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11 その冷えた指先を……③

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 バイトが終わった後。俺はファミレスで盛大に溜息を吐いていた。
 そんな俺の正面に、ドリンクバーでジュースを汲んできた黒宮が腰を下ろす。

「あら、どうしたの白里くん。溜息なんて吐いちゃって。何か嫌なことでもあった?」
「その原因の本人様が何を仰いますやら」
「心外だわ。私は白里くんの教育を受けただけでしょ? 迷惑は掛けたかもしれないけど、悪いことなんてしてないはずよ」
「セクハラ紛いの質問とか、不意を突いての接近とか、不必要な接触とか、数え上げればいろいろと罪状はありそうだけどな」

 俺は文句を言いつつも黒宮の差し出したコーラをストローで吸い上げる。

「……これで間接キスね」

 バフゥ!!!

 思わず吹き出す俺。

「お前わざわざ飲み物取ってくるだけで、そんなもん仕込むのか?!」
「そうでもないわ、偶々(たまたま)よ。さぁ、白里くん! もっとペロペロ舐めて良いのよ! 私の唾液をしかと味わって良いのよ!」

 もう何もかもめんどくさくなってきたな……。ストローを新品と交換したほうが早いんじゃなかろうか。
 俺が立ち上がると、黒宮は今更のようにふるふると首を振った。

「冗談よ、白里くん。そんなに怒らないで」
「……はぁ、もういいよ。……何でも」

 こうして俺が匙を投げてしまうから、黒宮の奇行も留まることを知らないのだろうか。
 ともかく俺は、黒宮がペロペロした疑惑の消えないストローをくわえ込んで、仕方なく本題に入ろうとする。

「で? どうしてわざわざバイト先にまで現れたんだ? ここ数日のストーキングのエスカレート具合は凄まじいものがあるぞ」
「それこそ心外だわ。凄まじいのはこの私の心境のほうよ。あなたを見つめるたびに、心が高揚して、私が私じゃなくなるのよ。持て余した感情がオーバーヒートしてオーバーラップからのオーバードライブでオーバーキャパシティなのよ!」

 熱っぽく語る様子の黒宮だが、俺はというとついて行けない。なんならついて行けた試しがないんだが……。

「どちらかというとそれはオーバーリアクションじゃなかろうか。まぁそれはともかく、それで犯罪が許されるなら警察なんていらないだろ?」
「ちょっと待って。私がいつ犯罪を犯したというの?」

 そう言われて、俺ははて……と思考を止めてしまった。
 そう言えばストーキング=犯罪という図式を盲目的に描いてしまっていたが、よくよく考えればそれは些か早計に過ぎただろうか。
 追跡しても気づかれなければ、……いや、どうだろう。
 下ネタを言って一方的に部屋に乗り込むのは、……確かに犯罪ではないか。
 しきりに身体を密着させようとしてきたり、……はセクハラだな。訴え次第では犯罪になり得る気もするが……。
 ただ、確かに俺が訴えを起こさなければ、犯罪だと言われるような謂われはないのだろうか。
 ……いや、それってどうだろう……?

「随分と微妙な顔をしているわね。仮に私の過剰な行為が迷惑だとして、それをせざるを得ない状況に持ち込んだあなたにだって責任はあるはずよ」

 いくらなんでもそれは違う。それくらいは分かる。その理論が正しければ「美人を押し倒しても興奮せざるを得ない身体をしていた美人のほうに問題がある」という言い訳が通用してしまうことになる。
 俺が反論をしようと机に起きかけた手を、黒宮が掴んだ。ふいにドキリと心臓が高鳴る。

「それに昨日、あなたは私の制止を押し切って私の捜し物を探したわ。それだって考えようによっては迷惑よ。もちろん、あなたのことを迷惑に感じる瞬間なんて、私には一瞬だって存在しないけど。それでもあの行為は、……私には重くて、辛いものだったわ」

 うぐ……。痛いところを突かれたな。
 まぁ、確かに迷惑を掛けていただろうな。ありがた迷惑というやつだろう。黒宮が何て言葉を飾ろうとも、俺がしたのは確かに勝手なことだし、余計なことだろう。
 それでも、俺にはそうせざるを得なかった理由がある。というか、事情があるというべきか……。

 問いただすような黒宮の視線に根負けした俺は、頭を振って白旗を揚げた。
 ストローからコーラを吸い込んでシュワシュワとした感触を舌先で味わう。
 新鮮な感覚が意識を改めてくれる。――そう信じて俺は口を開いた。
 それは、俺にとって忘れられない、トラウマの記憶。

 母さんが、まだ働いていたときの記憶だ。

――

 幼年期の思い出なんて、恥ずかしくて思い出したくもない苦い記憶ばかりだけれど、その時の記憶はなかでもとびきり鮮烈だった。
 よく、トラウマの記憶を「昨日のことのように鮮明に覚えている」とか表現されたりするが、俺はというとあの時のことを全て克明に覚えているわけではない。
 細かい言い回しはあやふやだし、多少は現実との齟齬もあるだろう。
 それでも、あの時・あの瞬間に感じたドン底に突き落とされるかのような不快な感覚だけは、今でも鮮明に覚えている。
 今でもそれを思い出すだけで、少し前までどれだけハイな気分でいたとしても一気に盛り下がることだろう。空気の読めない下ネタや親父ギャグなんかよりもよっぽど明確に、俺の心を消沈させる。
 俺の心を真っ暗な冥闇に突き落とすのだ。

 俺の家は半分以上母子家庭のようなものだった。
 父親は居ないわけではない。ただ帰ってくる頻度が少ないというだけだった。
 だから俺はあまり父親が好きではなかった。
 時々帰ってきては母さんを奪ってゆくだけの、良く分からない存在。なんなら敵だと認識していたはずだ。
 けどまぁ、どんな家庭にも似たような事情はあるだろう。だからそこは特別不幸だったというわけではない。
 だからこれは、父親の所為でもなんでもなく、ただ単純に俺が悪かった。それだけの問題だった。

 父親が帰ってくるのは月に一度くらいだった。
 多い時期でも、それでも週に一度くらいが精々。まぁ、そんな時期はあまりなかったけれど。
 つまり、そんな程度しか顔を合わせない希薄な存在。俺にとってはその程度のものだった。

 俺は母さんが好きだった。当時はいわゆるマザコンだったのかもしれない。なんて言い始めたらどんな子でもマザコン扱いを免れないかもしれないが……。
 ともかく俺は母さんが好きで、それを奪おうとする父親が嫌いだった。言い方を変えれば憎んでいた……、のかもしれない。
 父親が帰ってくると、母さんは父親にべったりだった。
 「仕事はどう?」だとか「次はいつ帰って来れそう?」とかそんな話をいつもしていた。
 父親はやつれた顔で凄く満足げな笑みを浮かべていたのを覚えている。
 そんな父親が嫌いだった。そして、そんな父親と楽しそうに、仲睦まじそうに話している母さんも少しだけ嫌いだった。
 たぶんその時の俺はもっと自分に構って欲しかったのだろう。だから、母さんの視線を、笑顔を独り占めする父親が嫌いだったんだと思う。

 父親がまた出て行ってしまうと、母さんはリングを大事そうに握り締めていた。
 銀色のリング。まぁ言うまでもなくエンゲージリングというやつだったのだろうが、当時の俺にはそんなことは分かるはずもない。ただ、それを愛おしそうに掻き抱く母さんの顔を見て、黒い感情が芽生えていたのを覚えている。
 母さんはことあるごとに言っていた。大事そうに呟いていた。

「これはね、お父さんとお母さんの大切な思い出なの。これがお父さんとお母さんを何度でも引き逢わせてくれるの」

 そんな言葉を俺は、憎々しく聞いていたように思う。
 やがて少年の頃の俺は、最悪の発想をした。

 ――じゃあ、『それ』がなくなれば『あいつ』は、二度と母さんに逢えなくなる……?

 母さんはリングを身につける人ではなかった。
 いつも化粧台の隅に置いてある小箱の中にしまっていた。
 いつもそれを見ていたから、実行するのは簡単だった。

 ――もう、あんなヤツ……。帰ってこなくていい!

 俺は、母さんが見てない隙をついて、リングをゴミ箱に放り捨てた。
 そうして、俺は敵を始末した気になっていた。

 その数日後、母さんが倒れるまでは。
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