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小さいおじさんと魔法の液体
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階段を一段一段、確かめるように降りながら、手すりを掴んでいない右手をこめかみに宛がう。脳味噌が鼓動している。一つ脈を打つたびに、鈍い痛みが頭蓋骨を揺るがす。
まるで心臓だ。頭痛に見舞われるたびにそう思う。
脳味噌が心臓と化している時、僕は決まって幻覚を見る。
さて、今回はどんな馬鹿げた映像をお目にかかれるんだ?
*
窓のカーテンが閉め切られ、ダイニングは薄暗い。テーブルの上には母さんが作った朝食が並んでいる。ハムとレタスのサンドウィッチ。スクランブルエッグ。アイスコーヒー。
食欲はないが、何か食べておかないと頭痛が余計に酷くなる。着席し、サンドウィッチに手を伸ばした。
瞬間、視界の端、テーブルの右隅で何かが動いた。
おじさんだ。手の親指くらいの背丈の、小さいおじさん。白のタンクトップにグレーのスラックスという服装。にこにこと笑いながら、テーブルの中央に向かって走っていく。
おじさんはサンドウィッチの皿に到達すると、中年とは思えない軽快さでそれによじ登り、パンとハムとレタスとバターとマヨネーズによって構成された塊に相対した。
ごくり、と息を呑む。
おじさんはいきなり、パンとハムの隙間に頭をねじ込んだ。泳ぐように四肢を動かすと、体が徐々にサンドウィッチに埋もれていく。十秒も経たないうちに、おじさんはパンとハムの間に完全に隠れた。
「おじさん……?」
呼びかけたが、反応はない。僕の目の前にあるのは、何の変哲もないハムとレタスのサンドウィッチ。中に異物が挟まっているようには見えない。
「……何だ、幻覚か」
溜息をつき、サンドウィッチを手に取る。匂いを嗅いでみると、微かに加齢臭を感じたが、気になるほどではない。一口かじる。
「ぎゃあああ! 痛い! 痛いよぉ、ママぁ!」
中年男性の絶叫が響いた。サンドウィッチは硬く、血の味がした。頭の痛みが少し強まった。
声はサンドウィッチを平らげると共に途絶えた。
*
緩やかに悪化していく頭痛に顔をしかめながら通学路を歩く。目撃した幻覚は、今のところ、テーブルで見た小さいおじさんだけだ。
とはいえ、あれで終わりだと決めつけるのは早計だろう。頭痛が続く限り、見えるはずのないものが見える可能性はあるのだから。
*
おじさんは僕の母さんの弟で、隣町でおばさんと一緒に暮らしている。
おじさんの家は、大きくて古びていた。地下室だとか、蔵だとか、好奇心を刺激するものが沢山あった。自宅からは徒歩で行ける距離だったので、子供の頃はよく遊びに行った。
おじさんは、一言で表すなら温和な人だ。人当たりが柔らかく、常ににこにこと笑っていた。
だけど、病んでいた。肉体も精神も病んでいた。
まず肉体。
おじさんは、会うたびに体が少しずつ縮んでいた。記憶の中の最古のおじさんは、確か僕が四歳の時だったと思うのだが、身長百七十五センチの僕の父さんよりも頭一つ背が高かった。それが今から三年前、僕が十四歳の頃には、四歳の時と比べて背丈は三分の一くらいになっていた。
次に精神。
おじさんは、時折おかしな言動を見せることがあった。基本的には善良で人畜無害な人なのだが、虚を衝くように、周りの人間を唖然とさせるようなことを言ったりしたりした。
中でも印象に残っているのは、小学五年生の時の夏休みの出来事。
「カズちゃん、納屋の中を見に行こう。面白いものがあるから」
居間で漫画を読んでいた僕に、身長百十センチのおじさんはそう提案した。好奇心旺盛な子供だった僕は、諸手を挙げてそれに賛成した。
納屋の戸を開けた途端、中から悪臭が漂ってきた。僕は思わず鼻をつまんだが、おじさんは臭いを気にする様子もなく、ずんずん奥へ進んでいく。ついて行くと、やがておじさんの足が止まった。
「カズちゃん、これ、何が入っているか分かる?」
指し示したのは、一本の樽。身を縮めれば大人の体がすっぽりと収まるほどの巨大な樽だ。悪臭の発生源はそこらしく、臭いが凄まじい。
「この中にはね、魔法の液体が入っているんだ」
おじさんはにこにこと笑いながら答えを明かした。
「おじさんはね、不要になったものをこの樽の中に入れるんだ。そうしたらね、夜に入れれば朝までには、朝に入れれば夜までには、魔法の液体が要らないものを跡形もなく溶かしてくれるんだ。ありとあらゆるものを、半日で、跡形もなく。とても便利だろう?」
ありとあらゆるものを跡形もなく溶かすのに、なぜ樽は溶けないのだろう。
そんな疑問が芽生えたが、一刻も早く悪臭から逃れたい気持ちが勝り、おじさんの手を引っ張って納屋の外に出た。
思えば、僕が頭痛に悩まされるようになったのは、あの日からだ。
*
「待ちなさい!」
突然、甲高い声が後方から聞こえた。
振り返ると、おばさんが赤信号を無視してこちらへと走ってくるのが見えた。
常識的に考えれば、本物のおばさんだ。だけど頭痛はまだ続いている。あるいは幻覚かもしれない。
「返しなさいよ!」
おばさんは僕に追いつくと、タックルしてきた。胸に衝撃を受け、体が大きく後方に傾く。
本物のおばさんだ。
悟った瞬間、おばさんの両手が僕の胸倉を掴み、傾いた体を元に戻した。転倒を免れ、安堵したのも束の間、激しく揺さぶられる。
「返してよ! 返せよ、返せってば、この人でなし!」
返せって、何をですか?
そう問うよりも先に、おばさんは答えを明かした。
「パパを返してよ! あんな小さくてか弱い人間をサンドウィッチもろとも食べるなんて、酷すぎる!」
体内を循環する血の流れが一瞬止まる。再び動き出すと共に、心臓が早鐘を打ち始めた。
おばさんはなぜ、僕が今朝、サンドウィッチを食べたことを知っているんだ? あの時、ダイニングに居たのは僕一人だし、窓のカーテンは閉め切られていたのに。
「返せよ、人殺し!」
おばさんは僕を激しく揺さぶり続ける。その揺れが頭の痛みを増幅させる。
小さいおじさんは幻覚だ。そう判断したから、僕はサンドウィッチを食べた。
だけど、その判断は本当に正しかったのだろうか?
僕は、おじさんがパンとハムの間に潜り込むのを見た。
匂いを嗅ぐと、微かに加齢臭を感じた。
かじった瞬間、中年男性の叫び声を聞いた。
硬かった。
血の味がした。
小さいおじさんは、幻覚ではなくて、本当に小さいおじさんだったのでは?
「人殺し! 人殺し!」
……逃げなきゃ。
振りほどこうとしたが、おばさんは胸倉を掴む両手に力を込め、一層激しく揺さぶる。頭痛は加速度的に酷くなる。頭が割れそうだ。
このままだと、僕は破滅する。
「離せ!」
力任せにおばさんを突き飛ばした。胸倉を掴んでいた両手が外れ、体が大きく後方に傾く。悪寒が背筋を駆け上った。咄嗟に手を伸ばしたが、間に合わない。おばさんの後頭部が地面に激突し、鈍い音が響いた。
*
頭痛はすっかり治まっていた。
「……ごめんなさい」
身じろぎ一つしないおばさんを引きずりながら、僕は道を歩く。両目から絶え間なく涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
向かう先は学校ではなく、隣町のおじさんの家。
「おじさん、ごめんなさい……。おばさん、ごめんなさい……」
今となっては、僕の希望は魔法の液体だけだった。おじさんの家の納屋に置かれた樽に入れられた、あらゆるものを半日で跡形もなく溶かしてしまうという、魔法の液体。
あらゆるものを溶かすが、入れ物である樽は溶かさない。常識的に考えて、そんな液体など存在するはずがない。
それでも僕は信じてみたかった。
小さいおじさんは幻覚ではなかったのだ。魔法の液体だって実在するかもしれないではないか。
まるで心臓だ。頭痛に見舞われるたびにそう思う。
脳味噌が心臓と化している時、僕は決まって幻覚を見る。
さて、今回はどんな馬鹿げた映像をお目にかかれるんだ?
*
窓のカーテンが閉め切られ、ダイニングは薄暗い。テーブルの上には母さんが作った朝食が並んでいる。ハムとレタスのサンドウィッチ。スクランブルエッグ。アイスコーヒー。
食欲はないが、何か食べておかないと頭痛が余計に酷くなる。着席し、サンドウィッチに手を伸ばした。
瞬間、視界の端、テーブルの右隅で何かが動いた。
おじさんだ。手の親指くらいの背丈の、小さいおじさん。白のタンクトップにグレーのスラックスという服装。にこにこと笑いながら、テーブルの中央に向かって走っていく。
おじさんはサンドウィッチの皿に到達すると、中年とは思えない軽快さでそれによじ登り、パンとハムとレタスとバターとマヨネーズによって構成された塊に相対した。
ごくり、と息を呑む。
おじさんはいきなり、パンとハムの隙間に頭をねじ込んだ。泳ぐように四肢を動かすと、体が徐々にサンドウィッチに埋もれていく。十秒も経たないうちに、おじさんはパンとハムの間に完全に隠れた。
「おじさん……?」
呼びかけたが、反応はない。僕の目の前にあるのは、何の変哲もないハムとレタスのサンドウィッチ。中に異物が挟まっているようには見えない。
「……何だ、幻覚か」
溜息をつき、サンドウィッチを手に取る。匂いを嗅いでみると、微かに加齢臭を感じたが、気になるほどではない。一口かじる。
「ぎゃあああ! 痛い! 痛いよぉ、ママぁ!」
中年男性の絶叫が響いた。サンドウィッチは硬く、血の味がした。頭の痛みが少し強まった。
声はサンドウィッチを平らげると共に途絶えた。
*
緩やかに悪化していく頭痛に顔をしかめながら通学路を歩く。目撃した幻覚は、今のところ、テーブルで見た小さいおじさんだけだ。
とはいえ、あれで終わりだと決めつけるのは早計だろう。頭痛が続く限り、見えるはずのないものが見える可能性はあるのだから。
*
おじさんは僕の母さんの弟で、隣町でおばさんと一緒に暮らしている。
おじさんの家は、大きくて古びていた。地下室だとか、蔵だとか、好奇心を刺激するものが沢山あった。自宅からは徒歩で行ける距離だったので、子供の頃はよく遊びに行った。
おじさんは、一言で表すなら温和な人だ。人当たりが柔らかく、常ににこにこと笑っていた。
だけど、病んでいた。肉体も精神も病んでいた。
まず肉体。
おじさんは、会うたびに体が少しずつ縮んでいた。記憶の中の最古のおじさんは、確か僕が四歳の時だったと思うのだが、身長百七十五センチの僕の父さんよりも頭一つ背が高かった。それが今から三年前、僕が十四歳の頃には、四歳の時と比べて背丈は三分の一くらいになっていた。
次に精神。
おじさんは、時折おかしな言動を見せることがあった。基本的には善良で人畜無害な人なのだが、虚を衝くように、周りの人間を唖然とさせるようなことを言ったりしたりした。
中でも印象に残っているのは、小学五年生の時の夏休みの出来事。
「カズちゃん、納屋の中を見に行こう。面白いものがあるから」
居間で漫画を読んでいた僕に、身長百十センチのおじさんはそう提案した。好奇心旺盛な子供だった僕は、諸手を挙げてそれに賛成した。
納屋の戸を開けた途端、中から悪臭が漂ってきた。僕は思わず鼻をつまんだが、おじさんは臭いを気にする様子もなく、ずんずん奥へ進んでいく。ついて行くと、やがておじさんの足が止まった。
「カズちゃん、これ、何が入っているか分かる?」
指し示したのは、一本の樽。身を縮めれば大人の体がすっぽりと収まるほどの巨大な樽だ。悪臭の発生源はそこらしく、臭いが凄まじい。
「この中にはね、魔法の液体が入っているんだ」
おじさんはにこにこと笑いながら答えを明かした。
「おじさんはね、不要になったものをこの樽の中に入れるんだ。そうしたらね、夜に入れれば朝までには、朝に入れれば夜までには、魔法の液体が要らないものを跡形もなく溶かしてくれるんだ。ありとあらゆるものを、半日で、跡形もなく。とても便利だろう?」
ありとあらゆるものを跡形もなく溶かすのに、なぜ樽は溶けないのだろう。
そんな疑問が芽生えたが、一刻も早く悪臭から逃れたい気持ちが勝り、おじさんの手を引っ張って納屋の外に出た。
思えば、僕が頭痛に悩まされるようになったのは、あの日からだ。
*
「待ちなさい!」
突然、甲高い声が後方から聞こえた。
振り返ると、おばさんが赤信号を無視してこちらへと走ってくるのが見えた。
常識的に考えれば、本物のおばさんだ。だけど頭痛はまだ続いている。あるいは幻覚かもしれない。
「返しなさいよ!」
おばさんは僕に追いつくと、タックルしてきた。胸に衝撃を受け、体が大きく後方に傾く。
本物のおばさんだ。
悟った瞬間、おばさんの両手が僕の胸倉を掴み、傾いた体を元に戻した。転倒を免れ、安堵したのも束の間、激しく揺さぶられる。
「返してよ! 返せよ、返せってば、この人でなし!」
返せって、何をですか?
そう問うよりも先に、おばさんは答えを明かした。
「パパを返してよ! あんな小さくてか弱い人間をサンドウィッチもろとも食べるなんて、酷すぎる!」
体内を循環する血の流れが一瞬止まる。再び動き出すと共に、心臓が早鐘を打ち始めた。
おばさんはなぜ、僕が今朝、サンドウィッチを食べたことを知っているんだ? あの時、ダイニングに居たのは僕一人だし、窓のカーテンは閉め切られていたのに。
「返せよ、人殺し!」
おばさんは僕を激しく揺さぶり続ける。その揺れが頭の痛みを増幅させる。
小さいおじさんは幻覚だ。そう判断したから、僕はサンドウィッチを食べた。
だけど、その判断は本当に正しかったのだろうか?
僕は、おじさんがパンとハムの間に潜り込むのを見た。
匂いを嗅ぐと、微かに加齢臭を感じた。
かじった瞬間、中年男性の叫び声を聞いた。
硬かった。
血の味がした。
小さいおじさんは、幻覚ではなくて、本当に小さいおじさんだったのでは?
「人殺し! 人殺し!」
……逃げなきゃ。
振りほどこうとしたが、おばさんは胸倉を掴む両手に力を込め、一層激しく揺さぶる。頭痛は加速度的に酷くなる。頭が割れそうだ。
このままだと、僕は破滅する。
「離せ!」
力任せにおばさんを突き飛ばした。胸倉を掴んでいた両手が外れ、体が大きく後方に傾く。悪寒が背筋を駆け上った。咄嗟に手を伸ばしたが、間に合わない。おばさんの後頭部が地面に激突し、鈍い音が響いた。
*
頭痛はすっかり治まっていた。
「……ごめんなさい」
身じろぎ一つしないおばさんを引きずりながら、僕は道を歩く。両目から絶え間なく涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
向かう先は学校ではなく、隣町のおじさんの家。
「おじさん、ごめんなさい……。おばさん、ごめんなさい……」
今となっては、僕の希望は魔法の液体だけだった。おじさんの家の納屋に置かれた樽に入れられた、あらゆるものを半日で跡形もなく溶かしてしまうという、魔法の液体。
あらゆるものを溶かすが、入れ物である樽は溶かさない。常識的に考えて、そんな液体など存在するはずがない。
それでも僕は信じてみたかった。
小さいおじさんは幻覚ではなかったのだ。魔法の液体だって実在するかもしれないではないか。
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