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六日目
血とハンカチ
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フェンス伝いに歩き出そうとしたとき、遠くからベルの音が聞こえた。
空耳かと思ったが、すぐにその考えを打ち消し、体ごと振り向いた。
陽奈子のいるほうに向かって、小道を人が走ってくる。足が地面を蹴るたびに、暗闇の中で黒髪が躍る。全力疾走をしている速度だ。見る見る近づいてくる。
陽奈子はその場から動けなかった。逃げ出すよりも早く、その人物の正体が分かってしまったから。
バッグを地面に置き、走り寄ってくる人物に向き直る。そのときにはもう、彼女は陽奈子の目の前まで来ていた。
陽奈子の胸にぶつかってきた。両腕を腰に回して抱きつき、胸に顔をうずめる。
数秒間、世界は静寂に支配され、洟をすする微かな音がそれを破った。
「なんで――」
陽奈子の声に反応し、その人物は胸から顔を離してゆっくりと持ち上げた。
「なんで泣いてるんですか?」
陽奈子へと真っ直ぐに向けられた真綾の顔は、涙に濡れていた。次から次へと溢れ出てくる雫によって、ずぶ濡れになっていた。
見つめ合っている間も、雫は底を打つ気配を見せない。濡れたせいか、普段よりも艶やかに見える真綾の唇が、不意に震えるように蠢いた。
「ごめんね」
涙色に染まったその声は、唇にも増して震えていた。腰に巻きつけられた両腕の締めつけが強まる。
「陽奈子と華菜の事件のこと、学校から帰ってすぐに琴音から聞いた。陽奈子がまさかそんなことをするなんて、すぐには信じられなかった。他の子たちから話を聞いて、紛れもない事実だと分かった瞬間、怖いって思った。だから、陽奈子のところには行っちゃダメだって琴音から強く言われたときは、絶対にそうしようって思った。でも、それは間違いだった」
真綾は陽奈子から瞳を逸らさない。とめどなく涙を流し続けながらも、懸命に言葉を紡ぐ。
「そんな命令なんて無視して、陽奈子のところに行くべきだった。陽奈子の話を聞くべきだった。陽奈子は独り善がりな理由から他人を傷つける人じゃない。分かっていたのに、拳を振りかざした理由を確かめることもしないで、暴力を振るった事実に怯えてばかりいた。夜中にふと目が覚めて、たまたま窓の外を見て、門のほうに歩いていく陽奈子を見かけるまで、その間違いに気がつかなかった。わたし、なんてバカなんだろう」
溢れ出す涙が一段と激しさを増した。それから先は言葉にならない。真綾は再び陽奈子の胸に顔を埋め、声を上げて泣き始めた。
「真綾のせいじゃないですよ」
右手を真綾の後頭部に添え、左手で背中をさする。
「あたしが出て行こうとしたのは、真綾のせいじゃないです。早とちりしたあたしが馬鹿だったんです。だから、もう、泣くのはやめてください。真綾はなにも悪くないから、もう泣くのは」
両腕の締めつけが緩んだ。それでも涙の雨は止まない。真綾は陽奈子に胸に顔を押し当てたまま、泣き続けた。
本当にあたしは馬鹿だ。どうして今まで気がつかなかったのだろう。こんなにもあたしのことを思ってくれる人がいるのに、誰も味方になってくれる人がいないと決めつけるなんて。
愚かな自分を責める気持ちと、涙を流してまで引き留めてくれた喜びが相俟って、陽奈子はあと一歩のところで泣きそうになった。しかし、華奢な肩を震わせ、泣きじゃくっている姿を見ていると、自分が泣いてしまえば、真綾は永遠に泣き続けてしまう気がして、溢れ出そうになるものを必死に堪える。延々と繰り返していた真綾の背中をさする動作は、自分自身の悲しみを鎮静させるためでもあったのだと、遅まきながら気がついた。
大きな体と小さな体が密着してから、どれくらいの時間が流れただろう。
真綾が漸く胸から顔を離し、陽奈子を見上げた。涙は止まっていた。二人は惜しむかのように互いの体を遠ざけた。真綾は照れ笑いを浮かべ、陽奈子も表情を緩める。
その瞬間、真綾は両手で鼻と口を覆い、くしゅん、とかわいらしいくしゃみをした。真綾はパジャマ姿だった。
「その恰好はいけませんね。風邪を引いてしまいます」
素早く上着を脱いで差し出す。真綾は頭を振ったが、問答無用で細い肩に上着を被せる。
「ありがとう。――ねえ、陽奈子」
「なんでしょう」
「琴音から話は聞いたけど、なんとなく、全てを教えてもらっていない気がするの。わたしの気のせいではないなら、華菜との間になにがあったのかを、包み隠さずに話してくれないかな」
涙を流してまで引き留めてくれた相手の要求を拒む理由はない。陽奈子は快く首肯する。
「では、立ち話もなんなので、座りましょう」
そうは言ったが、周辺の地面は土が剥き出しだ。真綾の衣服を汚すわけにはいかない。陽奈子はバッグから衣類を引っ張り出し、土の上に敷き、座るよう勧めた。真綾は好意に甘んじようとして、小さく声を漏らした。
「どうしたんですか?」
「血が……」
敷かれたばかりの衣類を指差した。裾に血がこびりついている。先程、掌に負った傷から流れる血を拭いた際に付着したものだ。陽奈子は事情を簡潔に説明した。
「大丈夫なの? そんなに血が出るほどの傷……」
「もう止まったから平気ですよ」
そう答え、問題の部分に目をやると、血が微かに滲み出ている。
「大変! 止血しないと」
真綾は大げさな声を上げると、パジャマのポケットに手を入れた。取り出したものは、闇の中でもくっきりと浮かび上がるほど白いハンカチ。
「真綾。それ、もしかして……」
「うん。桜の木に引っかかっていたのを陽奈子にとってもらった、パパとママからプレゼントしてもらったハンカチだよ。手を出して」
言われるままに差し出すと、真綾は器用な手つきで手にハンカチを結びつけ、傷口を覆った。
「はい、結べたよ」
「ありがとうございます。血がついちゃいますけど、構わないんですか?」
「うん、気にしないで。さあ、座ろう」
地面に敷く衣類を別のものに交換し、二人はその上に座る。すかさず真綾が切り出した。
「陽奈子は覚えてるかな? あのときのこと」
空耳かと思ったが、すぐにその考えを打ち消し、体ごと振り向いた。
陽奈子のいるほうに向かって、小道を人が走ってくる。足が地面を蹴るたびに、暗闇の中で黒髪が躍る。全力疾走をしている速度だ。見る見る近づいてくる。
陽奈子はその場から動けなかった。逃げ出すよりも早く、その人物の正体が分かってしまったから。
バッグを地面に置き、走り寄ってくる人物に向き直る。そのときにはもう、彼女は陽奈子の目の前まで来ていた。
陽奈子の胸にぶつかってきた。両腕を腰に回して抱きつき、胸に顔をうずめる。
数秒間、世界は静寂に支配され、洟をすする微かな音がそれを破った。
「なんで――」
陽奈子の声に反応し、その人物は胸から顔を離してゆっくりと持ち上げた。
「なんで泣いてるんですか?」
陽奈子へと真っ直ぐに向けられた真綾の顔は、涙に濡れていた。次から次へと溢れ出てくる雫によって、ずぶ濡れになっていた。
見つめ合っている間も、雫は底を打つ気配を見せない。濡れたせいか、普段よりも艶やかに見える真綾の唇が、不意に震えるように蠢いた。
「ごめんね」
涙色に染まったその声は、唇にも増して震えていた。腰に巻きつけられた両腕の締めつけが強まる。
「陽奈子と華菜の事件のこと、学校から帰ってすぐに琴音から聞いた。陽奈子がまさかそんなことをするなんて、すぐには信じられなかった。他の子たちから話を聞いて、紛れもない事実だと分かった瞬間、怖いって思った。だから、陽奈子のところには行っちゃダメだって琴音から強く言われたときは、絶対にそうしようって思った。でも、それは間違いだった」
真綾は陽奈子から瞳を逸らさない。とめどなく涙を流し続けながらも、懸命に言葉を紡ぐ。
「そんな命令なんて無視して、陽奈子のところに行くべきだった。陽奈子の話を聞くべきだった。陽奈子は独り善がりな理由から他人を傷つける人じゃない。分かっていたのに、拳を振りかざした理由を確かめることもしないで、暴力を振るった事実に怯えてばかりいた。夜中にふと目が覚めて、たまたま窓の外を見て、門のほうに歩いていく陽奈子を見かけるまで、その間違いに気がつかなかった。わたし、なんてバカなんだろう」
溢れ出す涙が一段と激しさを増した。それから先は言葉にならない。真綾は再び陽奈子の胸に顔を埋め、声を上げて泣き始めた。
「真綾のせいじゃないですよ」
右手を真綾の後頭部に添え、左手で背中をさする。
「あたしが出て行こうとしたのは、真綾のせいじゃないです。早とちりしたあたしが馬鹿だったんです。だから、もう、泣くのはやめてください。真綾はなにも悪くないから、もう泣くのは」
両腕の締めつけが緩んだ。それでも涙の雨は止まない。真綾は陽奈子に胸に顔を押し当てたまま、泣き続けた。
本当にあたしは馬鹿だ。どうして今まで気がつかなかったのだろう。こんなにもあたしのことを思ってくれる人がいるのに、誰も味方になってくれる人がいないと決めつけるなんて。
愚かな自分を責める気持ちと、涙を流してまで引き留めてくれた喜びが相俟って、陽奈子はあと一歩のところで泣きそうになった。しかし、華奢な肩を震わせ、泣きじゃくっている姿を見ていると、自分が泣いてしまえば、真綾は永遠に泣き続けてしまう気がして、溢れ出そうになるものを必死に堪える。延々と繰り返していた真綾の背中をさする動作は、自分自身の悲しみを鎮静させるためでもあったのだと、遅まきながら気がついた。
大きな体と小さな体が密着してから、どれくらいの時間が流れただろう。
真綾が漸く胸から顔を離し、陽奈子を見上げた。涙は止まっていた。二人は惜しむかのように互いの体を遠ざけた。真綾は照れ笑いを浮かべ、陽奈子も表情を緩める。
その瞬間、真綾は両手で鼻と口を覆い、くしゅん、とかわいらしいくしゃみをした。真綾はパジャマ姿だった。
「その恰好はいけませんね。風邪を引いてしまいます」
素早く上着を脱いで差し出す。真綾は頭を振ったが、問答無用で細い肩に上着を被せる。
「ありがとう。――ねえ、陽奈子」
「なんでしょう」
「琴音から話は聞いたけど、なんとなく、全てを教えてもらっていない気がするの。わたしの気のせいではないなら、華菜との間になにがあったのかを、包み隠さずに話してくれないかな」
涙を流してまで引き留めてくれた相手の要求を拒む理由はない。陽奈子は快く首肯する。
「では、立ち話もなんなので、座りましょう」
そうは言ったが、周辺の地面は土が剥き出しだ。真綾の衣服を汚すわけにはいかない。陽奈子はバッグから衣類を引っ張り出し、土の上に敷き、座るよう勧めた。真綾は好意に甘んじようとして、小さく声を漏らした。
「どうしたんですか?」
「血が……」
敷かれたばかりの衣類を指差した。裾に血がこびりついている。先程、掌に負った傷から流れる血を拭いた際に付着したものだ。陽奈子は事情を簡潔に説明した。
「大丈夫なの? そんなに血が出るほどの傷……」
「もう止まったから平気ですよ」
そう答え、問題の部分に目をやると、血が微かに滲み出ている。
「大変! 止血しないと」
真綾は大げさな声を上げると、パジャマのポケットに手を入れた。取り出したものは、闇の中でもくっきりと浮かび上がるほど白いハンカチ。
「真綾。それ、もしかして……」
「うん。桜の木に引っかかっていたのを陽奈子にとってもらった、パパとママからプレゼントしてもらったハンカチだよ。手を出して」
言われるままに差し出すと、真綾は器用な手つきで手にハンカチを結びつけ、傷口を覆った。
「はい、結べたよ」
「ありがとうございます。血がついちゃいますけど、構わないんですか?」
「うん、気にしないで。さあ、座ろう」
地面に敷く衣類を別のものに交換し、二人はその上に座る。すかさず真綾が切り出した。
「陽奈子は覚えてるかな? あのときのこと」
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