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本編

第068話 魔煌石を巡る攻防(西の陣)②

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 椿の言う通り、夏目家の持つ「水獄」は水の持つ「抵抗」の特性を利用した拘束の術式である。
 水の密度は空気の800倍になる。そのため、陸上と同じ速度で同じ運動をした場合、水中では約19倍の抵抗を感じると言われている。
 夏目家の術式はこの抵抗の概念を拡張し、水の持つ抵抗を高めることで水球中に捕らえた対象を拘束する。水球に捕らえられ、もがこうと抗う者を、この特性により抑えつけるのだ。

 そして、彼女の術式にはもう一つ、これまた同じく水の持つ特性を利用した攻撃手段・・・・が存在する。
 それがイプシロンに対して告げた「捕らえた対象を溶かす」という攻撃手段である。

 無色透明な水には、目には見えない様々な成分が溶け込んでいる。例えば水道水を50mプールにいっぱいに入れた場合、その中にはドラム缶数本分の不純物が溶けていると言われるほどだ。
 それはつまり、「水は物を溶かす力が強い」ということを示しており、椿の告げたことはこの性質を強化したものである。

(溶かされる……? 消滅する、だと? この私が……?)

 イプシロンはダメージを負った左手を見ながら、現実に迫る「消滅」の恐怖に抗うため、弱り切った心を一喝する。
「は、ははっ……ふざ……ける、な……」
 カタカタと小さく身を震わせ、彼女は一瞬でも恐怖に掴まれた自分に怒りを覚える。

「ふざ……けるなああああぁぁぁっ!!」

 心に灯る小さな怒りの種火。その小さな炎はやがて全身へと広がり、彼女の中に取り込まれた「魔物」を呼び起こす。

「あらあら……それが貴女の身に宿る魔物の力? いいわぁ~……ゾクゾクする」

 魔物の力を引き出したイプシロンは、三つ編みに編んでいた髪が解け、新月の夜と同じ闇色に染まっていたその髪が白雪の色に染められる。掛けていた黒縁眼鏡を取り去った彼女の両眼には、涙の跡にも似た黒い筋が顎にまで走っている。

 また、彼女の周囲には青白い髑髏顔の人魂が纏わりつくように旋回しながら、時折その開いた口から小さな怨嗟の声を響かせている。

 ――泣き女バンシー。それがイプシロンの身体に取り込んだ魔物である。

「キィィィアアアアアアアアアアアアアアアァァァァアアアアアアアァァァァァァッ!」
「――っ!?」

 魔物の力を引き出し、覚醒を終えたイプシロンは空に顔を向けて鋭い金切り声を響かせる。その声量は凄まじく、思わず耳を塞いでいてもなお眩暈を覚えるほどだ。

 闇夜を切り裂く鋭い悲鳴が収まり、再びの静寂が訪れた中、耳に当てていた手を離した椿は微笑みながら口を開く。

「ふふっ……随分とまぁ大人しくなったわね。魔物の力を引き出したのはいいけれど、あれくらいの悲鳴じゃ――」

 相手に聞こえるように呟いた椿は、腿に取り付けたホルスターからクナイを取り出し、いつものように投擲しようとして違和感を覚える。

(あ、れっ……? 視界が、揺れ――)

 手にしたクナイを投擲しようと構えた瞬間、ぐらりと相手の姿が二重にブレる。次いで身体に襲い来る強烈な痺れに、椿は抗えずにドサリと音を立てて倒れてしまう。

「ガハッ!? い、一体な、何……が」
「ククッ……アハハハハッ! オイオイ、あれだけ余裕見せてたのに、どぉしたんだ? ん?」

 起きているのか、と呟く前に、魔物の力を覚醒させたイプシロンが彼女の疑問に答える。

「お前は咄嗟に耳を抑えたようだが、先ほどの私の『泣き声』は一種のトリガーだ。既にこの場は私の『領域テリトリー』と化している。その掌握した領域内にいる相手が私に攻撃の意思を示した瞬間、その者に様々な状態異常が襲いかかる」
「ぐふっ……状態異常……だから、か」
 口から血を漏らした椿が、イプシロンの説明を受けて掠れ声で呟く。

 覚醒を果たし、バンシーの姿となったイプシロンの術式――「怨恨縛呪えんこんばくじゅ」。これは先ほど彼女が述べた通り、自分を中心とした絶叫の届く範囲を「領域」と定め、その区域内に存在する敵意や害意を持つ者に対して様々な状態異常を付与する術式である。
 
 この術式の特徴は、「範囲指定」かつ「複数の」状態異常を、一度に付与するところにある。状態異常の種類は様々あり、「毒」「麻痺」「睡眠」「魅了」「石化」「衰弱」……この他にも付与できるものが存在する。

「おやおやぁ? その不様に地を這う様子から察するに、『毒』『麻痺』は確実だな。あぁ残念だ……『石化』であったら苦しまずに死ねたものを……」
 完全に優位に立ったイプシロンは、地に伏せる椿を見下ろしながら嗤う。

(ぐぅっ。マズイ……マズイマズイマズイ――)

 一方、毒と麻痺に苦しむ椿は、ギリギリと奥歯を噛みながらこの窮地を脱する方策を探っていた。
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