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31 その温もりに包まれて……(エピローグ)⑤

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 胃がキリキリと痛んだ。
 やけに息苦しい。
 自然と足取りは重くなる。

 ――やっぱりやめようかな。

 何度目かの弱音を飲み下して、俺は隣に寄り添う人物へ顔を向けた。

 じゅるり。

 なぜいま舌なめずりしたんですか?
 どうしよう、俺の隣に変質者がいる。
 どこかに交番はないかしらと辺りを見回したが、昼下がりの住宅街が広がるばかりだ。

 どうしよう、逃げ場がない。
 思わず尻込みする俺の手を、ひっしと掴む変質者。

「ひぃ、やめて! 犯される!」
「ちょっと。物騒なことを言わないで。取って食べたりしないわよ。……今はまだ」

 あとが怖いよ!
 ケダモノの目で見つめられる私。
 追い詰められた路地裏の影。
 このあと、私、どうなっちゃうの~~?!
 魔法少女白里の命運やいかに。

 ……さて。
 茶番はここまでで良いか。

 そんなわけで隣りにいるのは黒宮だ。
 弱みを見せると(性的な意味で)牙を剥く一匹狼な一面がある。
 狼の部分には性的な意味でのケダモノという意味も込められている。

「まったく、何を怖気づいているのかしら。お母さん……いえ、お義母さんに会いに行くんでしょう?」
「……今、どこらへんを言い換えたんだ?」
「なんでもないわ」

 何故かそっぽを向く黒宮。
 まぁ、こいつの奇行を咎め始めたら切りがないか。

 とはいえ。
 そう、そうなのである。

 俺はいま、母の実家へ向かっている。
 持病の回復のために、実家へ帰っていた母へ会うために。
 俺の罪を、告白するために。

 俺は勇気を振り絞って、黒宮を誘ったのだった。

 何故、ひとりで行かないのかって?
 絶対に途中で断念するに決まっているからだ。

 英断だろう。
 その証拠に俺はここで立ち止まって、動悸、息切れ、目眩に、発熱まで起こしている。
 ほら、仕方ないだろ?
 先送りするからには、そこには理由というものがあるのだ。

 そんな臆病な俺の手を捕まえる黒宮の細い指は、華奢な見た目の割に力強く俺を留めている。
 逃さない。そんな強固な意志を感じざるを得ない。

 その手の温もりは、不思議と俺を落ち着かせてくれる。
 弱い俺を許してくれる。
 受け止めてくれる。
 こんな俺を、支えてくれる。
 こんな俺を、認めてくれる。

 手を掴んだだけの、ほんの些細な行動だ。
 それが俺を正してくれる。糺してくれる。

 黒宮は、笑う。
 いつもみたいな情欲にまみれた妖艶な笑みではなく、慈愛に満ちた優しい微笑。

 荒波に揉まれるようだった心が、中和され静かに凪いでゆく。
 不思議な気分だよな。
 なんでこいつと手が触れ合うだけで、こんなに俺は変われるんだろう。

 というか、ひょっとして、黒宮がいないと俺ってばてんで駄目男なのでは?

 たらればを論じても仕方ないか。
 俺の隣には黒宮がいるし、それで俺は少しばかり強くなれる。
 それだけだ。それ以外は、いらない。

 文句も言わずに待ち続けてる黒宮の手を握り返すと、俺たちは母さんの実家へと赴くのだった。

 母さんの実家へ着くと、祖母と祖父が出迎えてくれた。
 病弱な母さんは部屋の中にいるらしい。
 通されたリビングには、ゆっくりと紅茶を嗜む母さんの姿があった。

 久々に顔を合わせる母さんの顔は、思っていたよりも元気そうだった。
 病弱とはなんだったのかと思わせるくらいにハツラツとしている気さえする。

 母さんの正面の席に俺と黒宮が腰掛けた。
 手早く挨拶を済ませた黒宮だったが、久々の人見知りモードが発動し、カミカミの実の能力者かってくらいに噛みまくっていた。

 それを見た母さんは朗らかな表情。
 息子の連れてきた初めてのガールフレンドにご満悦のようだった。

 どうする?
 逆にこの空気こそやりづらい気がする。
 なんで俺は彼女の初対面時に母に謝罪をしなければならないんだ?
 どう考えても空気読めてないのでは?
 やっぱりやめるか?

 そんな逡巡は、黒宮の強烈な足の踏みつけ攻撃で一蹴された。

 悶える俺だが、母さんは気づいてもいない。
 ずっとニコニコのまま黒宮にお菓子を勧めている。
 黒宮はというと断りきれずにもそもそとお茶請けの包み紙を剥いていた。

 そうだ。
 逃げるという選択肢はありえない。
 というか、黒宮に許してもらえない。
 そうだよな、これ以上情けない姿は見たくないよな。

 いや、もしかしたら見たいのかもしれないけど、さすがの俺にも矜持というものがある。
 安いプライドでも、守るべき瞬間はあるのだ。

 俺は大きく息を吸った。
 そのまま大きく息を吐く。
 よし!

 俺はそのまま意を決し――たかのように見せつつ、更にもう一度深呼吸を始めたのだった。
 だって、やっぱ怖いだろ。
 何言われるかわからないし、母さんの指輪を捨てたんだぞ。
 言ってみれば器物損壊とかに該当するはずだ。
 子供と言えど罪は罪。
 裁かれて然るべきだし、覚悟するべきなのだ。

 どうにかしなきゃ、どうにかしなきゃと焦れば焦るほど、舌が回らない。
 本当に情けないな俺は。
 どうしてこんなにも、怖いんだろう。
 どうして、足がすくんでしまうんだろう。

 そしてそんなときはいつだってこいつが。
 黒宮が手を握ってくれるんだ。
 それで俺は俺になれる。
 脳が、再起動する。

「……母さんの指輪を、捨てたんだ」

 つっかえつっかえ喋って、どうにか伝えるべきことを伝えた俺は、視線をテーブルに固定したまま固まっていた。
 黒宮が手を握ってくれていなければ、俺は泣いていたかもしれない。

 母さんの反応が怖かった。
 優しい母さんを裏切ったことが、どうしようもなく怖かった。
 黙っていたことがどれだけ母さんを傷付けただろう。
 そう思えば思うほど怖くてたまらなかった。

 そうだ。俺は母さんを傷つけたくなかったんだ。
 俺一人が後悔に苛まれるだけだったら母さんを傷つけることはない。
 惨めな息子を知らずに、可愛い息子のままでいられたかもしれない。

 俺一人が苦しめば良かった。
 良心の呵責に呪い殺されれば良かった。
 そう考えていたんだ。

 だけど、黒宮がそれを否定した。
 俺も救われなければならないのだと。
 だから俺は、エゴの押しつけをやめた。
 他ならぬ俺自身を守るために。
 黒宮が望んだ通りに。

 そして、母さんの答えは……。

 言葉はなかった。

 突然の衝撃。
 椅子を押し倒さんばかりの勢いに、俺の視界は明滅した。

 それが母さんの抱擁であったと気づくまでにはそれなりに時間が必要だった。

「辛かったね。光路くんは優しいから、人一倍辛かったでしょう? でも、光路くんは強くなった。優しくなった。だからね、もういいんだよ。自分を許してあげて」

 俺はもう、バカみたいに泣いた。
 何が『黒宮が手を握ってくれていなければ、俺は泣いていたかもしれない』だ。
 いても大号泣だよ、バカ野郎。

 ……そのまま母さんの実家で俺たちは夕飯をごちそうになった。
 そこでは母さんの元気な姿も見れたし、黒宮もなんとか返事を返せるくらいには打ち解けられたし、祖母も祖父も色々と世話を焼いてくれた。

 帰り際、お土産を大量に持たされて俺たちは駅にいた。
 ホームで電車を待ちながら黒宮はポツリとこぼした。

「お義母さん、元気だったわね」
「……そうだな、随分前から仕事にも復帰していたらしい」
「在宅ワークなんてね。それに随分と稼いでらっしゃるそうね」

 ……そうなんだ。意外すぎる。
 まぁ、在宅で働くようになったから実家に戻ったらしいのだが、俺はそれを病気のせいと勘違いしていたんだっていうんだから、なんとも情けない話である。

「もう他にトラウマはないの? 私がついていればなんでも解決できそうよ」

 勝手に言ってろと返したいところだが、まったくもってその通りなのだから反論のしようもない。
 せめて今晩はご奉仕することにしよう。
 黒宮にも弱点はある。
 それは俺だけが知っている。

「そうだな。今日はどれだけ増長してくれても構わん。夜の主導権だけは俺に返してもらったからな」
「な、なんのことかしら?」
「意外や意外、黒宮さんは攻められるのに弱いということが判明したからな。持ちつ持たれつということだよ」

 そんな下品な返しを挟みつつ、滑り込んできた電車に乗り込む。

「望むところよ、性も根も枯れ尽くさせてあげるわ」

 ……どうやら今日も、クーデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない夜になりそうだった。
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