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 汐莉。俺の妻の名前。結婚を機に、下の名前で呼ぶのがなぜか無性に恥ずかしくなって、夜の営みの最中、気持ちが昂ぶったさいくらいしか口にする機会はなくなっていた。しかし、俺は今、それに負けないくらい興奮している。

「汐莉! 俺はお前と話がしたいんだ! こっちの世界が見えているんだろう? 俺の声が聞こえているんだろう? だったら、応えてくれ! お前と話がしたいんだ! 汐莉!」

 冷静さを欠いている己を、現状を、俺は肯定する。ひとえに、声量を抑制せずに想いや感情をぶちまける快さにかまけて。

「汐莉! お前を愛してる! お前だってそうだろう? 俺にも言ってくれよ! 愛してるって言ってくれ! 汐莉!」

 何分にわたって叫び続けただろう。
 何十回、汐莉の名前を呼んだだろう。
 やがて声が続かなくなって、叫ぶのをやめた。肩で息をする俺を嘲笑うように、海鳥が滑稽味のある鳴き声を発しながら上空を飛び去っていく。

 呼吸が落ち着いたところで、ショルダーバッグからスマホを取り出す。ディスプレイは素っ気なく真っ暗で、バイブはしていない。
 ふらつく足取りで砂浜に足を踏み入れる。十歩ほど進んだところで、白砂に半ば埋もれていた、長さが腕ほどもある流木につまずき、前のめりに倒れた。咄嗟に両手をついたので、顔が砂まみれになる事態は免れた。

 今のこの体勢、まるで試合に負けて項垂れるスポーツ選手だ。
 俺は負けたのだろうか?

 惨めな気持ちに歯止めをかけるべく、その場に胡坐をかく。なにかについて考えようと試みたものの、思案の糸口を掴めない。相も変わらず、穏やかな波が寄せては返し、海風が砂粒を運んでいく。海鳥の鳴き声はもう聞こえてこない。

「愛想、尽かされたかな……」

 だとすれば、俺は最悪の手を打ったことになる。榊さんはもう、以前と同じように俺と接してはくれないだろう。友人候補のご近所さんからも、妻からも見放される。二兎を追う者は一兎をも得ず、とはこのことか。

「……なんてこった」

 汐莉に関しては、向こうから電話をかけてくれないから手の打ちようがない。
 榊さんに関しては、まだ挽回の余地を残している。とはいえ、彼女心を引き戻すための文言は全く浮かばない。浮かんだとして、俺との対話の席に着いてくれるかどうか。
 榊さんとの距離を詰めすぎたことを理由に時を巻き戻してくれれば、榊さんとの関係構築を早い段階からやり直せるが、汐莉はその手は打たないだろう。根拠はないが、そんな気がする。

 なにもかも手遅れなのだ。
 俺は、取り返しのつかない失策を犯してしまったのだ。

 これからの人生が酷くつまらないものになる予感に、暗澹たる心持ちになった。絶望したと言い換えてもいい。なにから手をつければいいかが分からず、俺は途方に暮れた。
 それでも考えた。砂の上に賢者のように胡坐をかいたまま、懸命に思案を巡らせた。
 汐莉に電話をかける意志はない。こちらからは汐莉にはかけられない。それでも、汐莉と会話がしたい。では、どうすればいい?

「――よし」

 おもむろに立ち上がり、尻に付着した砂を払う。つまずかせた犯人である流木を拾い上げ、できるだけ物が落ちていない場所へと移動する。
 右手で把持したものを使って、白い地面に円を描く。大きさは、大の字に寝転んだ俺がすっぽり収まるくらい。輪郭は歪だ。その中に、五芒星を描き込む。直線は曲線よりも描きやすいはずなのに、円以上に歪な形になる。

 俺は、汐莉をあちらの世界から召喚するつもりだった。
 本気で召喚できるとは思っていない。というよりも、絶対に無理だと思う。しかし、本気でやろうと思った。あいつは馬鹿なことをやるのが好きだ。追いつめられた立場としては、その接点に、その一点に活路を見出したかった。

 星の真ん中にスマホを置く。図形の外に出たところで、召喚を実行するためには呪文が必要なことに気がつく。
 呪文、呪文、呪文……。簡単なものでは相応しくない気がするが、複雑なものを要求されてもなにも思い浮かばない。呪文、呪文、呪文……。

 俺はその場に土下座をした。砂に足をとられてつまずいたときに似て、なんとも間抜けで、なんとも屈辱的な姿勢だが、俺の心は叫びたい衝動に支配されている。

「一生のお願いだ! 俺と話をしてくれ、汐莉……!」
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