顔。
いつも眩しくて眩くて、大好きだった。
透の笑顔―――。
「ふ~ん、あなたいくつ?尤もこんなところで歳を聞いても、定かじゃないけど」
「二十歳です。学生・・・大学なんですけど休学していて・・・とりあえずお金が必要だったので。
・・・信じてもらえるかどうかは、この世界では相手次第だとマスターに教わりました」
―自称ばかりのこの世界で、相手の本当と嘘を見極めることが出来たら一流になれるよ―
「・・・あなたは私に信じてもらえたと思うの?」
「それはまだ・・・これからの僕次第です」
見極めることは自分を見極めてもらうこと。
見極めてもらうことは相手を見極めること。
夜の世界の論理は禅問答と似ている。
「正解ね。それじゃ改めて宜しくってことで、お代わり。ロックでちょうだい」
グラスの中のほとんど水をアイスボックスに捨てて、新しいグラスを要求する私に坊やのちょっと困った顔が、さらに彼の誠実さを引き出す。
人を見極めるのはそんなに難しいことじゃないわ。
瞬間を見る。
そんな些細な表情を見逃さなければいいだけのこと。
それが、自分を見失うと見えなくなるの。
わかっているのに・・・。
「店の子を困らすほど飲むなんて、俺はそんなに真澄に嫌な思いをさせたか?」
ひょいと空のグラスを取り上げられて、代わりのグラスがコトンと前に置かれた。
「俺もウーロン茶でいいよ。車で来たから。これに入れて」
横に座った透が、私のグラスを坊やに差し出していた。
「・・・私はお茶を飲みに来たわけじゃないわ」
代わりの琥珀色のグラスはウーロン茶だった。
グラスを返そうとする私の手を、横からすっと延びた手が握り締める。
「聞いているんだよ・・・真澄」
いつになく穏やかな透の口調。それが一層私の心をかき乱す。
「私の居場所はここしかないの・・・。私はあなたと会わなければよかった。
帰ってこなければよかったのよ」
今年の冬はいつまでも暖かくて、十二月第一週の日曜日、透の会社で家族参加の親睦会が開かれた。
晴天の下、広場を借り切って野外バーベキュー大会が催され、たくさんの家族連れで賑わった。
リクリエーションとはいえ、はじめて見る会社での透の顔。
同僚の男子や女子たちと楽しく歓談する姿は、何だか昔友達の輪の中でふざけ合っていた中学生の頃の透を思い出した。
眩しくて、眩かった。
何人かの上司と同僚の人たちとは結婚式で会っているので、私も全く知らない人たちばかりではなかったけれど。
「透、綺麗な奥さんだな。お前にはもったいないな」
透の同僚の人たちに冷やかされもしたけれど。
人と接するのは本職だったのに。なのに何故か躊躇する気持ちが擡げて、なかなか輪の中に入れなかった。
「篠田さんの奥さんですか!はじめましてー。エヘヘ、あの時はホントにご迷惑をお掛けしましたぁ!」
以前酔い潰れて透に介抱された女の子が、ちっとも悪気のない顔で私に謝りに来た。
とても可愛い女の子だった。
透の会社には、そんな若くて可愛い女の子たちがたくさんいた。
女の子たちのはじける様な笑い声や子供たちの歓声、その中に同僚の子供を抱き上げて嬉しそうにあやしている透がいた。
ちょっと切なくなった。
あまりにも透の笑顔が健康すぎるから。
「・・・真澄?可愛いなぁ、子供って」
透が私を抱くのは不毛なこと。
いいえそれよりも、私の居場所は透のところにはなかったの。
「どうして、真澄の居場所は一生俺のところだ。違うの?」
人目もはばからず、透が私の肩を抱き寄せて言い聞かすように話し掛ける。
こんな時は怒鳴らないなんて、また私は躊躇ってしまうじゃない。
「私は透に家族を作ってあげられない・・・。あなたは逞しくて、健康で、普通に結婚していたら・・・」
あの日の親睦会の時のように、自分の子供を抱き上げることが出来たはずなのに。
「・・・普通に結婚していたら?普通だろ?」
「普通じゃないわ!私は・・・」
「正真正銘、俺にとって最高の女だ。俺はそれ以上欲しいものはないよ」
そう言いながら、透は私を抱きしめた。息が詰まるほど。
行き場のなかった私の心が、透に吸い取られるようだった。
「それに、二人して両親の前で誓っただろ。
真澄は、勉強は出来るのにそういうことはすぐ忘れるんだな」
透は私が落ち着いたのを見計らって抱く力を緩めると、私の顔を覗き込むように言った。
―二人して、両親の前で誓ったこと―
私も透も、どちらの両親ともはじめて会うわけではなかった。
中学生時代は何度もお互いの家を行き来していた。
透と再会し再び付き合い始めてから暫くして、透のご両親とお会いした。
事前に透が話していたこともあり、物珍しげな驚きようはされなかった。
それよりもむしろ、中学生時代何度も家を行き来していた、そちらの方を懐かしがられた。
透のお義父さんもお義母さんも、昔お会いしていたままに普通に接してくれた。
しかしそれがあまりにも普通であることが、透とご両親の話し合いの激しさを容易に私に想像させた。
私の方の父は、ありがとうと透の手を取り、母はあなたのご両親に感謝いたしますと頭を下げた。
そして両家対面の日。
予約しておいた料亭の一室で、私と透両家の両親が向き合った。
机の中央に置かれた一枚の用紙。
『戸籍謄本』
私の性別欄が女性になっていた。
父と母は私が戻って来てから一年間、病院、カウンセラー、裁判所、県庁、市役所に何度も足を運び、私を名実ともに女性にしてくれた。
父はその戸籍謄本を透のご両親の前に滑らすように置き、自分はひとつ分体を下げて畳に手を付いた。
「たかが書類上のことですが、これが親として出来る娘への贖罪と、透君のご両親への証明です。
どうか娘を宜しくお願いいたします。透君には感謝しても仕切れません」
「手をお上げになって下さい。透たちのことは大人同士のことです。
もう昔のように、家にしばられる時代でもありませんしね」
「真澄さんのお人柄は中学生の頃からよく存じ上げております。
性別が変わっても、人としての基本は変わりませんでしょう」
「父さん、母さん、ありがとうございます」
透は自分の両親に向き直って、父と同じように畳に手を付いて頭を下げた。
父とお義父さんとお義母さん、透の4人が話しているのを、私と母は黙って聞いていた。
あれほど涙もろい母が、この時は父の横で毅然と背筋を伸ばし、一滴の涙も落すことはなかった。
「僕たちは孫をお見せすることは出来ませんが、人を羨むことなく、
子を育てるように慈しみ、助け合い、二人でひとつの人生を育んで行きたいと思います」
―透と同じ気持ちです。人を羨むことなく子を育てるように慈しみ、助け合い、二人でひとつの人生を・・・―
「思い出した?真澄」
忘れていたわけではないけど、人を羨んだつもりもないけど、あまりにも日々が・・・。
「幸せ過ぎるんだね。ひとつ満たされると次の欲が出てくるのと同じで、我が儘なお嬢さん」
「マスター・・・もう!よけいなこと言わないで」
透のためと思ったことは、本当は自分の欲だったのかしら。
あまりにも日々が幸せに過ぎて行くから、幸せの中のほんの少しの魔が私を我が儘にするの。
「風呂から上がったら、居ないんだからな。突然蒸発された方の身になって欲しいね。さっ、帰ろうか、真澄ちゃん」
「・・・・・・・・・イヤッ!!」
わざとらしくため息なんかついて、また目がギッて怒ってる。
「透!この子トモ君っていうんだけど、私に憧れているんですって!」
いきなり透の前で私への告白を暴露された坊やは、おどおどとすっかり以前と同じ状態に戻ってしまった。
「・・・・・君、こんな飲んべぇで我が儘なお姉さんが好きなの?」
「あの・・すみません!マスターに篠田さんのこと少し聞いて・・・。
ここで働いていた時のこととか・・で・・その・・・生き方が綺麗だなって感動して・・・憧れです! 」
顔を真っ赤にして直立不動の坊やに、マスターは私の何を話したのかしら。
感動するような話はないけど、余計な話ならたくさんあるわ。
ちらりと透の方を見ると、無言で帰り仕度を始めている。ちょっといい気分。
―透と私、二人でひとつの人生。それだけで充分だったはず―
「うふふっ、聞いたでしょう、透。あっ、そうだ、トモ君!あなたお金がいるって言っていたわね。
何に使うの?お姉さんが貸してあげる。その代わりあなた私付きよ!」
―それが、自分を見失うと見えなくなるの。わかっているのに・・・―
「もうすぐ彼女に子供が産まれるんです。学生の分際で堕ろせと親に言われて・・・。
今は家出同然ですが、いつかきちんとわかってもらうつもりです」
坊やに子供が・・・。
坊やの透に遠慮して引きつっていた笑顔が、誇らしげな笑顔に変わった。
初めて背負う親としての責任が、きっぱり言い切った言葉に託されているようだった。
「そう!子供が産まれるのか、それはおめでとう!お互い最高の女がいるわけだ!頑張れよ!」
トモ君に子供が出来ると聞いて、俄然張り切り出した透の声。
「きゃぁ! ! やっ・・透! 恥ずかしい! 降ろして! ! 」
透が私を掬い上げるようにして、抱きかかえた。
「さっきから帰るって言っているだろ。俺はこれから一人二役をしなきゃいけないんだ〝悪い娘〟のね、真澄ちゃん」
―・・・真澄?可愛いなぁ、子供って―
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―篠田のところは?まだか?―
―俺のところ?俺のところは女房と二人でひとつの人生さ。子を育てるように・・・・・・―
―慈しみ助け合う・・・か。それもいいな―
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