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序章
「日常Ⅱ」
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そういえば、説明し忘れていたことが一つ。これは今後の物語に大いに影響を及ぼす問題だ。
赤崎と緑間には、ほんの少しだけ他の人と違う―異質なところがある。どちらかと言えば悪い意味で、他の人達や―青子達とも違っているのだ。
それはお化け―俗に言う≪幽霊≫の類が見えるという点である。
しかもはっきりと、これ以上ないくらい鮮明に。
赤崎がそれに気づいたのは、ちょうど小学五年生くらいの頃だった。
『ねえ、祭。いっつも君の後ろにいる女の人、一体誰なの?』
『そんなもん俺が聞きてーよ…って、え?お前、まさかこいつが見えんのか?』
昔から緑間は、少し変わった子供だった。誰もいないところで急に話し出したり、誰もいないところを指差して、あたかもそこに何者かがいるかのように振舞ったり―そのおかげで、クラスメイトに気味悪がられたり、ひどい時はイジメられたりもした。
小学校高学年になってからは、“誰もいないところに何がいても気にしないように”務めるようになった。それを口にすると、自分がまた仲間外れにされてしまうのだと学んだからだ。だから彼は、目の前にあるものを、見て見ぬふりをして遠ざけるようになった。
だがある日、そんな赤崎の言葉を聞いて―驚いたように目を丸くした緑間は、それからくしゃりと顔を歪ませて、たくさん泣いた。安心したのだ、自分以外にも“視える人”がいたことに―自分だけが違うわけではないという事実に。勿論あの時の赤崎には、どういった理由で緑間が涙を流したのかわかっていなかったわけだが。
緑間は、物心がついた頃から≪幽霊≫が視えていたが、赤崎自身がそういった類のものを視るようになったのは、小学五年生の―ちょうど、赤崎の人生に一つの転機が訪れてからである。始めはぼんやりと、モヤがかかっていてはっきりと視えていたわけではなく、そもそもそれが≪幽霊≫であることにさえ気づいていなかった。
どうして突然、赤崎にも霊的存在が視えるようになったのかはわからない。もっとも、赤崎の家系―母と祖母も同じように霊感が強かったようなので、同じ血が流れている赤崎に霊が視えても、なんら不思議ではないのだが。
赤崎自身は緑間と違って視えるだけなので、生きていく上では特に問題はないし、「別にいっか」と楽観的に考えている。反対に緑間は、視えるだけでなく引き寄せてしまう霊媒体質である為、放っておけばいくらでも≪幽霊≫が寄ってくる、というのが現状だ。
ただ、緑間曰く「静と一緒だと霊が逃げていく」らしく、このことから≪幽霊≫の類を寄せ付けない力が、赤崎に備わっているかもしれないということがわかる。
このことは、同じように霊感の強い緑間の姉と、幼なじみの青子しか知らないが、近々後輩三人にも笑って話ができればいいと二人は思っている。受け入れてはもらえないかもしれないが、拒絶されることはないだろうと確信しているからだ。
「祭、今日家来る?」
放課後、上靴から少し汚れの目立つスニーカーに履き替えた赤崎が、若干自分より背の高い緑間を見上げつつ、いつものようにそう訊ねる。
返ってくる返事は、よほどのことがない限りいつも同じだ。
「おーどうせ家帰っても暇だしな。しょうがねえから行ってやるよ」
「頼んでないよ。恩着せがましいなあ」
「お前なあ…って、あれ、そういや静お前、バイトは?休みか?」
「あー…うん。まあ、休みといえば休み、かな。ていうか、多分、しばらく休み」
「……お前、また何かやらかしたな?」
核心をついた緑間のそれに、赤崎はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
「…ったく。バイトをクビになるなんざ、そうそうあることじゃねえぞ」
「今回は、割と長くもった方だと思うけどなあ…はあ、またバイト探さないと」
「いやだから、お前にバイトなんて無理だって何回も俺は言っただろ。そもそもなんでバイトするんだよ。何か欲しいものでもあるのか?」
緑間が、面倒くさそうな表情で溜息をつく赤崎に、もう何回目になるかわからない質問を投げかける。
「だから、内緒だって言っているじゃないか。でも…そうだな、欲しいものといえば、欲しいもの―なのかもね」
こんな風に、意味ありげな表情で答えを濁すことが、赤崎は常であった。特に、バイトのことに関しては頑なに口を閉ざすのだ。
そんな赤崎に対し、深追いするようなことを緑間はしなかったが、若干の違和感は感じていた。赤崎の性分をよくわかっていたから、尚更である。
それでも深く追及しなかったのは、ある意味彼の怠慢であったのかもしれない。
「まあ、話したくないなら別にいいけどよ…そんで、晩飯のリクエストは?」
俺に作れるモンなら何でも作ってやるよ、と緑間が得意げに言う。第三者から見れば、非常に癇に障る顔だっただろう。
だがしかし、彼の料理の腕は確かなもので、少なくとも今まで赤崎が食べたいと言って、緑間が美味しく作れなかったものはない。
本人は、趣味の範囲で料理を嗜んでいるだけだと言っているが、嗜む程度にカレーをルーから作ることを、人は趣味とは言わないだろう。将来料理店なんかを開けば、間違いなく繁盛するに違いない。
「うーん。今日は特にないかな。何でもいいよ」
「今日は、つうかここ最近ずっとそうじゃねえか。何でもいいっつうのが一番困るって、いつも言ってんだろ。それとも何、お前俺を困らせたいの」
口うるさいオカンのようなことを言う幼なじみである。
「うん」
とりあえず赤崎は首肯しておいた。
「否定しろ」
ぺちん、と緑間が頭をはたく。
毎日飽きることなく、こんな風に軽口を叩きながら、彼らは背中に影を背負って帰り道を一緒に歩いた。ここに時折青子や後輩達が加わることもあるが、基本的には二人で家へ帰ることが多い。
途中スーパーに寄って夕飯の材料を買い、その足でそのまま赤崎の家へと向かうのが―緑間にとっては常であった。そのまま赤崎の家に泊まっていくことも少なくはなく、もしかしたら緑間は、自分の家にいる時間よりも赤崎の家にいる時間の方が長いかもしれない。寝ている時間は別として。
と、ちょうど交差点を曲がったところで、緑間の携帯が鳴った。彼は赤崎に断ってから電話に出る。
「もしもし?…なんだ、青子か。え?ああ、静も一緒。これからスーパー寄ってこうと…は?お好み焼き?それお前が食いたいだけだろ…あ?あとから行くってお前な、それは俺じゃなくて静に…って、おい!待て!まだ話…」
どうやら途中で電話を切られたようで、面倒くさそうに溜息をついた緑間は、大人しくスマホを制服のポケットにしまい込んだ。
「青子、どうかしたの」
「ああ…なんか今日の晩飯お好み焼きにしろってさ。あとから響達と一緒にお前ん家来るってよ」
「よかったね、困っていた晩御飯が決まって」
「いや、論点はそこじゃねえよ?」
赤崎は適当に相槌を打ちながら、そっか。今日は青子達も来るのか。と、緑間の言葉を反復した。
今日はあのからっぽな家も、随分賑やかになりそうだ、と赤崎は思う。普段は緑間が行っているものの、あの広い家は二人では持て余してしまうのだ。油断すると、飲み込まれてしまいそうになる。
だが、少なくとも今日は、違うようだ。
「楽しくなるね」
「まあ…退屈はしねえな」
緑間が、横目でちらりと赤崎を窺う。その表情が、基本的には変化に乏しい赤崎にしては珍しく、心なしか嬉しそうに見えたからだ。
そんな幼なじみを見て、緑間は思うのだ―あとから辛くなるのは、お前の方なんだぞ、と。
楽しい時間なんてものは、あっという間に過ぎていく。世の中というのは不条理なもので、一秒でも長く続いてほしいと願う時間ほど、一秒一秒を短く感じてしまうのだ。
時間が来れば青子や響達は勿論、緑間でさえ自分の家に帰らなくてはならなくなる。
だが、赤崎はその後もたった独りであの家に残らなくてはならない。あのからっぽの家が、皮肉にも彼の帰る場所だからだ。
赤崎に両親はいない。だからあの広い家に、彼はいつも独りぼっちだ。
今日は青子達も加わって、いつもより賑やかな夜を過ごすことになるのだろう。だが、独りになった後の虚無感もまた、いつもの比ではないはずだ。
決して賑やかだけでは留まらない。彼には賑やかな夜の後に、逃れることのできない独りの夜が待っている。
赤崎にとって、“楽しい”と“寂しい”は同義だ。悲しいほどに。
悲しいまでに。
「…祭?どうしたの、さっきからずっとこっち見てるけど」
複雑そうな顔をして自分を見る緑間に気がつき、赤崎は首を傾げた。
だが、その形容し難い表情は赤崎が声をかけたと同時に崩れ、次の瞬間緑間の大きな手が彼の頭に乗った。
「いーや、なんでもねえよ。そんじゃお好み焼きの材料、買いに行くか」
「?うん」
一瞬。
本当に一瞬。
緑間の目が、悲しげに揺らいでいたように赤崎には見えた。
気のせいか、と赤崎は思った。
***
「お邪魔しまーす」
七時を過ぎた頃、青子達ご一行が赤崎の家へとやってきた。せかせかと準備をしている緑間を他所に、一応この家の家主である赤崎が、四人を招きいれる。
男二人の手にはスーパーの袋が握られており、中から2リットルのジュースや、山ほどのお菓子が顔を覗かせている。とても一日で消費できる量ではない。一体何次会までするつもりなのか。
嫌な予感がした赤崎は、おそるおそる青子へと訊ねた。
「…もしかしてお酒、買ってきた?」
「はあ…何言ってるのよ静。そんなの当たり前じゃない」
世間一般では、未成年が酒をあおるというのは、犯罪以外のなにものでもなく、少なくとも当たり前ということはないはずなのだが。
赤崎自身は、彼女に言ったところで全く意味のないことであると順々承知である為、今更なにを言うつもりはなかった。ただ、この涼しげな顔が、ほどなくして完全に崩れ去ってしまうという事実に溜息はつくが。
彼女の酒癖の悪さは天下一品である。
六人の中でもその恐ろしさを一番よく知っているのは優で、酒を飲む前から既に顔色が真っ青だった。何故なら、酔った青子に絡まれるのは、毎度毎度優の仕事であるからだ。女性恐怖症の彼からすれば、苦痛以外のなにものでもないだろう。
赤崎は二人から差し入れの入ったビニール袋を受け取り、リビングへと促す。テーブルでは緑間がプレートでお好み焼きを焼き始めていた。
「よう、やっと来たか。いらっしゃい。ま、適当に座っとけよ」
「あ、はい。お邪魔します…って、ここ祭さんの家じゃないですよね!?」
「あーうっせうっせ。いちいち細けえことを気にすんな。女子か」
「どういうまとめ方ですかそれ!?」
と言いつつ、響から順に適当に座布団の上に腰を落ち着ける。
「やっぱり料理だけは上手ですよね、まつり先輩」
「だけはってどういう意味だおいこら」
相変わらず皮肉を言う琴乃であったが、その言葉に嘘はなく、もう直焼きあがるであろうお好み焼きを、うずうずしながら見つめている。緑間は琴乃の憎まれ口に口を尖らせつつも、器用にヘラでお好み焼きを返し、出来上がった六枚を皿に盛った。ソースやマヨネーズを回し合い、かけたい分だけかけた後は、最後にかつお節を乗せて完成である。赤崎はその間に割り箸を用意し、青子はと言えば食器棚の引き出しから紙コップを持ち出し、買ってきたジュースを注いでいる。(あくまでジュースだけ)
勝手知ったる他人の家とはまさにこのことだが、赤崎はそれに関して特に気にしていない。
「紙コップなんて家にあったんだ」
「…とてもこの家の主人の台詞とは思えないわね」
昔から付き合いのある幼なじみの彼女は、驚くことに赤崎本人よりもこの家のことを熟知しているようだった。
ちなみに、青子が用意しているジュースは響と優のものである。せめて自分だけは規律を守ろうと徹底している優は、当然飲酒をしない。響にいたっては、飲めないわけではないしそこそこ酒に強くもあるのだが、アルコールを摂取すると眠ってしまう琴乃をおぶって帰るという使命があるので、できるだけ飲酒はしないようにしているのである。
勿論の如く、その他四名は酒を飲む。
「よっし。そんじゃ準備も整ったことだし」
意気揚々にビールを天井に向かってかかげる緑間に続き、その他五名もそれぞれ自分の飲み物を持ち上げる。
お好み焼き奉行というものは存在しないかもしれないが、見てわかるように緑間は場を仕切ることに長けている。というか、人の上に立って指揮を取るのがうまいのだ。彼の発言にはどこか説得力があるし、周囲の目を自分に向けさせることすら、彼にとっては朝飯前だと言えるだろう。
だから…というわけではないが、生徒会長というのは、ある意味緑間の性に合っているのだろう。
「あーこれといった理由はねえが、とりあえずかんぱーい!」
「「乾杯!」」
とにかく騒がしかった。騒ぎまくって、これでもかというほど笑って、思わず泣きそうになってしまうほど。
青子は極限状態にまで酔いが回ると、とんでもない魔物に変化する。キス魔になるのだ。誰彼構わず、というわけではなく、その矛先は必ずと言っていいほど優にしか向かない。
実は、酔っているふりをしてただ単に優をいじりたいだけなのではと思ってしまうくらいだ。普通酔っていれば、相手を選んでキスなんてできないだろう。今日も青子の毒牙を食らった優は、泡を吹いて失神した。
そして琴乃。彼女は酔うと語尾に「~にゃ」と付けるようになる。まるで猫のように―というか、完全に酔いが回ると口調どころの騒ぎではなく、行動一つ一つが猫に近くなる。
赤崎達の腕や、たまに壁なんかを使って爪を研いだり、猫が毛並みを整えるのと同じ要領で自分の手を舐めたり、誰彼構わずかまってサインを連射する。頭を撫でたり、あごをごろごろすると異常に喜ぶ。ちなみにこの状態の琴乃は一番緑間に懐いている。
響は、基本的に苦笑いをするだけでその中に混ざろうとはしない為、赤崎と他愛のないお喋りをすることが多い。
赤崎と緑間も酒を飲みはするが、後々厄介なこと(二日酔い、後始末に手が回らない等)になるし、いざという時にしっかりと意識を保っていられるようにとどこかブレーキをかけているので、飲んでも精々一缶程度だ。
両者共にかなり酒に強い為、その程度のアルコール摂取では、素面の時とあまり変わらないのである。
だから、アルコールに負けることはない。
スイッチの切り方は心得ている。
「おーい、もう十時だぞーそろそろ帰れー」
時間的に頃合いだと判断した緑間が、食い散らかした菓子の残骸や使った食器などをてきぱき片付けながら、全員に呼びかける。まだ意識のある赤崎と響は、共同して絨毯の上に突っ伏している三人を起こす作業に入った。
赤崎が、酔い潰れて眠っている青子の肩を揺らす。
反応なし。
「……」
彼女は、寝起きは悪くないのだが、起きるまでがやたらと長い。
「…ふう。青子、もう遅いからそろそろ―」
とりあえず、うつ伏せになっている彼女を反転させて仰向けにしようと決めた赤崎が、青子の両肩に手を添えてその華奢な体を動かす。
無事に仰向けにすることができたところで、赤崎の思考は一時停止した。青子の顔を見て、彼が「え」と思わず声を上げるまで、大分時間がかかったように思う。
しっかり者で、頼りになるお姉さんで、笑顔が良く似合う、ひまわりのような彼女が―泣いていたのだ。
泣いていると言っても、伏せられた目から涙が流れているというだけで、厳密にいうとそれは、“泣く”という行為とは違っていたかもしれないが。
どうしよう、と赤崎は戸惑う。
嫌な夢でも見ているのだろうかと赤崎は思った。だが、それはどうにも考えにくい。何故なら彼女は「私みたいな幸せ者が泣くだなんておこがましい」と、日頃よく言っているからだ。
泣かないことが、どういうわけか彼女が自分の心に誓った誓約なのである。
それは、生半可な誓いではないのだ―少なくとも、水沢青子という少女にとっては。
たとえそれがどんな悪夢であったとしても、そんな彼女が涙を流すというのはどうにも信じがたい。
では、何故彼女は泣いているのだろう。
「…か。しず…か」
「え、ぼ、僕?」
突拍子なく名前を呼ばれ、赤崎は大きく目を見開いた。
悲痛な声音だった。
依然として彼女は眠り続けているわけだが、寝言が自分の名前であったことに、涙の理由が結びついているような気がして、ますます赤崎は混乱する。
冷や汗が背中を伝い、起こそうにも起こしずらい状況に陥った赤崎は、青子を起こそうとした時と同じ態勢のまま、ぴたりと動けなくなってしまった。横から見ると、何かと勘違いされてしまいそうな構図であったが、彼女の涙の原因が自分だと思い込んでしまった赤崎に、そんなことを考える余裕はなく(元からこの態勢に意識もしていないが)、ただ悶々と自問自答を繰り返していた。
(青子が泣くようなことって…一体僕は何をしたんだ…ああ、考えたくない)
自問自答の行き着く先がとてつもなく最低なものでしかなかった為、赤崎のテンションは下がっていく一方である。
―と、そこで青子が小さく寝返りを打った。
目がうっすらと光を宿している。
あ、まずい。起きる。本能的に赤崎はそう感じ取った。
「ん…んん、しずか…?」
「…や、やあ」
とりあえず赤崎は、笑っておいた。
ノーリアクションで呆けた顔をする彼女に居たたまれなくなったのか、赤崎が気まずそうに目をそらした。青子の酔いは完全に醒めているようで、いつものきりっとした目つきに戻っている。
だが―涙の跡は、消えてはいない。
「その…嫌な夢でも見たの?泣いてたみたいだけど」
え、と今度は青子が驚いたように目を見開く。どうやら頬を伝う涙に気がついていなかったようだった。そっと手を伸ばした赤崎は、彼女の頬を優しくなぞった。
「な…泣いてた?私が?」
彼女は、信じられないとでも言いたげな目をしている。
「うん。寝言で“静”って僕の名前を呼んでて…なんか、ごめん」
肩を竦めて申し訳なさそうに謝る赤崎に、青子は慌てて―そしてまた、彼女の頬を涙が伝った。赤崎がギョッと目を見開いたのは言うまでもないだろう。
ぽろぽろと溢れる涙を否定するように、青子は必死にそれを拭った。
「ちが…違うの。違くて。静のせいじゃ、ないから…ほんとに、違うから」
「青子…」
こんな風に泣く幼なじみを見るのはいつぶりだろう、と赤崎は少しズレたことを思った。
その姿はとても頼りなく、思わず赤崎は身を乗り出した。
赤崎の手が、青子の頭を撫でる。すると彼女はまた泣き出した。
「ごめ…ごめんね。泣きたいのは私じゃ、ないのに」
「…謝る必要はないよ。泣きたい時は泣けばいい」
彼女は何度も「ごめん」と「ありがとう」を繰り返す。
何故彼女が謝るのか―一体誰にありがとうと言っているのか。
赤崎にはわかりそうで、わからなかった。
「わっどうしたんですか青子さん!」
優を起こしにかかっていた(琴乃のことはおぶって帰るので起こさない)響が、青子の涙を見て赤崎のようにギョッと目を見開いた。青子の方はと言えば、今初めて響の存在に気がづいた―というより、ここが赤崎の家だということをようやく思い出したようで、慌ててごしごしと涙を拭う。
ぼんやりと覚醒していた優は青子の涙を見て固まっていた。
「おいお前ら、さっきから青子青子って一体何が…」
そして、騒ぎを聞きつけた緑間が、食器洗いを中断して赤崎達の方へ駆け寄ってくる。
青子と目が合った緑間は途端に表情を固くしたが、驚いた様子はなかった。
「青子」
ただ一言、緑間がそう言った。同時に、二人の表情が微かに歪む。
だが、それは本当に刹那のことで、おそらくその微妙な表情の変化に気がづいたのは赤崎だけだ。
祭、と青子が小さく彼の名を呼んだ。呼んだというより、ただ読んだだけという表現の方が、正しいかもしれない。
二人の間になんらかの意思の疎通があったようで、青子は次第にいつものような落ち着きと笑顔を取り戻していった。
「…わかってる、祭。…ごめんね、静、響。もう大丈夫。ちょっと夢見が悪かっただけなの。だから心配しないで?」
「なら…いいんですけど」
響はあまり状況をよく理解できていなかったが、とりあえずいつものような笑顔を浮かべた彼女に安堵したようで、それ以上は追及しなかった。
赤崎の方はといえば、何かを取り繕うとするそんな幼なじみの物言いに、引っかかるところが幾つかあったものの、何も言わなかった。
涙の理由はもっと別のところにあるのでは、と赤崎は思ったのだが、それを深く追求することは、彼女を困らせてしまうだけなのだろうとわかったので、やむを得なく「よかった」と相槌を打つだけにしておく。
「ったく、紛らわしいことをすんなアホ。おらおら、とっとと荷物まとめやがれお前ら。もう十時回ってんだぞ!」
やれやれと言った風に呆れ顔で溜息をついた緑間が、ビシッと散らかっているテーブルやソファ周辺を指差して、再び台所の方に引っ込んでいった。
「お邪魔しましたー」
いつものように、気持ちよさそうに寝息を立てる琴乃をおぶり、未だにげんなりとした顔をしている優と一緒に、響は一足先に帰っていった。
次いで帰ろうとしたのは青子だったが、やはりまだ浮かべる笑顔にぎこちなさが残っているように思え、独りで帰らせるにはあまりに頼りなかった。
赤崎の家から青子の家までそう距離はないが、あんな泣き顔を見せられた赤崎としては、一人暗い夜道を歩く彼女の姿に不安が過ぎる。
「祭ももう帰りなよ。後片付けは僕がやっておくから」
というわけで、赤崎はもう一人の幼なじみに、青子のことを家まで送らせることにした。緑間の家は青子の家の真向かいにあるので問題はないだろう。
「…は?」
さも当たり前のように、帰る三人を見送るポジションにいた緑間が、その言葉にぽかんと口を開け数秒呆然とした。心底驚いたような顔をする幼なじみを見て、どうやら彼はまだこの家に居座るつもりだったようだ、と赤崎は思った。もしかしたら、泊まっていくつもりだったのかもしれないが。
我に返った緑間は、意味がわかりませんと顔で主張した。
「いや、お前に片付けとか無理だろ」
「まあ確かにそうなんだけど…青子を一人で帰らせるのは、どうにも不安だし」
「いや、でも…」
「でも?」
珍しいこともあるものだと、赤崎は少し意外そうに緑間を見た。
こんな風に決断を迫られたり、頼みごとをされた時に、緑間が渋ったり即決できなかったりすることはまずないのだが、今日は珍しく迷っているようだった。赤崎は、何をここで迷う必要があるのだろうと不思議に思う。
しばらく赤崎と青子を交互に見ていた緑間だったが、ここでようやく「わかった」と返事をし、エプロンを脱いでリビングに鞄を取りに行った。
そんな彼の様子を不思議に思った青子が首を傾げる。
「?祭、どうしたの?」
「もう帰ってって言ったんだ。青子を一人で帰らせたくなかったから」
それを聞いた青子が、バツの悪そうな顔をした。
「さっき私、もう大丈夫って言ったじゃない…別に一人でも」
「うん。でも、ひとりは寂しいから」
ね、と笑う赤崎に、青子は何も言わず、俯いた。
ほどなくして緑間が鞄を肩にかけて戻ってきた。そして、申し訳なさそうに赤崎に謝る。
「悪いな。最後までやっていけなくて」
「僕が頼んだんだから君が謝る必要はないよ」
何か言いたげに口を開いた緑間だったが、結局思い留まったのか「おう」とだけ返し小さく手を挙げた。
青子は伏せていた顔を上げ、思いつめた表情で赤崎を見つめる。その表情は、彼女のことをよく知っている人から見れば、どこか迷っているようにも見えただろう。
彼女もどちらかと言えば緑間に近いタイプで、基本的に物事に対してはっきりとした態度を示すので、珍しく迷っている様子の青子に赤崎は首を傾げる。
「青子?」
どうしたのかと赤崎が訊ねる前に、彼女はぱっと目をそらしてにこっと笑った。いつもの笑顔と違うことがわかってしまったのは、やはり幼なじみとして一緒にいた期間が長すぎたからだろう。おそらく青子の方も、赤崎がその笑顔の不自然さに気づいたことに、気づいているはずだ。
ふと、青子が背伸びをした。
赤崎は彼女に手を引かれ、そのまま下方に引っ張られる。
彼女の真意が、手を引かれた時点でなんとなく赤崎には想像できた。
二人の唇が重なる。
とは言っても、恋人同士で行われるような息が詰まるほどに深いものではなく、軽く触れるだけのキスだったわけだが。勿論赤崎と青子は恋仲ではないので、当たり前と言えば当たり前なのだろうけれど。
「…またね、静」
そっと唇が離れ、同時に別れの挨拶を告げた彼女は、ひらひらと手を振って家を出て行った。残されたのは赤崎と緑間だけである。
やり逃げをされた赤崎はと言えば、特に赤面するわけでもなく、名残惜しいと思うわけでもなく、ただ呆然と突っ立っていた。
青子は過度にスキンシップを取りたがる。
今では大分丸くなったのだが、昔は誰彼構わず男女問わずに、よく軽いキスをしていた。彼女にとっては、挨拶のようなものだったのだろう。そして言わずもがな、幼なじみである赤崎と緑間も、彼女とのキスは数え切れないほど経験している。
だが、ある時期を境に彼女は、“誰彼構わずのキス”をやめた。そしてそれ以来、その時期が来ると、赤崎にだけ昔のようなキスをする。
変わらないフレンドキスを。
「…祭」
「なんだよ、静」
「今日、何日」
基本的に赤崎は、昨日が何月で今日が何日で明日が何曜日なのかを気に留めない。学校がある日と学校がない日、赤崎の中ではそれが軸であり。取り立てて覚えようとは思っていない。
昨日が何月で今日が何日で明日が何曜日なのか―彼には興味がないからだ。
「三十日だよ。ついでに言うと、明日から七月」
「…そっか」
やっぱり、という赤崎の小さい呟きを耳で拾い、緑間はバツの悪そうな顔をした。
つまるところ―青子が今日響達を引き連れて家に来たのも、涙を流していたのも、思いつめた表情をしていたのも、帰り際にキスをしたのも全て―そういうことだったのだ。
もう、そんな時期だったのか。赤崎は他人事のようにそう思う。
「静」
幼なじみに名前を呼ばれた赤崎は、はっと我に返った。なに、と顔を上げた赤崎の額を、すかさず緑間がピンと小突く。
痛みはなかったものの、赤崎は反射的に両手でその場所を押さえた。
「流石に青子みたくキスは無理だからな」
「別に期待してない…」
けらけらといつものように緑間は笑った。彼のこういうところに、赤崎はよく救われている。
おそらく彼はこれからも、そうして無意識の内に周りの誰かを救っていくのだろう。
今赤崎が救われているように。
「なんだよ静、ぼーっとして」
「…なんでもない。それよりほら、早く行かないと追いつけなくなるよ」
先に行ってしまった青子を追いかけるよう赤崎が促すと、「それもそうだな」と彼は靴を履いた。そして、青子同様ひらひらと手を振る。
「じゃ、また明日な。静」
「…うん、また明日」
最後の緑間が帰り、バタンと無機質にドアが閉まった。
今このからっぽの家にいるのは、どうしたって赤崎だけだった。先ほどまでの明るさは何処にもなく、例え家中の明かりを全て付けたとしても、彼の内に芽生えた虚無感は失われることはないだろう。
どうしてこれほどまでに、失いたいものほど消えてはくれないのか。
どうしてこれほどまでに、失いたくないものばかり。
「…片付け、しなきゃね」
そして今日も彼は、楽しさの残骸を寂しさとして吸収していく。
***
赤崎の家を出てすぐに、緑間は先に行ってしまった青子のあとを追った。結構な時間差ができてしまったから、それなりに距離は離れているだろうと思い、小走りになった矢先目的の彼女を見つけ、緑間は少し拍子抜けしてしまった。
いつもなら「先に行くなよ」とでも言っているのだろうが、それが今の青子にとって酷なことであったということは、緑間にもわかっている。伊達に幼なじみはやっていない。
おそらくあのまま赤崎の家にあと一秒でもいれば、彼女は泣いてしまっていただろうから。
「そこの綺麗なお嬢さん。俺と少し遊びませんか」
「…はは、下手なナンパね」
緑間が後ろから声をかけると、彼女は頼りなさげに眉をさげ、振り返った。その目に涙はなかったが、あと少し経てば直に封は切れるだろう。
赤崎が知らないだけで、青子はよく泣いている。ただ、赤崎の前でだけは泣かないようにしているだけで。
二人は肩を並べて夜道を歩く。帰る方向が一緒なので、送るまでもなく帰り道は一緒だ。
影を連れ歩き、しばらく人気のない道を彼らは沈黙を保って歩いていたが、クスという小さな笑い声と共に青子が動いた。手を引かれ、やばいと緑間が思った時には既に遅く、青子は自分の唇を緑間のそれに重ねた。
「はい、これで静とも間接キス」
「毎年思うけど、マジ意味わかんねえ…」
赤崎ほどポーカーフェイスが得意でない緑間は、すぐに感情が顔に出てしまうので、声音は普段通りを装ってはいるものの顔は真っ赤だった。これが夜でなければ、間違いなく青子に気づかれていただろう。そして、確実にからかわれていたに違いない。
まあ、その逆も然りで、彼女の方も若干顔が赤かったわけだが、夜だったので緑間は気づかなかった。
「今日静にキスしたのは…もうすぐあいつの誕生日だからか」
「そう、ね。どちらかと言えば、“消えた一週間”が始まったからなんだけど」
六月三十日から七月七日。
それを緑間と青子は、“消えた一週間”と呼んでいる。
ちょうど今から七年(もうすぐ八年)ほど前。まだ彼らが十歳だった頃の話だ。赤崎家と緑間家と水沢家は昔から親同士で交流があり、その関係で三人はよく一緒に遊んでいた。その頃はまだ赤崎の両親、そして青子の両親も健在していて、今ではとても考えられないほど毎日が充実していた。
特に赤崎の両親は仲の良い夫婦だと近所でもお墨付きで、離婚など無縁な話だろうと思われていた。
だが、ちょうどその年の六月、その頃から―赤崎の両親は、少しずつすれ違い始めたのである。頻繁に赤崎を緑間か青子の家に預けるようになり、毎晩遅くまで口論のぶつかり合いが続いていたらしい。いがみ合いの原因は未だ不明だ。
そして“消えた一週間”の一日目―八年前の今日、恍惚と赤崎の両親が行方をくらませた。まだ十歳だった赤崎を置いて、だ。
だが、それだけに留まらず、いつまでも帰ってこない両親を不安に思い、“消えた一週間”の五日目に赤崎も姿を消した。信じられないことに、十歳の少年が、両親を探しに一人で外の世界へ飛び込んだのだ。
だが、“消えた一週間”の最終日―そう、七月七日。
皮肉なことに、その日は赤崎の誕生日であった。
その日、隣町で行き倒れていたところを赤崎は通報され、病院へと搬送された。原因は栄養失調と過労。体力の乏しい幼児の体が、二日間も飲まず食わずで持つはずがなかったのだ。
連絡を受けた緑間家と水沢家は、急ぎ赤崎が運び込まれた病院へと向かい、そこで信じられない光景を目の当たりにしたのである。
行方をくらませていた赤崎の母親が―点滴を受けて眠る自分の息子の首を、絞めていたのだ。
間一髪のところで間に合った緑間家と水沢家によって、彼女のそれは殺人未遂に終わったが、最後に赤崎の母親は、自分の息子の誕生日にこんなことを言い残した。
“あんたなんか、生まれてこなければよかったのに”と。
そしてそれ以来、再び赤崎の母親の行方も掴めなくなった。
それが“消えた一週間”。
そして今日は―一日目。赤崎の両親が姿を消した日である。
それを知っているのは緑間家と水沢家、あとは赤崎の母方の祖父母である藤黄家だけだ。
「お前、わかりやすすぎんだよ。気づいちまったぞ、あいつ。もうそんな時期なんだって」
「あはは、今年もやっぱり今の今まで今日が六月三十日だってことに気づいてなかったのかー静は」
そう、赤崎は思っていただろう。今日、青子がわざわざ響達までもを引き連れて赤崎の家にやってきたことに、特に理由はないんだと―そう思っていたに違いない。つい先ほどまで。
赤崎の両親が消えた一日目。だからこそ、今のあなたの周りにはこんなにたくさんの人がいて、誰もあなたを置いていったりはしないから―と、そんな意味を込めたいと青子は思っている。だからその為に、大勢で楽しく過ごそうと決めていた。
だが、どうしても緑間には、あとから独りあの家に残される赤崎のことを思うと、むしろ古傷に塩を塗りこんでいるようにしか思えないのだ。
「…これでも一応、わかっているのよ、それくらい。祭に言われなくたって」
自分がひどいことをしているって自覚は、ちゃんとある。青子はそう言った。
ぴたりと彼女が足を止めたので、緑間もそれにつられて立ち止まる。青子の顔は伏せられていたが、アスファルトに転々としみができていることに緑間はすぐ気がついた。
「でも、こんな日だからこそ、傍にいたいの。少しでも傍で静と、喜びや悲しみを共有したい。祭だって、そう思っているでしょう?」
涙に濡れた声は震えていた。
彼女があまりに頼りなく感じられ、掴まえておかなければどこかにふらっと消えてしまいそうだと緑間は思った。ほとんど無意識の内の手を伸ばした彼は、そっと包み込むように彼女の体を抱きしめる。
青子は腕を回すことはせずに、ただ彼のYシャツを力なく握るだけであった。それはまるで縋るように、何かを緑間に訴える。
七年前の“消えた一週間”を境に、彼女は全くと言っていいほど人前―否、赤崎の前では涙を見せないように生きてきた。理由は、七年前の七月七日に、赤崎が泣かなかったからだ。
両親に置いていかれ、本来ならば祝福されるはずだった誕生日に自分の生を否定されて尚、わずか十歳だったにも関わらず赤崎は泣かなかった。
だから青子は決めたのだ。今目の前には自分よりもずっと辛い状況に身を置いている人がいて、それを不幸だと達観していながら、その人が涙を流すことをしないなら―その人よりもずっと幸福である自分が涙を流すだなんておこがましいと。
だから自分は、決して涙を見せないようにしようと。
だが、青子も人間で、それに加え女である。これから一生涯泣かないことなどできるはずがない。ならばせめて赤崎の前では涙を見せずに生きていこうと、心にそう留めたのだ。
泣けない赤崎の代わりに涙を流すのは、自分の役割ではないのだろうと、彼女自身どこかでわかっていたから。
「…そうだな。助けて、とは縋ってこない奴だ。だったら、俺達がいつも傍で手を伸ばしておかねえとな」
優しく、宥めるように緑間は青子の背中をさすった。
「…うん」
「その為にもまず、その情けない面をどうにかしないとな。お前には笑顔が似合ってんだ、いつでも笑ってろよ」
「…はは、さっきのナンパよりも、ずっと上手い殺し文句」
二人は小さく笑った。
「今年の七夕も盛大に盛り上げてやらないとな」
静の誕生日を祝うことはしなくなった。他でもない赤崎静自身がそれを望んだからだ。
だから七年前の七月七日以降、赤崎にとって七月七日は自分の誕生日ではなく、七夕という意識の方が強くなり、誕生日パーティではなく、七夕パーティを開くようになった。
だから毎年、短冊に願い事を書いて葉竹に吊るすことはあっても、誕生日ケーキを用意することはしなかった。
おそらくそれが、赤崎にとっての誕生日プレゼントになるのだろうと思っていたから。
「…ええ、そうね。そうよね、祭」
「お、やっといつもの顔に戻ったな。青子」
抱きしめていた青子の体を解放し、再び夜の道を二人は歩き始めた。
このままではダメなんだろうと、心のどこかでわかっていながら―それでも彼らは、何も出来ずにいた。
いつかそのことを、後悔する日が来るとも知らずに。
「…ふう」
大雑把だが片付けを一段落終えた赤崎は、ぼすっとソファにダイブして寝転がった。
着替えるのが面倒だった彼は、帰ってからも制服のままでいた為、このまま間違って眠りでもすれば、Yシャツなり制服なりにしわがつくのは確実だった。まあ、しわがついたところで、良く出来たあの幼なじみが丁寧にアイロンをかけてくれることはわかりきっていたし、元々自分の身なりにあまり関心がない赤崎は、勿論そんなことをいちいち気にしたりはしない。
このまま寝てしまいたいという気持ちもあったが、明日の仕度も風呂も済ませてはいなかったし(そんなものは明日の朝やればいいという思いの方が強かったりするが)、何より眠れそうな気分ではなかった―このまま眠ってしまえば、確実に悪夢を見るだろうという確信にも似た思いがあった為、夢への舟こぎはもうしばらく後になりそうだった。
「…あ」
(日付が変わった)
ふと目に入った掛け時計を見やると、ちょうど秒針が十二の文字盤を通り越し、日付が明日に変わった。
祭の話によると今日―否、昨日は六月三十日だったらしく、日付の変わった今日は、考えるまでもなく七月一日ということになる。
それがどうしたと聞かれれば、別にどうということはない。
赤崎にとって今日の七月一日に意味はないからだ。彼にとって意味を持つのは、八年前の今日だけである。少なくとも赤崎にとって、十八歳で迎えた七月一日と十歳の頃に迎えた七月一日は同じではない。
あの一週間は終わったのだ、八年前に。
(だから、祭や青子が、あんな顔をする必要はないんだ)
あれは赤崎の過去の事情であり、全くとは言わないまでも二人には関係がない。緑間と青子まで同じ傷を背負う必要はないのだ。
僕の傷は、いつまで経ってもどこまでいっても僕の傷―それが、赤崎の考え方である。
だからこそ、たとえ二人の気持ちは嬉しくとも、できることならこんな醜い傷を抱えてほしくはなかったのだ。それはきっと、いつかどうしようもないほどに、彼らの足枷になるだろうから。
「本当は…離れられれば、一番良いんだろうけど」
そう、赤崎が離れることを選べるのなら。
彼らは少なくとも、赤崎のことで悲しみに暮れたりはしなくなるだろう。
それができれば、彼らはおそらく救われるのだろうけれど。
「それは…やっぱり嫌だなあ」
もしも今二人を失えば、赤崎はおそらくまた、生きる意味を見失ってしまうだろう。七年前の、あの日のように。
(そうしたら、きっと―僕はもう、この世にはいられない)
「…結局僕は、自分を甘やかしたいだけなんだろうね」
そしてそんな彼に対し、緑間と青子はとことん甘かった。そしておそらく、二人はそれを苦痛には思っていないのだろう。
だから赤崎は振り切ることができずに、ぬるま湯の中から抜け出せないままでいる。
向き合わなければならない過去と、向き合おうともしないで。
「…もう、寝ようかな。やっぱり」
ふああ、と欠伸をし、赤崎は大きく伸びをした。
相も変わらず制服のままで、明日の仕度も風呂もやるべきことは何一つ終わってはいないのだけれど、「ま、明日でいっか」と彼は全てを投げ出した。
ベッドへ行くか迷ったが、如何せん動くのが面倒だった赤崎は、手近にあった座布団を半分に折って枕代わりにし、そのままソファで寝ることにした。
寝心地は悪いだろうし、朝目が覚める頃には体中が痛くなっているだろうけれど、それでも良い夢が見られるはずだ。リビングにはまだ、楽しさの残骸が残っている。
電気もテレビも付きっぱなしだったが、そんなものはお構いなしだ。
「…おやすみ」
ゆっくりと目を閉じ、赤崎は小さくそう呟いた。それが誰に対して発せられた言葉であったのか、それを知る術はここにない。
からっぽの家に、今日も彼は独りだから。
赤崎と緑間には、ほんの少しだけ他の人と違う―異質なところがある。どちらかと言えば悪い意味で、他の人達や―青子達とも違っているのだ。
それはお化け―俗に言う≪幽霊≫の類が見えるという点である。
しかもはっきりと、これ以上ないくらい鮮明に。
赤崎がそれに気づいたのは、ちょうど小学五年生くらいの頃だった。
『ねえ、祭。いっつも君の後ろにいる女の人、一体誰なの?』
『そんなもん俺が聞きてーよ…って、え?お前、まさかこいつが見えんのか?』
昔から緑間は、少し変わった子供だった。誰もいないところで急に話し出したり、誰もいないところを指差して、あたかもそこに何者かがいるかのように振舞ったり―そのおかげで、クラスメイトに気味悪がられたり、ひどい時はイジメられたりもした。
小学校高学年になってからは、“誰もいないところに何がいても気にしないように”務めるようになった。それを口にすると、自分がまた仲間外れにされてしまうのだと学んだからだ。だから彼は、目の前にあるものを、見て見ぬふりをして遠ざけるようになった。
だがある日、そんな赤崎の言葉を聞いて―驚いたように目を丸くした緑間は、それからくしゃりと顔を歪ませて、たくさん泣いた。安心したのだ、自分以外にも“視える人”がいたことに―自分だけが違うわけではないという事実に。勿論あの時の赤崎には、どういった理由で緑間が涙を流したのかわかっていなかったわけだが。
緑間は、物心がついた頃から≪幽霊≫が視えていたが、赤崎自身がそういった類のものを視るようになったのは、小学五年生の―ちょうど、赤崎の人生に一つの転機が訪れてからである。始めはぼんやりと、モヤがかかっていてはっきりと視えていたわけではなく、そもそもそれが≪幽霊≫であることにさえ気づいていなかった。
どうして突然、赤崎にも霊的存在が視えるようになったのかはわからない。もっとも、赤崎の家系―母と祖母も同じように霊感が強かったようなので、同じ血が流れている赤崎に霊が視えても、なんら不思議ではないのだが。
赤崎自身は緑間と違って視えるだけなので、生きていく上では特に問題はないし、「別にいっか」と楽観的に考えている。反対に緑間は、視えるだけでなく引き寄せてしまう霊媒体質である為、放っておけばいくらでも≪幽霊≫が寄ってくる、というのが現状だ。
ただ、緑間曰く「静と一緒だと霊が逃げていく」らしく、このことから≪幽霊≫の類を寄せ付けない力が、赤崎に備わっているかもしれないということがわかる。
このことは、同じように霊感の強い緑間の姉と、幼なじみの青子しか知らないが、近々後輩三人にも笑って話ができればいいと二人は思っている。受け入れてはもらえないかもしれないが、拒絶されることはないだろうと確信しているからだ。
「祭、今日家来る?」
放課後、上靴から少し汚れの目立つスニーカーに履き替えた赤崎が、若干自分より背の高い緑間を見上げつつ、いつものようにそう訊ねる。
返ってくる返事は、よほどのことがない限りいつも同じだ。
「おーどうせ家帰っても暇だしな。しょうがねえから行ってやるよ」
「頼んでないよ。恩着せがましいなあ」
「お前なあ…って、あれ、そういや静お前、バイトは?休みか?」
「あー…うん。まあ、休みといえば休み、かな。ていうか、多分、しばらく休み」
「……お前、また何かやらかしたな?」
核心をついた緑間のそれに、赤崎はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
「…ったく。バイトをクビになるなんざ、そうそうあることじゃねえぞ」
「今回は、割と長くもった方だと思うけどなあ…はあ、またバイト探さないと」
「いやだから、お前にバイトなんて無理だって何回も俺は言っただろ。そもそもなんでバイトするんだよ。何か欲しいものでもあるのか?」
緑間が、面倒くさそうな表情で溜息をつく赤崎に、もう何回目になるかわからない質問を投げかける。
「だから、内緒だって言っているじゃないか。でも…そうだな、欲しいものといえば、欲しいもの―なのかもね」
こんな風に、意味ありげな表情で答えを濁すことが、赤崎は常であった。特に、バイトのことに関しては頑なに口を閉ざすのだ。
そんな赤崎に対し、深追いするようなことを緑間はしなかったが、若干の違和感は感じていた。赤崎の性分をよくわかっていたから、尚更である。
それでも深く追及しなかったのは、ある意味彼の怠慢であったのかもしれない。
「まあ、話したくないなら別にいいけどよ…そんで、晩飯のリクエストは?」
俺に作れるモンなら何でも作ってやるよ、と緑間が得意げに言う。第三者から見れば、非常に癇に障る顔だっただろう。
だがしかし、彼の料理の腕は確かなもので、少なくとも今まで赤崎が食べたいと言って、緑間が美味しく作れなかったものはない。
本人は、趣味の範囲で料理を嗜んでいるだけだと言っているが、嗜む程度にカレーをルーから作ることを、人は趣味とは言わないだろう。将来料理店なんかを開けば、間違いなく繁盛するに違いない。
「うーん。今日は特にないかな。何でもいいよ」
「今日は、つうかここ最近ずっとそうじゃねえか。何でもいいっつうのが一番困るって、いつも言ってんだろ。それとも何、お前俺を困らせたいの」
口うるさいオカンのようなことを言う幼なじみである。
「うん」
とりあえず赤崎は首肯しておいた。
「否定しろ」
ぺちん、と緑間が頭をはたく。
毎日飽きることなく、こんな風に軽口を叩きながら、彼らは背中に影を背負って帰り道を一緒に歩いた。ここに時折青子や後輩達が加わることもあるが、基本的には二人で家へ帰ることが多い。
途中スーパーに寄って夕飯の材料を買い、その足でそのまま赤崎の家へと向かうのが―緑間にとっては常であった。そのまま赤崎の家に泊まっていくことも少なくはなく、もしかしたら緑間は、自分の家にいる時間よりも赤崎の家にいる時間の方が長いかもしれない。寝ている時間は別として。
と、ちょうど交差点を曲がったところで、緑間の携帯が鳴った。彼は赤崎に断ってから電話に出る。
「もしもし?…なんだ、青子か。え?ああ、静も一緒。これからスーパー寄ってこうと…は?お好み焼き?それお前が食いたいだけだろ…あ?あとから行くってお前な、それは俺じゃなくて静に…って、おい!待て!まだ話…」
どうやら途中で電話を切られたようで、面倒くさそうに溜息をついた緑間は、大人しくスマホを制服のポケットにしまい込んだ。
「青子、どうかしたの」
「ああ…なんか今日の晩飯お好み焼きにしろってさ。あとから響達と一緒にお前ん家来るってよ」
「よかったね、困っていた晩御飯が決まって」
「いや、論点はそこじゃねえよ?」
赤崎は適当に相槌を打ちながら、そっか。今日は青子達も来るのか。と、緑間の言葉を反復した。
今日はあのからっぽな家も、随分賑やかになりそうだ、と赤崎は思う。普段は緑間が行っているものの、あの広い家は二人では持て余してしまうのだ。油断すると、飲み込まれてしまいそうになる。
だが、少なくとも今日は、違うようだ。
「楽しくなるね」
「まあ…退屈はしねえな」
緑間が、横目でちらりと赤崎を窺う。その表情が、基本的には変化に乏しい赤崎にしては珍しく、心なしか嬉しそうに見えたからだ。
そんな幼なじみを見て、緑間は思うのだ―あとから辛くなるのは、お前の方なんだぞ、と。
楽しい時間なんてものは、あっという間に過ぎていく。世の中というのは不条理なもので、一秒でも長く続いてほしいと願う時間ほど、一秒一秒を短く感じてしまうのだ。
時間が来れば青子や響達は勿論、緑間でさえ自分の家に帰らなくてはならなくなる。
だが、赤崎はその後もたった独りであの家に残らなくてはならない。あのからっぽの家が、皮肉にも彼の帰る場所だからだ。
赤崎に両親はいない。だからあの広い家に、彼はいつも独りぼっちだ。
今日は青子達も加わって、いつもより賑やかな夜を過ごすことになるのだろう。だが、独りになった後の虚無感もまた、いつもの比ではないはずだ。
決して賑やかだけでは留まらない。彼には賑やかな夜の後に、逃れることのできない独りの夜が待っている。
赤崎にとって、“楽しい”と“寂しい”は同義だ。悲しいほどに。
悲しいまでに。
「…祭?どうしたの、さっきからずっとこっち見てるけど」
複雑そうな顔をして自分を見る緑間に気がつき、赤崎は首を傾げた。
だが、その形容し難い表情は赤崎が声をかけたと同時に崩れ、次の瞬間緑間の大きな手が彼の頭に乗った。
「いーや、なんでもねえよ。そんじゃお好み焼きの材料、買いに行くか」
「?うん」
一瞬。
本当に一瞬。
緑間の目が、悲しげに揺らいでいたように赤崎には見えた。
気のせいか、と赤崎は思った。
***
「お邪魔しまーす」
七時を過ぎた頃、青子達ご一行が赤崎の家へとやってきた。せかせかと準備をしている緑間を他所に、一応この家の家主である赤崎が、四人を招きいれる。
男二人の手にはスーパーの袋が握られており、中から2リットルのジュースや、山ほどのお菓子が顔を覗かせている。とても一日で消費できる量ではない。一体何次会までするつもりなのか。
嫌な予感がした赤崎は、おそるおそる青子へと訊ねた。
「…もしかしてお酒、買ってきた?」
「はあ…何言ってるのよ静。そんなの当たり前じゃない」
世間一般では、未成年が酒をあおるというのは、犯罪以外のなにものでもなく、少なくとも当たり前ということはないはずなのだが。
赤崎自身は、彼女に言ったところで全く意味のないことであると順々承知である為、今更なにを言うつもりはなかった。ただ、この涼しげな顔が、ほどなくして完全に崩れ去ってしまうという事実に溜息はつくが。
彼女の酒癖の悪さは天下一品である。
六人の中でもその恐ろしさを一番よく知っているのは優で、酒を飲む前から既に顔色が真っ青だった。何故なら、酔った青子に絡まれるのは、毎度毎度優の仕事であるからだ。女性恐怖症の彼からすれば、苦痛以外のなにものでもないだろう。
赤崎は二人から差し入れの入ったビニール袋を受け取り、リビングへと促す。テーブルでは緑間がプレートでお好み焼きを焼き始めていた。
「よう、やっと来たか。いらっしゃい。ま、適当に座っとけよ」
「あ、はい。お邪魔します…って、ここ祭さんの家じゃないですよね!?」
「あーうっせうっせ。いちいち細けえことを気にすんな。女子か」
「どういうまとめ方ですかそれ!?」
と言いつつ、響から順に適当に座布団の上に腰を落ち着ける。
「やっぱり料理だけは上手ですよね、まつり先輩」
「だけはってどういう意味だおいこら」
相変わらず皮肉を言う琴乃であったが、その言葉に嘘はなく、もう直焼きあがるであろうお好み焼きを、うずうずしながら見つめている。緑間は琴乃の憎まれ口に口を尖らせつつも、器用にヘラでお好み焼きを返し、出来上がった六枚を皿に盛った。ソースやマヨネーズを回し合い、かけたい分だけかけた後は、最後にかつお節を乗せて完成である。赤崎はその間に割り箸を用意し、青子はと言えば食器棚の引き出しから紙コップを持ち出し、買ってきたジュースを注いでいる。(あくまでジュースだけ)
勝手知ったる他人の家とはまさにこのことだが、赤崎はそれに関して特に気にしていない。
「紙コップなんて家にあったんだ」
「…とてもこの家の主人の台詞とは思えないわね」
昔から付き合いのある幼なじみの彼女は、驚くことに赤崎本人よりもこの家のことを熟知しているようだった。
ちなみに、青子が用意しているジュースは響と優のものである。せめて自分だけは規律を守ろうと徹底している優は、当然飲酒をしない。響にいたっては、飲めないわけではないしそこそこ酒に強くもあるのだが、アルコールを摂取すると眠ってしまう琴乃をおぶって帰るという使命があるので、できるだけ飲酒はしないようにしているのである。
勿論の如く、その他四名は酒を飲む。
「よっし。そんじゃ準備も整ったことだし」
意気揚々にビールを天井に向かってかかげる緑間に続き、その他五名もそれぞれ自分の飲み物を持ち上げる。
お好み焼き奉行というものは存在しないかもしれないが、見てわかるように緑間は場を仕切ることに長けている。というか、人の上に立って指揮を取るのがうまいのだ。彼の発言にはどこか説得力があるし、周囲の目を自分に向けさせることすら、彼にとっては朝飯前だと言えるだろう。
だから…というわけではないが、生徒会長というのは、ある意味緑間の性に合っているのだろう。
「あーこれといった理由はねえが、とりあえずかんぱーい!」
「「乾杯!」」
とにかく騒がしかった。騒ぎまくって、これでもかというほど笑って、思わず泣きそうになってしまうほど。
青子は極限状態にまで酔いが回ると、とんでもない魔物に変化する。キス魔になるのだ。誰彼構わず、というわけではなく、その矛先は必ずと言っていいほど優にしか向かない。
実は、酔っているふりをしてただ単に優をいじりたいだけなのではと思ってしまうくらいだ。普通酔っていれば、相手を選んでキスなんてできないだろう。今日も青子の毒牙を食らった優は、泡を吹いて失神した。
そして琴乃。彼女は酔うと語尾に「~にゃ」と付けるようになる。まるで猫のように―というか、完全に酔いが回ると口調どころの騒ぎではなく、行動一つ一つが猫に近くなる。
赤崎達の腕や、たまに壁なんかを使って爪を研いだり、猫が毛並みを整えるのと同じ要領で自分の手を舐めたり、誰彼構わずかまってサインを連射する。頭を撫でたり、あごをごろごろすると異常に喜ぶ。ちなみにこの状態の琴乃は一番緑間に懐いている。
響は、基本的に苦笑いをするだけでその中に混ざろうとはしない為、赤崎と他愛のないお喋りをすることが多い。
赤崎と緑間も酒を飲みはするが、後々厄介なこと(二日酔い、後始末に手が回らない等)になるし、いざという時にしっかりと意識を保っていられるようにとどこかブレーキをかけているので、飲んでも精々一缶程度だ。
両者共にかなり酒に強い為、その程度のアルコール摂取では、素面の時とあまり変わらないのである。
だから、アルコールに負けることはない。
スイッチの切り方は心得ている。
「おーい、もう十時だぞーそろそろ帰れー」
時間的に頃合いだと判断した緑間が、食い散らかした菓子の残骸や使った食器などをてきぱき片付けながら、全員に呼びかける。まだ意識のある赤崎と響は、共同して絨毯の上に突っ伏している三人を起こす作業に入った。
赤崎が、酔い潰れて眠っている青子の肩を揺らす。
反応なし。
「……」
彼女は、寝起きは悪くないのだが、起きるまでがやたらと長い。
「…ふう。青子、もう遅いからそろそろ―」
とりあえず、うつ伏せになっている彼女を反転させて仰向けにしようと決めた赤崎が、青子の両肩に手を添えてその華奢な体を動かす。
無事に仰向けにすることができたところで、赤崎の思考は一時停止した。青子の顔を見て、彼が「え」と思わず声を上げるまで、大分時間がかかったように思う。
しっかり者で、頼りになるお姉さんで、笑顔が良く似合う、ひまわりのような彼女が―泣いていたのだ。
泣いていると言っても、伏せられた目から涙が流れているというだけで、厳密にいうとそれは、“泣く”という行為とは違っていたかもしれないが。
どうしよう、と赤崎は戸惑う。
嫌な夢でも見ているのだろうかと赤崎は思った。だが、それはどうにも考えにくい。何故なら彼女は「私みたいな幸せ者が泣くだなんておこがましい」と、日頃よく言っているからだ。
泣かないことが、どういうわけか彼女が自分の心に誓った誓約なのである。
それは、生半可な誓いではないのだ―少なくとも、水沢青子という少女にとっては。
たとえそれがどんな悪夢であったとしても、そんな彼女が涙を流すというのはどうにも信じがたい。
では、何故彼女は泣いているのだろう。
「…か。しず…か」
「え、ぼ、僕?」
突拍子なく名前を呼ばれ、赤崎は大きく目を見開いた。
悲痛な声音だった。
依然として彼女は眠り続けているわけだが、寝言が自分の名前であったことに、涙の理由が結びついているような気がして、ますます赤崎は混乱する。
冷や汗が背中を伝い、起こそうにも起こしずらい状況に陥った赤崎は、青子を起こそうとした時と同じ態勢のまま、ぴたりと動けなくなってしまった。横から見ると、何かと勘違いされてしまいそうな構図であったが、彼女の涙の原因が自分だと思い込んでしまった赤崎に、そんなことを考える余裕はなく(元からこの態勢に意識もしていないが)、ただ悶々と自問自答を繰り返していた。
(青子が泣くようなことって…一体僕は何をしたんだ…ああ、考えたくない)
自問自答の行き着く先がとてつもなく最低なものでしかなかった為、赤崎のテンションは下がっていく一方である。
―と、そこで青子が小さく寝返りを打った。
目がうっすらと光を宿している。
あ、まずい。起きる。本能的に赤崎はそう感じ取った。
「ん…んん、しずか…?」
「…や、やあ」
とりあえず赤崎は、笑っておいた。
ノーリアクションで呆けた顔をする彼女に居たたまれなくなったのか、赤崎が気まずそうに目をそらした。青子の酔いは完全に醒めているようで、いつものきりっとした目つきに戻っている。
だが―涙の跡は、消えてはいない。
「その…嫌な夢でも見たの?泣いてたみたいだけど」
え、と今度は青子が驚いたように目を見開く。どうやら頬を伝う涙に気がついていなかったようだった。そっと手を伸ばした赤崎は、彼女の頬を優しくなぞった。
「な…泣いてた?私が?」
彼女は、信じられないとでも言いたげな目をしている。
「うん。寝言で“静”って僕の名前を呼んでて…なんか、ごめん」
肩を竦めて申し訳なさそうに謝る赤崎に、青子は慌てて―そしてまた、彼女の頬を涙が伝った。赤崎がギョッと目を見開いたのは言うまでもないだろう。
ぽろぽろと溢れる涙を否定するように、青子は必死にそれを拭った。
「ちが…違うの。違くて。静のせいじゃ、ないから…ほんとに、違うから」
「青子…」
こんな風に泣く幼なじみを見るのはいつぶりだろう、と赤崎は少しズレたことを思った。
その姿はとても頼りなく、思わず赤崎は身を乗り出した。
赤崎の手が、青子の頭を撫でる。すると彼女はまた泣き出した。
「ごめ…ごめんね。泣きたいのは私じゃ、ないのに」
「…謝る必要はないよ。泣きたい時は泣けばいい」
彼女は何度も「ごめん」と「ありがとう」を繰り返す。
何故彼女が謝るのか―一体誰にありがとうと言っているのか。
赤崎にはわかりそうで、わからなかった。
「わっどうしたんですか青子さん!」
優を起こしにかかっていた(琴乃のことはおぶって帰るので起こさない)響が、青子の涙を見て赤崎のようにギョッと目を見開いた。青子の方はと言えば、今初めて響の存在に気がづいた―というより、ここが赤崎の家だということをようやく思い出したようで、慌ててごしごしと涙を拭う。
ぼんやりと覚醒していた優は青子の涙を見て固まっていた。
「おいお前ら、さっきから青子青子って一体何が…」
そして、騒ぎを聞きつけた緑間が、食器洗いを中断して赤崎達の方へ駆け寄ってくる。
青子と目が合った緑間は途端に表情を固くしたが、驚いた様子はなかった。
「青子」
ただ一言、緑間がそう言った。同時に、二人の表情が微かに歪む。
だが、それは本当に刹那のことで、おそらくその微妙な表情の変化に気がづいたのは赤崎だけだ。
祭、と青子が小さく彼の名を呼んだ。呼んだというより、ただ読んだだけという表現の方が、正しいかもしれない。
二人の間になんらかの意思の疎通があったようで、青子は次第にいつものような落ち着きと笑顔を取り戻していった。
「…わかってる、祭。…ごめんね、静、響。もう大丈夫。ちょっと夢見が悪かっただけなの。だから心配しないで?」
「なら…いいんですけど」
響はあまり状況をよく理解できていなかったが、とりあえずいつものような笑顔を浮かべた彼女に安堵したようで、それ以上は追及しなかった。
赤崎の方はといえば、何かを取り繕うとするそんな幼なじみの物言いに、引っかかるところが幾つかあったものの、何も言わなかった。
涙の理由はもっと別のところにあるのでは、と赤崎は思ったのだが、それを深く追求することは、彼女を困らせてしまうだけなのだろうとわかったので、やむを得なく「よかった」と相槌を打つだけにしておく。
「ったく、紛らわしいことをすんなアホ。おらおら、とっとと荷物まとめやがれお前ら。もう十時回ってんだぞ!」
やれやれと言った風に呆れ顔で溜息をついた緑間が、ビシッと散らかっているテーブルやソファ周辺を指差して、再び台所の方に引っ込んでいった。
「お邪魔しましたー」
いつものように、気持ちよさそうに寝息を立てる琴乃をおぶり、未だにげんなりとした顔をしている優と一緒に、響は一足先に帰っていった。
次いで帰ろうとしたのは青子だったが、やはりまだ浮かべる笑顔にぎこちなさが残っているように思え、独りで帰らせるにはあまりに頼りなかった。
赤崎の家から青子の家までそう距離はないが、あんな泣き顔を見せられた赤崎としては、一人暗い夜道を歩く彼女の姿に不安が過ぎる。
「祭ももう帰りなよ。後片付けは僕がやっておくから」
というわけで、赤崎はもう一人の幼なじみに、青子のことを家まで送らせることにした。緑間の家は青子の家の真向かいにあるので問題はないだろう。
「…は?」
さも当たり前のように、帰る三人を見送るポジションにいた緑間が、その言葉にぽかんと口を開け数秒呆然とした。心底驚いたような顔をする幼なじみを見て、どうやら彼はまだこの家に居座るつもりだったようだ、と赤崎は思った。もしかしたら、泊まっていくつもりだったのかもしれないが。
我に返った緑間は、意味がわかりませんと顔で主張した。
「いや、お前に片付けとか無理だろ」
「まあ確かにそうなんだけど…青子を一人で帰らせるのは、どうにも不安だし」
「いや、でも…」
「でも?」
珍しいこともあるものだと、赤崎は少し意外そうに緑間を見た。
こんな風に決断を迫られたり、頼みごとをされた時に、緑間が渋ったり即決できなかったりすることはまずないのだが、今日は珍しく迷っているようだった。赤崎は、何をここで迷う必要があるのだろうと不思議に思う。
しばらく赤崎と青子を交互に見ていた緑間だったが、ここでようやく「わかった」と返事をし、エプロンを脱いでリビングに鞄を取りに行った。
そんな彼の様子を不思議に思った青子が首を傾げる。
「?祭、どうしたの?」
「もう帰ってって言ったんだ。青子を一人で帰らせたくなかったから」
それを聞いた青子が、バツの悪そうな顔をした。
「さっき私、もう大丈夫って言ったじゃない…別に一人でも」
「うん。でも、ひとりは寂しいから」
ね、と笑う赤崎に、青子は何も言わず、俯いた。
ほどなくして緑間が鞄を肩にかけて戻ってきた。そして、申し訳なさそうに赤崎に謝る。
「悪いな。最後までやっていけなくて」
「僕が頼んだんだから君が謝る必要はないよ」
何か言いたげに口を開いた緑間だったが、結局思い留まったのか「おう」とだけ返し小さく手を挙げた。
青子は伏せていた顔を上げ、思いつめた表情で赤崎を見つめる。その表情は、彼女のことをよく知っている人から見れば、どこか迷っているようにも見えただろう。
彼女もどちらかと言えば緑間に近いタイプで、基本的に物事に対してはっきりとした態度を示すので、珍しく迷っている様子の青子に赤崎は首を傾げる。
「青子?」
どうしたのかと赤崎が訊ねる前に、彼女はぱっと目をそらしてにこっと笑った。いつもの笑顔と違うことがわかってしまったのは、やはり幼なじみとして一緒にいた期間が長すぎたからだろう。おそらく青子の方も、赤崎がその笑顔の不自然さに気づいたことに、気づいているはずだ。
ふと、青子が背伸びをした。
赤崎は彼女に手を引かれ、そのまま下方に引っ張られる。
彼女の真意が、手を引かれた時点でなんとなく赤崎には想像できた。
二人の唇が重なる。
とは言っても、恋人同士で行われるような息が詰まるほどに深いものではなく、軽く触れるだけのキスだったわけだが。勿論赤崎と青子は恋仲ではないので、当たり前と言えば当たり前なのだろうけれど。
「…またね、静」
そっと唇が離れ、同時に別れの挨拶を告げた彼女は、ひらひらと手を振って家を出て行った。残されたのは赤崎と緑間だけである。
やり逃げをされた赤崎はと言えば、特に赤面するわけでもなく、名残惜しいと思うわけでもなく、ただ呆然と突っ立っていた。
青子は過度にスキンシップを取りたがる。
今では大分丸くなったのだが、昔は誰彼構わず男女問わずに、よく軽いキスをしていた。彼女にとっては、挨拶のようなものだったのだろう。そして言わずもがな、幼なじみである赤崎と緑間も、彼女とのキスは数え切れないほど経験している。
だが、ある時期を境に彼女は、“誰彼構わずのキス”をやめた。そしてそれ以来、その時期が来ると、赤崎にだけ昔のようなキスをする。
変わらないフレンドキスを。
「…祭」
「なんだよ、静」
「今日、何日」
基本的に赤崎は、昨日が何月で今日が何日で明日が何曜日なのかを気に留めない。学校がある日と学校がない日、赤崎の中ではそれが軸であり。取り立てて覚えようとは思っていない。
昨日が何月で今日が何日で明日が何曜日なのか―彼には興味がないからだ。
「三十日だよ。ついでに言うと、明日から七月」
「…そっか」
やっぱり、という赤崎の小さい呟きを耳で拾い、緑間はバツの悪そうな顔をした。
つまるところ―青子が今日響達を引き連れて家に来たのも、涙を流していたのも、思いつめた表情をしていたのも、帰り際にキスをしたのも全て―そういうことだったのだ。
もう、そんな時期だったのか。赤崎は他人事のようにそう思う。
「静」
幼なじみに名前を呼ばれた赤崎は、はっと我に返った。なに、と顔を上げた赤崎の額を、すかさず緑間がピンと小突く。
痛みはなかったものの、赤崎は反射的に両手でその場所を押さえた。
「流石に青子みたくキスは無理だからな」
「別に期待してない…」
けらけらといつものように緑間は笑った。彼のこういうところに、赤崎はよく救われている。
おそらく彼はこれからも、そうして無意識の内に周りの誰かを救っていくのだろう。
今赤崎が救われているように。
「なんだよ静、ぼーっとして」
「…なんでもない。それよりほら、早く行かないと追いつけなくなるよ」
先に行ってしまった青子を追いかけるよう赤崎が促すと、「それもそうだな」と彼は靴を履いた。そして、青子同様ひらひらと手を振る。
「じゃ、また明日な。静」
「…うん、また明日」
最後の緑間が帰り、バタンと無機質にドアが閉まった。
今このからっぽの家にいるのは、どうしたって赤崎だけだった。先ほどまでの明るさは何処にもなく、例え家中の明かりを全て付けたとしても、彼の内に芽生えた虚無感は失われることはないだろう。
どうしてこれほどまでに、失いたいものほど消えてはくれないのか。
どうしてこれほどまでに、失いたくないものばかり。
「…片付け、しなきゃね」
そして今日も彼は、楽しさの残骸を寂しさとして吸収していく。
***
赤崎の家を出てすぐに、緑間は先に行ってしまった青子のあとを追った。結構な時間差ができてしまったから、それなりに距離は離れているだろうと思い、小走りになった矢先目的の彼女を見つけ、緑間は少し拍子抜けしてしまった。
いつもなら「先に行くなよ」とでも言っているのだろうが、それが今の青子にとって酷なことであったということは、緑間にもわかっている。伊達に幼なじみはやっていない。
おそらくあのまま赤崎の家にあと一秒でもいれば、彼女は泣いてしまっていただろうから。
「そこの綺麗なお嬢さん。俺と少し遊びませんか」
「…はは、下手なナンパね」
緑間が後ろから声をかけると、彼女は頼りなさげに眉をさげ、振り返った。その目に涙はなかったが、あと少し経てば直に封は切れるだろう。
赤崎が知らないだけで、青子はよく泣いている。ただ、赤崎の前でだけは泣かないようにしているだけで。
二人は肩を並べて夜道を歩く。帰る方向が一緒なので、送るまでもなく帰り道は一緒だ。
影を連れ歩き、しばらく人気のない道を彼らは沈黙を保って歩いていたが、クスという小さな笑い声と共に青子が動いた。手を引かれ、やばいと緑間が思った時には既に遅く、青子は自分の唇を緑間のそれに重ねた。
「はい、これで静とも間接キス」
「毎年思うけど、マジ意味わかんねえ…」
赤崎ほどポーカーフェイスが得意でない緑間は、すぐに感情が顔に出てしまうので、声音は普段通りを装ってはいるものの顔は真っ赤だった。これが夜でなければ、間違いなく青子に気づかれていただろう。そして、確実にからかわれていたに違いない。
まあ、その逆も然りで、彼女の方も若干顔が赤かったわけだが、夜だったので緑間は気づかなかった。
「今日静にキスしたのは…もうすぐあいつの誕生日だからか」
「そう、ね。どちらかと言えば、“消えた一週間”が始まったからなんだけど」
六月三十日から七月七日。
それを緑間と青子は、“消えた一週間”と呼んでいる。
ちょうど今から七年(もうすぐ八年)ほど前。まだ彼らが十歳だった頃の話だ。赤崎家と緑間家と水沢家は昔から親同士で交流があり、その関係で三人はよく一緒に遊んでいた。その頃はまだ赤崎の両親、そして青子の両親も健在していて、今ではとても考えられないほど毎日が充実していた。
特に赤崎の両親は仲の良い夫婦だと近所でもお墨付きで、離婚など無縁な話だろうと思われていた。
だが、ちょうどその年の六月、その頃から―赤崎の両親は、少しずつすれ違い始めたのである。頻繁に赤崎を緑間か青子の家に預けるようになり、毎晩遅くまで口論のぶつかり合いが続いていたらしい。いがみ合いの原因は未だ不明だ。
そして“消えた一週間”の一日目―八年前の今日、恍惚と赤崎の両親が行方をくらませた。まだ十歳だった赤崎を置いて、だ。
だが、それだけに留まらず、いつまでも帰ってこない両親を不安に思い、“消えた一週間”の五日目に赤崎も姿を消した。信じられないことに、十歳の少年が、両親を探しに一人で外の世界へ飛び込んだのだ。
だが、“消えた一週間”の最終日―そう、七月七日。
皮肉なことに、その日は赤崎の誕生日であった。
その日、隣町で行き倒れていたところを赤崎は通報され、病院へと搬送された。原因は栄養失調と過労。体力の乏しい幼児の体が、二日間も飲まず食わずで持つはずがなかったのだ。
連絡を受けた緑間家と水沢家は、急ぎ赤崎が運び込まれた病院へと向かい、そこで信じられない光景を目の当たりにしたのである。
行方をくらませていた赤崎の母親が―点滴を受けて眠る自分の息子の首を、絞めていたのだ。
間一髪のところで間に合った緑間家と水沢家によって、彼女のそれは殺人未遂に終わったが、最後に赤崎の母親は、自分の息子の誕生日にこんなことを言い残した。
“あんたなんか、生まれてこなければよかったのに”と。
そしてそれ以来、再び赤崎の母親の行方も掴めなくなった。
それが“消えた一週間”。
そして今日は―一日目。赤崎の両親が姿を消した日である。
それを知っているのは緑間家と水沢家、あとは赤崎の母方の祖父母である藤黄家だけだ。
「お前、わかりやすすぎんだよ。気づいちまったぞ、あいつ。もうそんな時期なんだって」
「あはは、今年もやっぱり今の今まで今日が六月三十日だってことに気づいてなかったのかー静は」
そう、赤崎は思っていただろう。今日、青子がわざわざ響達までもを引き連れて赤崎の家にやってきたことに、特に理由はないんだと―そう思っていたに違いない。つい先ほどまで。
赤崎の両親が消えた一日目。だからこそ、今のあなたの周りにはこんなにたくさんの人がいて、誰もあなたを置いていったりはしないから―と、そんな意味を込めたいと青子は思っている。だからその為に、大勢で楽しく過ごそうと決めていた。
だが、どうしても緑間には、あとから独りあの家に残される赤崎のことを思うと、むしろ古傷に塩を塗りこんでいるようにしか思えないのだ。
「…これでも一応、わかっているのよ、それくらい。祭に言われなくたって」
自分がひどいことをしているって自覚は、ちゃんとある。青子はそう言った。
ぴたりと彼女が足を止めたので、緑間もそれにつられて立ち止まる。青子の顔は伏せられていたが、アスファルトに転々としみができていることに緑間はすぐ気がついた。
「でも、こんな日だからこそ、傍にいたいの。少しでも傍で静と、喜びや悲しみを共有したい。祭だって、そう思っているでしょう?」
涙に濡れた声は震えていた。
彼女があまりに頼りなく感じられ、掴まえておかなければどこかにふらっと消えてしまいそうだと緑間は思った。ほとんど無意識の内の手を伸ばした彼は、そっと包み込むように彼女の体を抱きしめる。
青子は腕を回すことはせずに、ただ彼のYシャツを力なく握るだけであった。それはまるで縋るように、何かを緑間に訴える。
七年前の“消えた一週間”を境に、彼女は全くと言っていいほど人前―否、赤崎の前では涙を見せないように生きてきた。理由は、七年前の七月七日に、赤崎が泣かなかったからだ。
両親に置いていかれ、本来ならば祝福されるはずだった誕生日に自分の生を否定されて尚、わずか十歳だったにも関わらず赤崎は泣かなかった。
だから青子は決めたのだ。今目の前には自分よりもずっと辛い状況に身を置いている人がいて、それを不幸だと達観していながら、その人が涙を流すことをしないなら―その人よりもずっと幸福である自分が涙を流すだなんておこがましいと。
だから自分は、決して涙を見せないようにしようと。
だが、青子も人間で、それに加え女である。これから一生涯泣かないことなどできるはずがない。ならばせめて赤崎の前では涙を見せずに生きていこうと、心にそう留めたのだ。
泣けない赤崎の代わりに涙を流すのは、自分の役割ではないのだろうと、彼女自身どこかでわかっていたから。
「…そうだな。助けて、とは縋ってこない奴だ。だったら、俺達がいつも傍で手を伸ばしておかねえとな」
優しく、宥めるように緑間は青子の背中をさすった。
「…うん」
「その為にもまず、その情けない面をどうにかしないとな。お前には笑顔が似合ってんだ、いつでも笑ってろよ」
「…はは、さっきのナンパよりも、ずっと上手い殺し文句」
二人は小さく笑った。
「今年の七夕も盛大に盛り上げてやらないとな」
静の誕生日を祝うことはしなくなった。他でもない赤崎静自身がそれを望んだからだ。
だから七年前の七月七日以降、赤崎にとって七月七日は自分の誕生日ではなく、七夕という意識の方が強くなり、誕生日パーティではなく、七夕パーティを開くようになった。
だから毎年、短冊に願い事を書いて葉竹に吊るすことはあっても、誕生日ケーキを用意することはしなかった。
おそらくそれが、赤崎にとっての誕生日プレゼントになるのだろうと思っていたから。
「…ええ、そうね。そうよね、祭」
「お、やっといつもの顔に戻ったな。青子」
抱きしめていた青子の体を解放し、再び夜の道を二人は歩き始めた。
このままではダメなんだろうと、心のどこかでわかっていながら―それでも彼らは、何も出来ずにいた。
いつかそのことを、後悔する日が来るとも知らずに。
「…ふう」
大雑把だが片付けを一段落終えた赤崎は、ぼすっとソファにダイブして寝転がった。
着替えるのが面倒だった彼は、帰ってからも制服のままでいた為、このまま間違って眠りでもすれば、Yシャツなり制服なりにしわがつくのは確実だった。まあ、しわがついたところで、良く出来たあの幼なじみが丁寧にアイロンをかけてくれることはわかりきっていたし、元々自分の身なりにあまり関心がない赤崎は、勿論そんなことをいちいち気にしたりはしない。
このまま寝てしまいたいという気持ちもあったが、明日の仕度も風呂も済ませてはいなかったし(そんなものは明日の朝やればいいという思いの方が強かったりするが)、何より眠れそうな気分ではなかった―このまま眠ってしまえば、確実に悪夢を見るだろうという確信にも似た思いがあった為、夢への舟こぎはもうしばらく後になりそうだった。
「…あ」
(日付が変わった)
ふと目に入った掛け時計を見やると、ちょうど秒針が十二の文字盤を通り越し、日付が明日に変わった。
祭の話によると今日―否、昨日は六月三十日だったらしく、日付の変わった今日は、考えるまでもなく七月一日ということになる。
それがどうしたと聞かれれば、別にどうということはない。
赤崎にとって今日の七月一日に意味はないからだ。彼にとって意味を持つのは、八年前の今日だけである。少なくとも赤崎にとって、十八歳で迎えた七月一日と十歳の頃に迎えた七月一日は同じではない。
あの一週間は終わったのだ、八年前に。
(だから、祭や青子が、あんな顔をする必要はないんだ)
あれは赤崎の過去の事情であり、全くとは言わないまでも二人には関係がない。緑間と青子まで同じ傷を背負う必要はないのだ。
僕の傷は、いつまで経ってもどこまでいっても僕の傷―それが、赤崎の考え方である。
だからこそ、たとえ二人の気持ちは嬉しくとも、できることならこんな醜い傷を抱えてほしくはなかったのだ。それはきっと、いつかどうしようもないほどに、彼らの足枷になるだろうから。
「本当は…離れられれば、一番良いんだろうけど」
そう、赤崎が離れることを選べるのなら。
彼らは少なくとも、赤崎のことで悲しみに暮れたりはしなくなるだろう。
それができれば、彼らはおそらく救われるのだろうけれど。
「それは…やっぱり嫌だなあ」
もしも今二人を失えば、赤崎はおそらくまた、生きる意味を見失ってしまうだろう。七年前の、あの日のように。
(そうしたら、きっと―僕はもう、この世にはいられない)
「…結局僕は、自分を甘やかしたいだけなんだろうね」
そしてそんな彼に対し、緑間と青子はとことん甘かった。そしておそらく、二人はそれを苦痛には思っていないのだろう。
だから赤崎は振り切ることができずに、ぬるま湯の中から抜け出せないままでいる。
向き合わなければならない過去と、向き合おうともしないで。
「…もう、寝ようかな。やっぱり」
ふああ、と欠伸をし、赤崎は大きく伸びをした。
相も変わらず制服のままで、明日の仕度も風呂もやるべきことは何一つ終わってはいないのだけれど、「ま、明日でいっか」と彼は全てを投げ出した。
ベッドへ行くか迷ったが、如何せん動くのが面倒だった赤崎は、手近にあった座布団を半分に折って枕代わりにし、そのままソファで寝ることにした。
寝心地は悪いだろうし、朝目が覚める頃には体中が痛くなっているだろうけれど、それでも良い夢が見られるはずだ。リビングにはまだ、楽しさの残骸が残っている。
電気もテレビも付きっぱなしだったが、そんなものはお構いなしだ。
「…おやすみ」
ゆっくりと目を閉じ、赤崎は小さくそう呟いた。それが誰に対して発せられた言葉であったのか、それを知る術はここにない。
からっぽの家に、今日も彼は独りだから。
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