わたしと姫人形

阿波野治

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ミクリヤ先生 その2

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 車内には独特の香気に満ちている。ミクリヤ先生の体臭には似てもつかないが、それでいて彼を色濃く連想させる、そんな香気に。
 車を走らせはじめてからというもの、ミクリヤ先生はずっと黙ったままでいる。同じくわたしも、自分からはしゃべり出せずにいた。言うべきことは分かっているのだが、雰囲気に押しつぶされてしまっていた。助手席ではなく後部座席をすすめられていたら、もっとスムーズに本題を切り出せていただろうかと、考えても仕方がないことを何度も考えた。走行速度は少し遅いらしく、他の車が断続的に隣接する車線を駆け抜けていく。 

 ミクリヤ先生がどこを目指しているのかは分からない。川沿いの道を、わたしの自宅がある方角に向かって走っていたので、まさかと思った。しかし、もちろんそんなはずはなく、途中で右折した。曲がりくねった細道で、明かりが灯った民家さえまばらという寂しさだったが、やがて片側二車線の幹線道路に出た。ドラッグストアやガソリンスタンドやファストフード店などが建っていて、夜間でもある程度の賑わいがある。わたしは一度も通ったことがない道だ。車は赤信号以外で停車することなく、いずこかを目指して走りつづける。

 ミクリヤ先生が沈黙している理由は定かではない。突如として不可解な事態に巻きこまれて、怒っているのかもしれない。戸惑っているのかもしれない。黙っていたほうが話を切り出しやすいと考えて、あえて口をつぐんでいるのかもしれない。
 いずれにせよ、先生に迷惑をかけている。一刻も早く事情を打ち明けなければ。

 進路の信号が黄色に変わった。充分に駆け抜けてしまえる距離に見えたが、ミクリヤ先生はブレーキを踏んで車を停めた。前のめりになったわたしの体はシートベルトに繋ぎ止められた。車が完全に停止し、背中は再びシートに密着する。
 基本的な交通ルールを遵守する姿勢に、わたしははっとさせられた。そして、ミクリヤ先生はとても優しい先生だという、自明の事実を思い出した。

 先生は診察中に怒ったことはもちろん、一瞬の不快感を過ぎらせたことや、苦笑をこぼしたことさえもない。どこを切りとっても、誰と比較しても優しい、ミクリヤ心療内科の青年医師。
 毎週毎週、わたしはこの人に不安や悩みを打ち明けているではないか。それと同じことをするだけなのに、なにが怖いというのだろう?
 そう思うと、ふっと心が楽になった。

「わたし、ミクリヤ先生とセックスがしたいんです」
 乗車して初めて、先生がわたしのほうを見た。
 直後、短いクラクションが連続して鳴らされた。後続車のクラクションだ。ミクリヤ先生といっしょになって顔を前に戻すと、信号が青に変わっている。車が再び走り出した。

 沈黙が車内を満たしている。しかし、今度のそれは明確なメッセージを孕んでいる。わたしに説明を求めている。
 先生に迷惑をかけたくない気持ち。事情を打ち明けたい欲求。両方に背中を力強く押されて、リクエストに応える。

 生まれてから一度も、異性との交際経験がないこと。
 今年で二十歳になるが、処女だということ。
 購入した姫人形に情欲を催したこと。
 その姫人形が壊れ、不安と絶望が頂点に達した時期に、知り合いの女の子とセックスの真似事をしたところ、気分が晴れたこと。
 男性ともセックスをしてみたい、と思ったこと。
 その相手はミクリヤ先生以外にはありえない、ということ。
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