どうせみんな死ぬ

阿波野治

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曰くつきの絵

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 思いの外、道が空いていたため、約束の時間よりも二十分も早く目的地に着いた。時間を潰すために炎天下を歩き回るくらいならと思い、下村は上条邸の玄関のチャイムを鳴らした。
 やや間があってドアが開いた。応対に出た女性は、下村が想像していたよりもずっと若かった。妻は五十を過ぎていると上条春夫は言っていたが、二十代にしか見えない。

「奥様、初めまして。上条部長の部下の下村です。今日は例の画を拝見に伺いました」
「話は聞いているわ。外、暑かったでしょう。さあ上がって」

 下村は靴を脱ぎ、スリッパに足を通した。上条夫人は彼を応接室へと案内した。
 いかにも金持ちの家の応接室らしい一室だった。真紅の絨毯、黒革のソファ、ガラス製のテーブル。充電中のルンバ、書棚の『君に届け』、日本列島が右端にある世界地図。それらに加えて、室内のあちこちに、古色蒼然たる皿や壺が置かれている。

 ソファに腰を下ろして待っていると、上条夫人が応接室に現れた。右手に茶と茶菓子を載せた盆、左手に「docomo」と印字された紙袋を持っている。夫人が茶と茶菓子を勧め、下村が恐縮してみせるというお決まりのやりとりの後、彼は「docomo」の紙袋を指差した。

「それはなんですか?」
「この中に画を入れてあるの。出しますね」

 夫人は紙袋から一枚の紙片を取り出し、テーブルの上に置いた。
 画の全容を目の当たりにして、下村は息を呑んだ。
 B5サイズの横長のその紙には、ちゃらちゃらした風采の若い男が墨で写実的に描かれていた。俗に言うアヘ顔ダブルピースをしていたのだが、下村はモデルの表情並びにポーズの奇抜さに度肝を抜かれたのではない。男は紙の左半分に描かれていて、右半分は真っ白なのだ。

「……気味の悪い画ですねえ」

 テーブルの傍らに佇む夫人を見上げ、下村は苦笑混じりに感想を口にした。夫人は小さく頷いた。その顔はなぜか嬉しそうだった。
 下村は夫人に画について質問してみた。入手経路、作者、右半分が真っ白な理由。夫人は「分からないことの方が沢山ある」と断った上で、こう語った。

「この画のモデルとなった男は、実在していた人物よ。どうしようもないニート野郎だったんだけど、ある日、ふと思い立って宝くじを買ったところ、見事三億円が当選、文字通り億万長者になったの。働いていなし働く気もない人間が、三億円という大金を得たらなにをすると思う? 豪遊よ。色々とバブリーなことをしたみたいだけど、男はある時、恋人の女を連れてある画家のアトリエを訪れ、二人の画を描くよう依頼したの。画家は生活に困っていたから、三億円の当選者である男の申し出を快諾したんだけど、男は画家に金を払うのを拒否したわ。調子に乗って湯水のように使ったせいで、残金が残り僅かだったからよ。それを知った画家は激昂し、男と女を殺害、直後に自ら命を絶ったの。因みに、右半分が白紙な理由は不明なんだけど、二つ説があって、一つは、画の製作途中で画家が殺人を犯して自殺したため、未完に終わったという説。もう一つは、画は完成していたんだけど、殺された女の魂が女の画に宿り、紙の中から抜け出したという説。後者の説は非科学的だけど、有り得ない話ではないわよね。だって悪いのは、金もないのに画を描くよう画家に依頼した男であって、女は恋人が起こしたいざこざに巻き込まれただけ。この世に未練たっぷりだったとしても不思議ではないわ」

 見れば見るほど気味の悪い画だ、と下村は思う。ただ眺めているだけなのに、無闇に喉が渇く。

 グラスが空になったのを見て、夫人は下村におかわりを勧めた。彼はその言葉に甘えた。空のグラスを手に部屋を出た夫人は、すぐに新しい茶を淹れて戻ってきた。
 夫人の手によってグラスがテーブルに置かれた瞬間、玄関で大きな物音がした。
 下村は思わず悲鳴を洩らした。驚いたのは夫人も同じだったのか、あるいは下村の驚き様に驚いたのか、グラスをひっくり返した。こぼれた茶がアヘ顔ダブルピースの画を濡らす。

「大変、大変!」

 夫人は画を「docomo」の紙袋に押し込むと、それを手に、脱兎の如く応接室から走り去った。
 下村が呆然とソファに座っていると、見知らぬ女性が部屋に入ってきた。上品な身なりをした中年の女性だ。
 下村の姿を認めると、女性は恭しく頭を下げ、懇ろに挨拶を述べた。

「下村さんですね? 主人から話は聞いています。上条の妻でございます」
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