キスで終わる物語

阿波野治

文字の大きさ
上 下
20 / 49
三日目

赤い事件

しおりを挟む
「いやー、危ないところだった」

 三人は三階の廊下を東へと歩きながら、危機を脱した者特有の饒舌さで言葉を交わし合う。

「でも、ミアノアに助けられるとは思わなかったよ。あたしの背中に隠れたりしないで、最初から助けてくれれば言うことなしだったんだけど」
「琴音の剣幕に押されて、思わず隠れちゃっただけ」
「そうだよ。陽奈子を見捨てるなんて、そんな酷いことするわけないじゃない」
「どうだか」

 三人はやがて、陽奈子が本日清掃を担当する空き部屋の一つに差しかかった。

「あ、ここ、あたしが掃除するところだ」
「じゃあ、お別れだね」
「お掃除、頑張ってね」
「二人もね」

 手を振りながら去っていく双子に軽く片手を挙げる。リボンの色以外は見分けがつかない二人の後ろ姿を、曲がり角に消えるまで見送った。
 ドアノブを回して入室し、照明のスイッチを入れる。白光が室内を照らし出す。

「えっ!?」

 驚きのあまり、大声を上げてしまった。
 部屋の床を、おびただしい赤色の液体が汚している。フローリング張りの床の実に半分近くが、目が眩むほど鮮やかなその色に染まっていた。正円に近い形をしているが、意味がある模様には見えない。赤い液体の入ったバケツを部屋の中央で逆さまにしたら自然にそうなった、といった風情だ。壁の一部にも赤い飛沫が点々と付着している。
 見た瞬間、血だと思った。だからこそ叫んでしまったのだが、錆びた鉄の臭いがしないことにすぐに気がつく。代わりに感じるのは、人工的な、どこかで嗅いだことのある臭い。しゃがんで赤色を人差し指で拭い、鼻に近づけてみる。

「……絵の具だ」

 でも、なぜこの場所で、こんな大惨事が起きたのだろう?
 廊下を走る足音が聞こえた。陽奈子がいる部屋へと近づいてくる。

『陽奈子!』

 部屋を覗きこんだのは、ミアとノア。
 床の惨状を目の当たりにした瞬間、二人は言葉を失った。陽奈子は彼女たちに向き直り、人差し指の腹に付着したものを見せる。

「これ、絵の具。厳密にいえば、絵の具を水で薄めたものかな。血かと思ったけど、そうじゃない」

 微妙な色合いの違いや、臭い、発言者の落ち着きぶりなどから、嘘を言っているわけではないと判断したらしく、二人は頷いた。表情はいくぶんぎこちなく、戸惑いの色を隠せていない。三人はしばし無言で立ち尽くした。

「とりあえず、状況を整理しようか」

 惨状を目にしたのが早かった分、立ち直るのも早かった陽奈子が沈黙を破った。

「あたしはこの部屋の前でミアノアと別れたあと、二人の背中が見えなくなってからドアを開けた。部屋の電気をつけると、床が真っ赤に汚れていたから、驚いて声を上げた。二人はその声を聞きつけて、この部屋の前まで戻ってきた。中を覗き込んで、あたしを驚かせたものの正体を目の当たりにした。それで間違いない?」

 混乱が抜けきらない、それでもいっときと比べれば落ち着きを取り戻した顔を見合わせ、ミアとノアは頷く。

「あたしがドアを開けてから、二人が部屋に到着するまでの時間は、一分少々ってところかな。たった一分の間に、綺麗に掃除されている部屋の床をこんなふうに汚すのは、あたしには不可能。つまり、あたしがドアを開ける前から床は汚れていた。……信じてくれる?」

 今度は陽奈子に向かって、先程と同じく二人同時に頷く。

「じゃあ、いつから汚されていたんだ、っていう話になる。最も遅くてもあたしがドアを開ける前、最も早くても昨日誰かが掃除したあと。そうなると、昨日この部屋の当番だった子に確認してみるのが手っ取り早いね。ミアノア、それが誰だか分かる?」
『昨日この部屋の掃除をしたの、私たちだけど』

 ミアとノアは同時に挙手し、声を揃えた。陽奈子は呆気にとられた顔で二人を見返す。

「できすぎた偶然かもしれないけど、ほんとにほんとなんだよ。ねえ、ノア」
「うん、ミア。私たちは昨日、三階の東端の部屋から順に、合計八部屋掃除して、この部屋は最後にしたの」
「……そうだったんだ。一応確認だけど、昨日の時点で床はこんなふうに汚れていたけど、綺麗にするのが面倒だから放置した、ということじゃないよね?」
「そんなこと、するわけないよ」
「琴音がチェックするかもしれないのに、汚れたままにしておくわけないでしょ」
「そっか。それじゃあ、絵の具で床が汚されたのは、昨日二人が掃除を終えて部屋を出てから、今日あたしが部屋に入るまでの間、っていうことになるのかな。ミアノア、昨日この部屋の掃除を終えたのはいつくらい?」
「夕ご飯の直前だから――」
「だいたい六時半くらい、かな」
「今は八時半だから、十四時間の間に誰かがやった、ということになるのか。でも、こんなこと、誰がなんのために……」

 十四時間。それだけの時間的な余裕があれば、小柳家に暮らす者であれば、誰にでも犯行は可能だろう。
 一方で、動機という観点から考えれば、これほどの悪質な行為を働かなければならない事情を抱えた者が、小柳家の中にいるとは思えない。思いたくない。
 差し当たっては、みんなからアリバイを訊いて回るしかなさそうだけど、それも面倒だし、どうしよう?
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

結構な性欲で

ヘロディア
恋愛
美人の二十代の人妻である会社の先輩の一晩を独占することになった主人公。 執拗に責めまくるのであった。 彼女の喘ぎ声は官能的で…

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

処理中です...