わたしと姫人形

阿波野治

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ミクリヤ先生 その5

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 聞こえてきたのは、キーボードを軽やかに叩く音。
 意識が完全に覚醒するまで待って、音源を見向く。
 ミクリヤ先生がテーブルに向かい、ノートパソコンを操作していた。両手の十指はほとんど絶え間なく、どこかリズミカルに動いている。白衣姿ではないが、仕事に励んでいるのだな、と感じる後ろ姿だ。

 わたしがいる空間は、まぎれもなくホテルの一室で、わたしがいるベッドは、間違いなく昨日先生とセックスをしたベッドだ。
 どうやら、話をしているうちに眠ってしまったらしい。

「ああ、起きましたか。おはようございます」
 打鍵音がやむとともに、ミクリヤ先生はあいさつをした。椅子から立ち、サイドテーブルの上にあったものをわたしに手渡す。なんの変哲もない茶封筒。呆然と見上げたわたしに、開けても構いませんよ、とにこやかにうなずく。
 確認すると、何枚もの紙幣が入っていた。その分厚さに遅まきながら気がつき、目をしばたたかせる。 

「二百万円です。手術費用が具体的にいくらなのかが分からなかったので、とりあえずということになりますが。どうです? 足りますか?」
「はい、充分に。……あの」
「なんでしょう」
 とんでもないことをしてしまった、という思いが胸を支配している。事後、初体験を終えた事実を噛みしめたときにも、抱かなかった感覚であり感想だ。

「どうして、わたしにお金を?」
「さあ、なぜでしょうかね」
 ミクリヤ先生は柔らかく苦笑し、小首を傾げた。演技の影は微塵もない。ほんとうに理解できていないのだ。

「たしかなのは、この決断を私は後悔していないし、今後後悔することもないということです。一夜をともにしてくださったお礼として、どうぞ受けとってください」
 前屈みになり、わたしの唇に軽くキスをする。ミクリヤ先生らしい、曇りのない笑顔が目の前で咲く。
「どうしても合理的な説明がほしいということでしたら、私は心療内科医で、灰島さんは私の患者だから、ということでいかがでしょうか」


* * *


 朝食の誘いを断り、ホテルのロビーでミクリヤ先生と別れた。これから仕事だという先生は、足早に駐車場へと消えた。
 別れる直前、今日は診察の予約を入れていたのですが伺いません、と伝えた。そうですか、とミクリヤ先生は言った。それがわたしたちが交わした最後の言葉になった。
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