どうせみんな死ぬ

阿波野治

文字の大きさ
上 下
19 / 33

この世は夢幻

しおりを挟む
 朝九時過ぎ、布団にくるまって愚図愚図していたエイジは、部屋のドアが開く音に我に返った。
 入ってきたのは、顔は老婆、首から下は若い女性という姿の、素っ裸の女。
 女は乳房を揺らしながらベッドに歩み寄り、エイジに手を差し伸べた。
 エイジは枕元に置いてあった置き時計を掴み、女の頭部に叩き込んだ。ぎゃっ、と呻いて女がくずおれる。血のついた置き時計を放り投げ、部屋を飛び出した。

 クリスマスの街は小雪がちらつく天候だったが、人出で賑わっている。
 見てしまった。とうとう幻覚を見てしまった。
 心中で繰り返しながら、エイジは足早に大通りを歩く。
 僕は病気なんだ。治療しなければ。今日はクリスマスだけど、心療内科は営業しているだろうか?

 横断歩道を渡り切った直後、金切り声のようなブレーキ音が聞こえた。
 振り向いたエイジは、向かいの歩道の人波を目がけて、二tトラックが突っ込んでいくのを目の当たりにした。次々と悲鳴が上がり、人々が人形のように宙を舞う。トラックは電柱に激突して停止した。
 運転席から降りてきたのは、八十を過ぎていると思しき老爺。にやにやしている。
 何者かが老爺に走り寄った。太鼓腹の男性警官だ。

「いけませんねえ、人を撥ねては」

 警官はにこにこしている。

「二tトラックは車道を走行するために作られた乗り物ですよ。交通ルールは守っていただかないと」
「でも、私は高齢者ですよ?」

 老爺はにやにやしている。

「どうせ無罪でしょう、何人撥ねようが」
「いかにも。あなたは社会的弱者ですから、罪を犯しても、社会的強者が尻を拭ってくれます。それにしても、しかし、なんですなあ。素晴らしいですなあ、弱者に優しい国というのは。ははは!」

 老爺と警官は笑い声をはもらせた。
 エイジは身震いし、道のりを急いだ。



 心療内科は営業していた。
「保険証を忘れた」と受付で申告すると、サンタクロースの格好をした受付嬢は鼻で笑った。保険証を忘れたことについては何も言わなかった。
 待合室で五分ほど待つと、名前を呼ばれた。名前を呼んだ女性看護師は、診察室に入るエイジが横を通過する際、彼の耳元で「保険証を忘れた」と口真似で囁き、シンバルを叩く猿の玩具のように両手を打ち鳴らして大笑いした。

 診察室はエイジの自室だった。
 アダルト雑誌を堂々と並べてある書棚。引っ越し以来封じられたままの段ボール箱。動作音がやかましい加湿器。頭蓋骨を柘榴のようにかち割られた素っ裸の女の死体に、血のついた置き時計。
 医師は理知的な印象の中年男性で、ベッドに腰掛けている。

「どうぞ、お座りになってください」

 医師はにこやかに勧めた。なにも敷かれていないフローリングの床に正座する。目の前にスナック菓子の食べ滓が落ちている。
 部屋は毎日掃除をしているのに、なぜ? まさか、これも幻覚? 
 エイジは堪らない気持ちになった。医師が「どうされましたか」とまだ訊いていないにもかかわらず、恐ろしいまでの早口で捲し立てた。

「先生、助けてください。この世界は狂っています。人生なんて、一場の夢じゃないですか。幻覚ではないのが幻覚で、その逆も然り、そうでしょう? だのにクリスマスごときに浮かれて、阿呆だ。おかしいですよ。夢幻なのに。どうせ百年後にはみんな死んでいる。どう考えても狂っていますよ。もう手の施しようがない。寛容? いかれている。僕は貧乏人なんだ。断じてやっていない。追い詰めないでくれ。昔に戻りたい。……いや、そうじゃない! 違うんです、違うんだ。いや、それとも? まさか! でも、分からない。なにもかも分からない! 先生、助けてください!」

 話を聞き終えるなり、医師は両手を打ち鳴らし始めた。「保険証を忘れた」の女性看護師とは違い、品のある叩き方だった。
 やがて拍手を止めると、エイジに向かって右手を差し出した。満面に湛えられているのは、カルト宗教の教祖じみた、慈悲深くも威厳溢れる微笑み。

「今のお話を聞いてはっきりしました。あなたは紛れもなく『こちらの世界』の住人です。――ようこそ『こちらの世界』へ」

 その発言を合図に、部屋に続々と人が入ってきた。二tトラックで歩道に突っ込んだ老爺。太鼓腹の男性警官。サンタクロースの格好をした受付嬢。「保険証を忘れた」の女性看護師。

「いやあ、めでたいなあ、『こちらの世界』の住人が増えて」

 医師はエイジの手を握り、激しくシェイクする。入ってきた者たちはエイジを取り囲み、やかましく拍手を打ち鳴らす。息絶えたはずの素っ裸の女も、血に濡れた置き時計を片手にその輪に加わっている。

「あなたにとって最高のクリスマスプレゼントになりましたね。心からおめでとう!」

 エイジは口元を綻ばせた。
 現在自分が見ているものが幻覚だったとしても、幻覚ではなかったとしても、それぞれに救いがあると知ったから。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

意味がわかるとえろい話

山本みんみ
ホラー
意味が分かれば下ネタに感じるかもしれない話です(意味深)

【一話完結】3分で読める背筋の凍る怖い話

冬一こもる
ホラー
本当に怖いのはありそうな恐怖。日常に潜むあり得る恐怖。 読者の日常に不安の種を植え付けます。 きっといつか不安の花は開く。

意味が分かると怖い話 考察

井村つた
ホラー
意味が分かると怖い話 の考察をしたいと思います。 解釈間違いがあれば教えてください。 ところで、「ウミガメのスープ」ってなんですか?

意味がわかると怖い話

Kisaragi_2624
ホラー
意味がわかると怖い話です。

校長先生の話が長い、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。 学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。 とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。 寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ? なぜ女子だけが前列に集められるのか? そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。 新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。 あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

処理中です...