キスで終わる物語

阿波野治

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二日目

花壇に水やり

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 目を覚ました陽奈子が真っ先にとった行動は、枕元を探ることだった。
 現在時刻を確かめるためだったが、いくら右手をさ迷わせても、求めているものに触れられない。怪訝に思って顔を上げると、ヘッドボードに与太郎が座っていた。

「……ああ、そうか」

 あたしは昨日から、小柳家でメイドとして働き始めたんだった。
 掛け時計に目を向けると、もうじき午前六時半が来ようかという時間だった。世間一般の感覚からすれば、特別早いわけではないかもしれない。しかし、昼夜逆転とまではいかないまでも、自堕落な生活を送ってきた彼女からしてみれば、かなり早い目覚めなのは確かだ。
 あくびをしながら上体を起こすと、華菜が隣のベッドの縁に腰かけて読書をしていた。昨夜読んでいたのと同じ表紙だ。
 消灯のあと、ルームメイトが寝入ったのを確かめてから体を起こし、夜通し本を読んでいたのかもしれない。有り得ないとは思いながらも、そんな可能性を思った。

「華菜、おはよう」

 挨拶の声に反応して華菜が振り向く。丁寧な手つきで栞をページに挟み、シーツの上に本を置く。

「朝は身支度が済んで、ダイニングで朝食を済ませたら、いつでも仕事を始めていいから。ただし、あまり早いと食事ができてないから、六時半を回ってからに行くようにして」

 淡々と告げてベッドから腰を上げ、部屋から出て行こうとする。
 もしかして、その説明をするためだけに待っていてくれたのだろうか。

「待って!」

 呼び止めると、足が止まった。肩越しに振り向いた顔に向かって陽奈子は言う。

「一緒にダイニングへ行って、一緒に朝ご飯を食べようよ。光の速さで準備するから、ちょっと待ってて」

 無視されるのではないかと危惧したが、華菜は無言で自分のベッドに引き返した。本を取り上げ、栞を挟んだページを開けて読み始める。陽奈子は大急ぎで身支度にとりかかった。
 準備を整える間、華菜は文句一つ言わずに、読書をしながら待っていてくれた。

 二人が部屋を出たときには七時を過ぎていた。
 目的地に辿り着くまでの間、陽奈子は昨日のティータイムのことを話した。華菜はしつこく話しかけてくるから仕方なくといったふうに、時折相槌を打つだけのそっけない対応に終始した。陽奈子は会話を続ける気力が萎えてしまった。道のりの後半は無言での歩行となった。
 仲良くなりたいアピールをしてるんだから、もうちょっと愛想よくしてくれてもいいのに。
 昨夜と同じ不満を抱いたが、もやもやを抱えたまま朝食をとりたくない。ダイニングに足を踏み入れたのを機に、華菜のことは考えないようにした。

 既に何人もの同僚が食事をとっていた。昨日の夕食時の三分の二、といった集まり具合だ。一足先に食事を済ませて退席したのか、朝が弱くまだ起床していないのか、それは定かではない。
 上座には真綾が着席し、両隣には弥生と琴音も座っている。ミアとノアは席に着いたばかりなのか、食器の中身があまり減っておらず、眠たそうな顔をしている。
 今朝の献立は、かぼちゃのポタージュ、オープンオムレツ、根菜のサラダ、それにクロワッサンとコーヒー、というラインナップ。朝食はトーストとインスタントコーヒーで簡単に済ませることが多かった陽奈子にとっては、眩しいくらいに豪華な朝食だ。ポタージュは優しい甘さで、コーヒーは大人びた苦みで、今日一日を乗り切るための活力を与えてくれるようだった。

 陽奈子が食べ始めてすぐに、真綾と弥生は食べ終わってダイニングから出ていった。二人は学校に行かなければならないため、他の者よりも早く食事を済ませる必要があるらしい。
 それに少し遅れて、琴音もダイニングをあとにした。
 メイド長が退堂すると、心なしか、場は少し賑やかになった。陽奈子も、両隣のメイドと会話する機会を持った。

「陽奈子はもうここの生活は慣れた?」
「うーん、どうなんだろう。まだ半日の割には慣れた、かな」
「仕事、大変だったでしょう」
「うん。ここで働き始めるまでがだらしなかったから、結構きついかも」

 屋敷での生活に関する質問をされることが多かった。金持ちの家で住み込みで働いていると自然とそうなるのか、二人とも物腰が穏やかだ。席順の関係から、ミアとノアと会話する機会を持つのが難しいのが少し残念な気がした。
 陽奈子は早々に食器を空にしたが、華菜はまだ食事中だ。待とうかとも考えたが、性格を考えれば迷惑に思うだけだろうと判断し、単身ダイニングをあとにした。



 昨夜華菜に渡された紙片で本日の持ち場を確認すると、庭の花壇全体の水やりと、昨日とは違う三部屋の掃除が当番となっていた。三回連続で同じ造りの部屋を掃除するのも味気ないと思い、水やりを先に済ませることにした。
 庭に出るとかぐわしい花の香りが出迎えた。外は暖かくも寒くもなく、空は快晴だ。
 水道はすぐに見つかったが、ホースがついていない。ということは、水はじょうろであげるのだろうが、そのじょうろはどこに置かれているのだろう。庭全体を見回したが、それらしきものは見当たらない。

「なにをしているの」

 突然の声に振り向くと、屋敷の角を曲がって琴音が現れた。陽奈子へと歩み寄ってくる。

「琴音こそ、なにをやっているんですか」
「見回りよ。不審者なんて一度も見かけたことないけど、仕事だから」

 陽奈子の前で足を止め、顔を見上げる。

「あなたこそなにをやっているの? 陽奈子は確か、月曜日は花壇の水やり担当だったわね」
「あっ、知っているんですね」
「あなたたちを管理するのがメイド長の仕事だからね。それで、水やりは?」
「今からするところですけど、道具がどこにもなくて」
「それなら、あそこの物置にじょうろがあるから、とってきなさい」

 指差した方向――敷地の東南の角に、物置が置かれている。目立たない場所にあるので、見落としていたらしい。さっそく向かおうとすると、呼び止められた。

「花が傷むといけないから、水は優しくあげないと駄目よ。花に直接水をかけるのではなくて、根本の土に、一本ずつ丁寧にかけるように。分かった?」

 広大な花壇一面に植わった花に、指示されたとおりのやり方でちまちまと水を与えなければならないのかと思うと、作業する前から作業をするのが面倒くさくなった。
 水を直接かけられたくらいで弱るほど、草花は柔じゃないだろうに。
 反発心が芽生えたが、言葉で表明せずにはいられないほど大きな感情ではない。

「分かりました」

 今度こそ物置に向かおうすると、またしても呼び止められた。

「面倒だからって、私が言った以外のやり方は絶対に慎んでね。たかが花とはいえ、立派な小柳家の所有物。小柳家で働く人間は、小柳家の所有物を大事にする義務があるの。だから仕事は真面目に、丁寧にすること。……返事は?」

 凄い剣幕で凄まれたものだから、気圧されて首を縦に振った。琴音は疑わしげな眼差しを陽奈子に注いでいたが、

「ちゃんとするようにね」

 低い声で念を押し、その場をあとにした。

「……おっかないなぁ」

 後ろ姿が屋敷の中に消えたのを確認してからそう呟き、三度目の正直で物置へ向かった。
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