僕の輝かしい暗黒時代

阿波野治

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 レイは傘を畳み、上品に雫を切った。再びこちらを向いて、初めて異変を察知したらしく、下から覗きこむようにして僕の顔を見つめてくる。
 思わず、一歩後ずさりしていた。レイは小首を傾げた。
 迷いに迷った末に僕が選んだのは、

「――ごめん。わざわざ来てくれたのに悪いけど、今日は体調が悪くていっしょに遊べない。頭痛がひどくて、ゲームもできないから」
 掠れも震えもなく、つかえもせず、なおかつ一言一句正確に、用意していた脳内原稿を読み上げられた。その成功が、自分がとった選択は正しいのだという思いを生み、臆することなく彼女の顔を見返すことができた。

 レイは気圧されたように上体を軽くのけぞらせた。それに続いて、僕から目を逸らす。なにかを考えているらしい顔つき。僕は緊張に鼓動を高鳴らせながら彼女の言葉を待つ。
 彼女はおもむろに、傘を持っているほうの手で頬をかくと、僕と目を合わせてきた。瞳には、さばさばとした諦めの色が宿っている。そのときのレイは、僕の目には、年齢のわりに精神的に成熟した人物に見えた。

「……そっか。体調が悪いなら仕方ないね。じゃあ、今日は帰る」
 僕に背を向け、傘を差すか差さないか、見極めようとするように空を仰ぐ。雨雲を睨んでいた時間は五秒にも満たず、後者が選ばれた。こまかな雨が無防備な体を容赦なく濡らす。
 玄関と門との中間地点に差しかかったところで、彼女の足が緩んだ。雨の匂いにのってひとり言が流れてきた。
「最初から雨天中止にしておけばよかった。そうすれば濡れずに済んだのに……」

 胸を思い切り突かれたような衝撃を感じた。なにか言わなければ、という思いが腹の底からこみ上げてくる。
 しかし、言葉が見つからない。
 にわかに雨脚が強まった。レイはあっという間に進藤家の中に消えた。


* * *


 雨はいつしか横殴りに変わっていた。
 僕に向かってくる軌道だったため、体は濡れ、のみならず家の中にも降りこんでいる。この発見にようやく我に返り、慌てて中に入ってドアを閉めた。
 上がり框に腰を下ろしてため息をつく。三和土はドアに近い領域が少し濡れている。

 他者とまともにしゃべれず、コミュニケーションをとることを恐れている僕にとって、玄関は安心できる場所ではない。未知の人間が聖域に侵入するための入場口だからだ。
 こんな場所に長々といたくない。速やかに遠ざかりたい。
 本音とはうらはらに、僕は玄関に居座りつづけている。どうしてこんなことをしているのか、自分でも分からないままに。 

 体感としては半時間近く座っていた気もするが、実際ははるかに短かったと思う。
 僕は小さくため息をついて腰を上げ、応接間へ向かう。玄関に隣接した南向きの一室だ。
 上がり框に座りこんでからずっと、自分がなにをしたいのかが自分でも分からなかった。しかし、今になって振り返れば、動機は笑ってしまうくらいに単純明快だ。
 応接間は、進藤家の玄関先がよく見える位置にある。

 長大な窓にかかったカーテンを左右に開く。視線は自ずと進藤家に吸い寄せられる。
 息を呑んだ。
 進藤家の開け放たれた門に背に、レイが佇んでいるのだ。雨が降りしきる中、傘も差さずに。
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