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桂仁志は素直になれない

第十二話

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 見上げた空には綺麗な青が広がっていた。
 あっという間に、おふくろは骨と灰になった。
 親戚は遠方で足腰も悪い高齢者ばかりで駆けつけられないと言われていたから、参列はオレだけだと踏んでいた。
 だが、おふくろの教え子たち、昔の教員仲間。普段は県外在住だが、お盆で帰省していた中、訃報を聞き、駆けつけたと言う人も多かった。

 そして、浅倉姉妹はご両親とともに手伝いを願い出てくれた。ご両親は共働きでお盆も忙しいと聞いていたから、驚きを隠せずにいると、お父様がこちらへやってきた。
「娘たちが大変お世話になっていたにもかかわらず、お母様にはご挨拶が出来ないまま……。申し訳ございません」
「いえ、そんな……」
 保護者との会話は慣れていると思ったのだが、右往左往する。そんなオレに、ふと微笑んだその顔は浅倉にそっくりだった。

 おふくろが繋いでくれた縁に感謝するとともに、たくさんの人に見送られて喜んでいるだろう。
 しかし、浅倉はずっと暗かった。笑ってもどこか力がなく、オレよりも沈んでいるような気がした。それでも、
「困ったことがあったら言ってくださいね」
 と言ってくる。
「オレは大丈夫だ。オマエは受験生なんだから、オレの心配してねぇでいいから」
「でも」
「オマエも妹もおふくろが亡くなってショックだと思う。無理すんなよ」
 そう声をかけても、どこか納得してないように、渋々と頷くだけだった。

 忌引きで休んでいた分を取り戻そうと、復帰後は仕事に精を出した。
 しかし、家に一歩でも入ると、スイッチが切れたように動けなくなる。オレは本当に一人になってしまったという現実が襲う。ろくに見もしないテレビを賑やかしにつけるだけつけて、泥のように眠る。

 掃除と洗濯は何とか出来たが、問題は食事だった。亡くなった日から冷蔵庫は空。あの日、きっと浅倉姉妹と買い出しに行き、また豪勢に何か作る予定だったのだろう。オヤジの本と違い、おふくろの遺したものがない気がして、寂しさが増した。
 仕事のあとは、牛丼屋やラーメン屋で食事して帰ることにしたが、数日ですでに飽きてきた。休みの日だけでも、違うものが食べたい。

 荷物を整理していると、おふくろが書き残したレシピノートが出て来た。開くとおふくろの字が目に入って来て、読むとおふくろの声で再生される。何とか作れそうなものはないかと、ページをめくり、「ごま味噌タレの肉野菜炒め」を見つける。肉と、野菜があれば良いようだ。調味料は台所の周りにいろいろあるから、ゴマ味噌タレじゃなくてもなんとかなるだろう。
 そう思って食材を買ってきた。安くなっていた薄切りの牛肉、キャベツ、ピーマン、ニンジン、もやし。
 早速始めようとするが、そもそも計量カップや調理器具がどこにあるかわからない。台所の引き出しをひっくり返して見つける。フライパンが小さいものから大きいものまでさまざま置かれている。こんなに持っていたのかとこの時初めて知った。
 とりあえず中くらいのサイズのフライパンを手に、ようやく調理を開始したが……おふくろが作った味にはほど遠いものが出来た。肉は焦げて、野菜も硬かったり、反対に柔らかくなりすぎて食感がなくなってしまっていたり。それに水っぽい。結局、もう一度スーパーへ行き、割引になった総菜を買って口にした。

 おふくろの料理が恋しい。さよならもありがとうも、ごめんも、美味しかったさえも言えず、別れるなんて思ってもなかった。旅行だって連れてってやれてないまま。
「アンタはいつも本音を言わないね」
 数週間前の、台所での会話がよぎる。あの時のおふくろの表情。蛍光灯の真下だったからと思っていたが、あんなに悲しそうな顔は初めて見たかもしれないと今になって思う。
 ちゃんと就職して、家に金を入れる。それが親孝行だと思っていた。だけど、
「何もできてやしない」
 乾いた声が空しく部屋に響いた。

 九月に入り、新学期が始まるとまた忙しさが加速していく。体育祭と文化祭の準備が徐々に始まり、時間が湯水のように消費されていく。いつまでも落ち込んでいられない。昼休みも本を読まず、菓子パン片手に仕事をする。
「桂先生、休み時間くらい休んだ方が良いよ」
 山田先生が心配そうにオレの顔を覗き込む。
「ありがとうございます。オレは大丈夫っす」
 小さく会釈してから、パンにかじりつく。今日はイチゴジャムとマーガリンのサンド。予想以上に甘ったるく、緑茶で流しこむ。むしろお茶を飲みまくり、それで腹を満たしたようなものだった。
 帰宅しても、仕事をやってないと気が休まらない。手を止めると、寂しさが襲ってくる。

 浅倉姉妹とは葬式以来、オレの家には来ていない。浅倉妹はオレのクラスだから顔を合わすが、姉の方は週に数回の授業だけ。二人とも日常に戻り、学生生活を楽しんでるならそれでいい。ようやく先生と生徒の距離になったのだ。オレと、特に浅倉紗子は近づきすぎた。だからこれで……。

「先生ぇ」
 ハッと我に返ると、文芸部の生徒たちがオレを見ていた。
「え?」
「先生、文化祭で出す本の印刷の話をしてたんですけど……」
「あっ……そうだったな。印刷所決めねえと……」
「いや、もうそれは決まったじゃないですか」
 そんな話したか? すっぽりと記憶が抜けている。思い出そうとしても、脳内には真っ白な景色が広がる。
「悪い。今日はちょっと職員室戻る。金額はたぶんそれで通ると思うから」

 部室を出て、「くそっ」と小さく吐き出す。ダメだ。何をやっても、「いつも通り」に戻らない。おふくろのことを忘れたい訳じゃない。だけど、オレは一人で「いつも通り」に仕事して、生活しないといけないのに。これまでどうやって生きていたんだ? 自問自答しても、もうわからなくなってきた。

 ふと顔を上げると、浅倉が前からやって来るのが見えた。ただすれ違うだけだと思いきや、浅倉はオレのシャツの裾を掴んだ。今にも泣きそうな表情で。
「お、おい!」
「先生、ちゃんとご飯食べてますか?」
「何を突然」
 おふくろみたいなことを言うなよ、と続けようとしてやめる。
「質問答えてください」
「……た、食べてる。食べてるよ」
 食べていることは本当だ。ただ、漫然と食べているだけだが、ウソではない。じっと、彼女はオレの顔を見たあと、
「……それなら大丈夫です」
 手がゆっくり離れた。
「じゃ、オレは戻るから」
 彼女の横を通り過ぎる。
 立ち止まってしまえば、彼女に甘えてしまいそうだった。浅倉なら、悲しみや寂しさをわかってくれるかもしれない。抱えきれない不安、一人でなんとかやらねばならないという責任の重さに今にも潰れそうだった。だけど、オレは大人なのだ。一人で立って歩いて行くしかない。そう言い聞かせた。
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