わたしと姫人形

阿波野治

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沢倉マツバ その2

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 狂おしい気持ちが頂点に達したのを見計らったように、インターフォンが鳴った。
 ソファに座っているだけの体力もないはずなのに、反射的に上体を起こし、玄関のほうを向いていた。
 まさか、姫? 姫が帰ってきた?
 一瞬そう思ったが、そんなはずがない。昏睡状態だった人間が急に目を覚ますことならば、もしかしたらあるかもしれないが、姫は姫人形だ。そんなことは絶対にありえない。

 二度目のインターフォンの音は鳴らない。ただ、訪問者は玄関ドアの前に留まっているようだ。気配を感じるのではなく、なんとなくそんな気がする。
 丸一日近く食べていないとはいえ、歩けないほど体力が磨り減っているわけではない。腹部に力をこめて体を起こし、病人さながらの足取りで玄関へ向かう。訪問者が悪漢だとしたら、今のわたしほど容易に組み伏せられる人間はいないだろう。……どうにでもなれ。

 ドアスコープを覗いてみて、安心したような、拍子抜けしたような気持ちになった。ため息をついてドアを開く。
「マツバさん」
 わたしの顔を見た瞬間、マツバさんは目を泳がせた。すぐに視線をこちらに戻したが、なにも言わない。彼女にしては珍しく、表情に硬さが見られるし、佇まいに若干の不自然さが感じられる。

 わたしにとってマツバさんが、「親しく付き合っているご近所さん」の枠に収まらない存在であることには、おとといに気がついている。苦境から救い上げてくる役割を期待しなかったといえば、嘘になる。
 ただ、姫を永遠に失う可能性が高い現状、他者とコミュニケーションをとるのは凄まじく億劫に感じる。訪問者がマツバさんでなければ、絶対に居留守を使っていたに違いないくらいに、今のわたしは精神的にまいっている。

 どういうつもりなのかは知らないけど、こんな大変な状況のときにわざわざ来なくてもいいのに。立っているだけでも正直つらいし、早く帰ってくれないかな。
 マツバさんには申しわけないが、それが偽りのない本音だ。

「なにか用?」と問うのも億劫で、唇を閉ざしたまま、状況に変化が生じるのをただ待ち受ける。沈黙は三十秒以上も続いたうえで破られた。

「ナツキさん、大丈夫ですか? 顔色、凄く悪いですけど」
 眉根を寄せ、眉尻を下げた顔で体調を案じられた瞬間、わたしの心境に変化が起きた。
 心配してくれて、嬉しい。
 助けに来てくれて、嬉しい。
 率直にそう思ったのだ。

 体の内側の大半は、依然として憂うつな闇が支配している。喜びはその中に突如として灯ったささやかな光のようなものであって、カードの表裏が一瞬にして入れ替わったわけではない。しかし、それは、まぎれもなく光だった。暗澹たる心境の底を脱し、立っているだけでも疲れる状態からも脱したような、そんな実感があった。
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