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 目が覚めたのとどちらが先なのか、白黒曖昧だが、とにかく電話がかかってきた。バイブ音が聞こえたのでそうだと分かった。
 仰向けから俯せの姿勢に移行し、ヘッドボードに注目する。真っ暗だ。しかし、スマホは確かにその場所にあって、バイブ音はやんでいない。

 妻からだ。
 あいつからの電話は何日ぶりだろう。三日か、四日か、それとも一週間か。かかってくるのは不定期だから、迅速に真実を言い当てるのは難しい。

 利き手を伸ばしてスマホを掴む。バイブし続けているそれの、保護フィルムを貼っていないディスプレイに、ホーム画面を表示させる。現在時刻は、午前三時十八分。

「……なんだよ。マジふざけんなよ……」
 吐き捨てた悪態は、無意識に響かせた舌打ちのようなものだ。スマホを耳に宛がう。振動が息絶える。

「なんだよ、こんな時間に。もう明日だぜ。四月二十九日」
「そう怒鳴らないでよー。ちょっと思い出したんだけどね」

 特徴的な高音に、ゆったりとした口調。声音で不快感を表現してみせたというのに、妻の喋り方は普段と全く変わらない。こちらの感情の昂ぶりを冷却する目的でやっているのだとしたらあっぱれだが、残念ながら我が妻は、よくも悪くもそんな器用な真似ができる人間ではない。

「思い出したって、なにを」
「龍くん、明日っていうか今日、美術館に行くでしょ。始発便が九時で、一時間半かかるから、着くのは十時半。館内を全部見て回るのにだいたい一時間かかるって考えたら、昼食はどうしても現地で、っていうことになるよね」
「そうなるな」
「だから、わたしがお弁当を作ろうかなって」
「いいよ、わざわざ。観光地なんだから、飲食店くらいあるだろ」
「でも、そういうところにあるお店って高いでしょ。作ったものを持って行った方がいいよ。絶対にその方がいい」

 体調不良を申告した我が子に、病院へ行くことを勧めるかのような物言いだ。

「でもさ、作るの面倒くさくない? コンビニ弁当を買って持っていくとかでもいいし、別に無理には」
「たまの休みにお弁当を作るくらい、全然いいよ。ちっちゃいことは気にしないで、甘えて、甘えて」
「そこまで言うなら、そうしようかな。……ていうかさ」
「なに?」
「ノータッチだから触れるけど、今は夜中の三時だからね。深夜二十七時。弁当を作ってくれるのは文句なしにありがたいんだけど、もう少しこっちの状況も考えてくれ」
「うん、分かった。でね、お弁当のことだけどね」
「無視か」
「お弁当のおかずなんだけどね、ウインナー買ってあったかな」
「は?」
「太さとか味とかはなんでもいいんだけど、一本もないんだったら、明日は早起きして買ってこなくちゃいけないでしょ。というわけで、冷蔵庫の確認をお願い」
「……あのなぁ」

 舌打ちをどうにか封じ込め、語を継ぐ。

「くり返しになるけどさ、こっちは夜中だぜ。お前がいる世界ではどうなのかは知らないけど、こっちの世界は夜中の三時だ。勘弁してくれよ。もう寝かせてくれ」
「でも、気になるし」
「ていうか、ウインナーは必要不可欠なの? 無理に使う必要、なくない? なんなの、そのこだわりは」
「絶対おかずに入れたいの。だから、見てきて」
「いや、でも、眠いし」
「いいから」

 不毛な会話をくり広げるよりも、さっさと冷蔵庫を見てきた方が解放される瞬間が速まることに、遅まきながら気がつく。妻のわがままに屈服するのは癪だが、仕方ない。結婚生活で男が学ぶのは、忍耐ではなく諦めだ。

「分かったよ。トイレ行きたいから、五分後くらいに報告する」
「だーめ。スマホ持って実況中継」
「なんでだよ。放尿の音なんて聞きたいか?」
「スマホはいったん部屋に置いといて、トイレを済ませたら部屋に戻って、スマホを持って一階に下りるの」
「まあ、いいけど。マジで面倒くさいな、お前」

 褒められたと勘違いしたのか、ふふふっ、と邪気のない笑い声が聞こえてきた。腹が立たなかったといえば嘘になるが、律儀に怒りをぶつけるのも馬鹿馬鹿しい。

「じゃあ、今からトイレに行ってくるから、二分くらい待ってろ」
「はーい」

 スマホを枕の上に置き、ダブルベッドから這い出す。共に眠る人間がいなくなった空虚感と喪失感と寂寥感は、もはや遠いものになってしまった。
 無理もない。
 妻がこちらの世界からいなくなって、もう二年が経つのだから。
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