生きるのに向いていない

阿波野治

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生きるのに向いていない③

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 不思議なことに、二人でいることに慣れると、そうひっきりなしにはしゃべらなくなる。
 冷めたとか、倦怠期だとか、そういうことではない。言葉が途切れる時間ができても気まずい空気には陥り得ない、という安心感が生まれたのだ。倦怠の先、長年連れ添った夫婦のみが到達可能な以心伝心の境地、とでも説明すればいいだろうか。

 この境地に至ったことで、ヘンリエッタに意識の焦点が向かない時間も増えた。小説から関心を失いつつあるのを、彼女に知られたくないという思いがあるせいだろう。その時間を、小説を読むために宛てる機会も、徐々にではあるが増えてきた。

 そして気がついたのは、小説という表現形式はエンタテインメントしては弱い、ということ。

 俺はYouTubeで動画を視聴するのが趣味だ。小説を細々とながらも読んだり書いたりするようになったのが、中学生のころ。動画を観る趣味、というよりも習慣が確立されたのが、親からスマホを買い与えられたとき。つまり小学校高学年のころだったから、享受の歴史は小説よりも古い。
 数年間、二つの趣味にどっぷりと浸ってきたが、どちらを味わっている時間が楽しいかというと、どう考えても動画だ。

 証拠として成立するかは分からないが、真面目に大学に通っていた時代、帰宅後に疲れた心を癒すために触れたのは、もっぱら動画だった。動画を観ながら食事をして、食後も視聴を続けて、飽きが来たところでぼちぼちするべき作業に取りかかる。そんなルーティンにのっとって生きていた。小説を読みたいという意欲の主張は、あらゆる場面において決して強くなかった。一日の中で一定時間、読む時間を確保していたが、それはあくまでも経験不足を補うための勉強として。義務という意識が強く、純粋に楽しみながらの読書ではなかった。

 もちろん、読んでいて楽しく、興味深い作品もある。内田百閒の『阿房列車』シリーズには結構はまったし、アゴタ・クリストフの『悪童日記』ほど衝撃を受けた物語は他にないし、安部公房の『砂の女』を読んで「これが本当の文学というものなのだ」と思い知らされた。
 反面、よさを理解できなかった作品も少なくない。森鴎外の『舞姫』は現代語訳バージョンが欲しいと切実に思ったし、トルストイの『アンナ・カレーニナ』は登場人物の名前と関係性を最後まで把握しきれず、ゲーテの『ファウスト』は内容を満足に呑み込めないまま終わってしまった。

 小説は動画とは異なり、勝手に先へ先へと流れてくれない。意味が解せないからといって読み飛ばしてしまえば、途端に物語が断絶してしまい、疑問符が雲霞のごとく脳内で乱舞する。
 さらに言えば、小説というものには、基本的になんらかの教訓が含まれている。意味が隠されている。それを読み解くことに気をとられて、あるいはそのメッセージの押しつけがましさや共感性の欠如に、ストーリーや世界観や登場人物同士のやりとりなどを、純粋な気持ちで楽しむのを阻害されてしまうことがある。阻害される場合の方が多いといっても過言ではない。
 つまり、純然たるエンタメとしては二流。

 様々なエンタメが溢れるこの時代、小説の存在感は刻々と縮小している。急速に魅力を失いつつある。
 そんな斜陽コンテンツを、金を払ってまで学ぶ意味はあるのか。将来的に利益が期待できるのか。貴重な青春時代の大半を捧げてしまってもいいのか。
 俺はいつしかそんな思いを抱くようになった。そして、無視できなくなった。

 彼女なりのやり方で、俺を不登校状態から脱させるべく努力しているヘンリエッタに対して、あまりにも失礼な考えだ。大学に通えない、あるいは小説に対して情熱を持てない自分を正当化するための、幼稚な言い訳だ。
 そう頭では分かっているのだが、その思いを抑え込むのは困難を極めた。無視して日常生活を送ることが、どうしてもできなかった。

 動画ではなくて、ヘンリエッタと共に過ごす時間を比較対象にしてもいい。彼女とくだらないことをしゃべり、笑い合う時間と比べると、小説を読むなんて疲れるだけで、面白味に乏しい。好き好んで関わるなんて愚かだ、とさえ思う。

 彼女と過ごす時間の楽しさと、小説が持つ力に対する懐疑の念。
 行き着く先は、俺にとって不都合な未来であると、薄々感づいていた。
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