どうせみんな死ぬ

阿波野治

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新宿

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 男を乗せたタクシーは目的地に到着した。
 運転手に運賃を支払い、後部座席から降りる。ドアが閉まり、タクシーが走り去る。
 周囲を見回す。林立するビルディング。行き交う人々。雑多な音声。
 ああ、ここが新宿なのだな。
 心中で呟いた瞬間、すっ、と過ぎる違和感。
 再び周囲を見回し、気が付いた。
 現在地を示す情報がどこにも見当たらない。
 耳を澄ませる。
 現在地に言及する音声はどこからも聞こえてこない。
 ここは新宿なのか?
 三度周囲を見回し、耳を澄ませたが、結果は変わらない。
 男は黙考を開始する。
 私はタクシー運転手に、新宿まで、と告げた。従って、私が降り立ったこの場所は新宿のはずだ。しかし、なんらかの事情があって、新宿以外の場所に私を降ろした可能性も否定できない。常識的に考えれば有り得ない話だが、可能性としては零ではない。
 ここは新宿なのか? 新宿ではないのか?
 天に向かって問うた直後、男の横を歩行者が通過した。
 すみません。
 反射的に呼び止めた。歩行者の足が停止する。
 教えていただきたいことがあるのですが。
 歩行者が振り向いた。男は驚いた。歩行者の顔は男に瓜二つ、というより、男の顔そのものだったからだ。
 驚きのあまり、男は口を利くことが出来ない。相手の男も口を開こうとしない。
 用がないなら、私は行きますよ。
 そう言いたげな表情を相手の男が見せた。男は慌てて問うた。
 ここは新宿ですか?
 相手の男は微笑み、答えた。
 新宿であるとも言えるし、そうでないとも言えます。
 男は眉をひそめる。
 どういう意味でしょうか。私にはさっぱり……。
 あなたの心の持ち様次第で、新宿にもなるし、新宿でなくなりもする、ということです。
 からかっているのですか? 私は困っているのです。現在地が新宿かどうかが分からなくて、困り果てているのです。
 では訊きますが、現在地が新宿か否かが曖昧だと、あなたはなぜ困るのです?
 それは、新宿で片付けなければならない用事があるからです。
 その用事というのは、新宿以外の場所では片付けられないものなのですか?
 新宿でしか片付けられないから、わざわざタクシーに乗って新宿まで来たのです。
 移動する必要はなかったのではないですか?
 ……は?
 現在地に移動する前にあなたが居た場所こそ、新宿だったのではないですか?
 ふざけるのもいい加減にしてください。居た場所が新宿ではなかったからこそ、私は新宿に移動したんです。
 つまり、現在地に移動する前に居た場所は新宿ではないとあなたは認識していた、ということですね。
 そういうことです。
 では、あなたが現在地に移動する前に居た場所が新宿ではなかったことを、あなたは証明できますか?
 それは……。
 証明できない。ですが信じているわけですね? 現在地に移動する前に居た場所は新宿ではないと、あなたは心から信じているわけですね?
 心から、という表現は大袈裟かもしれませんが――まあ、そうですね、はい。
 それなら大丈夫です。
 えっ?
 証明できないにもかかわらず、現在地に移動する前に居た場所は新宿ではないと信じられるのであれば、現在地が新宿だと信じることも可能なはずです。
 いや、信じるとか、そういう問題では……。
 心から信じさえすれば、ここは新宿です。さあ、信じ込むのです。
 ちょっと待ってください! 私は現在地が新宿ではないから困っているのではなく、新宿か否かが分からないから困っているのです。新宿ではない場所を新宿だと信じ込んでも、意味がない。
 あなたは勘違いなさっているのでは? 私が言った、心から信じさえすれば、というのは、心から信じさえすれば、新宿ではない場所も新宿に変化する、という意味ですよ。
 そんな非現実的なことが……。
 まずは試しにやってみることです。試しにやってみて、上手くいかないようであれば、次の手を打てばいい。それだけの話ですよ。
 男に背を向け、相手の男は去っていった。
 ……新宿。
 男は声に出して呟く。
 ここは新宿。ここは新宿。
 次第に声を高めながら言葉を重ねる。
 ここは新宿なのだ。新宿であろうと、新宿でなかろうと、新宿なのだ。
 声を発するのを止めた直後、男の横を歩行者が通過した。
 すみません。
 咄嗟に呼び止めた。歩行者の足が停止する。
 ちょっとお尋ねしたいことが……。
 振り向いたその顔は、男の顔そのものだった。
 ここは新宿、ですよね?
 相手の男は肩を竦め、人混みの中に消えた。
 男は首を傾げる。
 ここは新宿なのか……?
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