キスで終わる物語

阿波野治

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一日目

嗜好について

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「別に。ただの世間話よ。そうですよね、真綾お嬢さま」
「うん。新学期が始まったから、主に学校のこととか」

 学校という言葉に違和感を覚えたが、よくよく考えれば、真綾は十歳だからまだ小学生だ。多数のメイドを従えて屋敷で暮らすお嬢さまだとしても、日本に住んでいてその年齢に該当する以上、小学校に通う義務からは逃れられない。

「そっか。もう学校が始まっていたんですね。ずっとニートだったのと、仕事初日が日曜だったのとの合わせ技で、つい忘れてたけど」
「えっ……。陽奈子って、ニートだったの?」

 真綾のただでさえ大きくて円らな瞳が、一層丸く大きくなった。大げさなリアクションに、陽奈子は思わず苦笑してしまう。
 ただ、陽奈子がニートだったことに対しても、ニートという身分に対しても、偏見を持っていないとすぐに分かったので、すんなりと言葉を返すことができた。

「横文字だと大げさに聞こえるかもしれないですけど、要はやる気のない無職というだけです。どうということはありません。そんなことよりも、もっと真綾のことを教えてください。あたしのことはもういいです。今日半日で一生分話しましたから」
「わたしのこと、か。そうだね。お昼は陽奈子に質問するばかりだったもんね。でも、なにから話せばいいのかな」
「定番だと、好きなものとか。じゃあ、食べ物だとなにが好きですか?」
「それだと、甘いものかな」
「具体的には?」
「たくさんあるけど、一番は、やっぱりコーヒーゼリーかな。コーヒーゼリーって作り方も材料もシンプルだから、誰が作っても同じって思うでしょ? でも千紘が作ってくれるものは、市販のものともお店で食べるものとも明らかに違ってて。ほろ苦いけど甘くて、口当たりがよくて、とても美味しいの。だから、作ってってよくお願いするんだけど、滅多に出してくれないんだよね。『美味しいものは、たまにしか食べないから美味しいのであって、毎日食べては台無しです』って。そのとおりなんだろうけど、わたし、千紘の作ったコーヒーゼリーなら毎日でも平気なんだけどなぁ」

 目を輝かせ、頬を膨らませ、真顔で口真似をし、落胆した顔を見せる。目まぐるしく変わる表情に、陽奈子の口元は自然と綻んだ。弥生も微笑ましそうな顔をしている。ミアとノアがこの場にいたならば、二人と似たような表情を見せていたに違いない。

「食べ物以外にはありますか? そういえば、部屋に色々飾ってましたよね。骨董品とか、ぬいぐるみとか。ああいうのを集めるのが趣味なんですか?」
「あれは全部、ロンドンにいるパパとママから贈られてきたものなの。特にそういうものが好き、というわけではないんだけど。――そうだ。ぬいぐるみといえば」

 陽奈子の顔をまじまじと見つめる。なにか言いかけたが、咄嗟に唇を閉じた。怪訝に思って見つめ返すと、頬を赤らめて顔を背けた。……意味が分からない。
 ヒントを求めるように弥生に視線を投げかけると、微笑みをあえて押し殺したような顔でそれを受け止め、真綾の方を向いた。

「ぬいぐるみといえば、そういえば陽奈子も持っていましたね、ウサギのぬいぐるみを。与太郎くんだっけ」

 陽奈子は真綾が口ごもった理由を察した。
 真綾は今朝、陽奈子がカーポートから屋敷へと向かう際に、与太郎を抱いていたことについて言及しようとしたのだろう。しかし、真綾がその光景を見たのは、自室のカーテンの隙間からだ。真綾の自室で再会を果たしたとき、陽奈子は手ぶらだった。つまり、表向きには真綾は与太郎の存在を知らないことになる。その矛盾が露呈することを回避するべく、弥生は機転を利かせたのだ。

「そうなんですよ。子供のころに父親から貰ったもので、今でも大切にしています」
「そうなんだ。わたしも、パパやママからプレゼントされたものは大事にしているし、人形やぬいぐるみはたくさん貰ったけど、名前をつけたことはないかな。陽奈子にとって大切な存在なんだね、与太郎くんは」
「ええ、大切です。今でも時々、寝る前とかに語り合ってますからね。今日一日の反省事項とか」
「えっ、ぬいぐるみに話しかけてるの? 陽奈子、確か十八だよね。その歳になってそれはちょっと……」

 弥生は憐れむとも蔑むともつかない表情だ。

「十八歳だろうが、図体が大きかろうが、別に構わないじゃないですか。子供のときからの習慣なんだから」
「大きな体をしているくせにとは言ってないわ。勝手に罪状を増やさないでくれる?」
「目がそう言ってましたよ、弥生の目が。真綾はどう思います? 人形なりぬいぐるみなりに話しかける行為について」
「わたしは――うーん、どうだろう」

 考え込むような顔つきを見せたのち、言葉を紡ぐ。

「わたしはそういう経験はないけど、でも、話しかけるくらい大切に思う気持ちは理解できるかな。わたしも寂しくて堪らないときには、パパとママからの贈り物を眺めながら、どんな思いを込めてわたしにプレゼントしたんだろうとか、思いを馳せることがあるから」

 突然、硝子戸が開いた。ミアとノアが戻ってきたのだ。わざわざ二人がかりでソーサーを持っている。その上に載ったティーカップからは、かぐわしい紅茶の香りと湯気が立ち上っている。

「盛り上がってるね、私たちがいない間に」
「なにを話していたの? まさか、私たちの悪口とかじゃないよね?」

 ソーサーを陽奈子の前に置き、ミア、ノア、の順番で言う。

「陽奈子が大切にしているぬいぐるみのことを話していたの。ウサギの与太郎くん」

 真綾が答えると、双子は「えーっ」という声をシンクロさせた。右側からミアが、左側からノアが、陽奈子の顔を覗き込む。

「なんか意外。ぬいぐるみとか人形とか、そういうのに全然興味ないキャラかと思ったのに」
「でも、意外すぎて逆にお似合いかも。そっかぁ、ウサギさんのぬいぐるみかぁ」
「悪かったな、子供っぽくて。そういうミアノアはどうなの? ぬいぐるみとか人形とか、好きそうだけど」
「別に嫌いではないけど、その趣味はないよ。だって――」
「私にとってはミアが」
「私にとってはノアが」
「人形みたいな存在なんだもん」

 双子は「ねー」と声を合わせ、抱擁を交わした。
 陽奈子は呆れ顔で五個目のクッキーをつまむ。弥生は苦笑をこぼし、早く席に着くよう、二人に向かって手振りで促す。真綾は微笑んでティーカップに口をつけた。

 真綾の話に耳を傾け、ミアとノアと笑い合い、弥生と冗談を交わす。
 賑やかな、充実した時間を過ごすうちに、まず皿の中のクッキーが尽き、次いでティーカップが空になった。やがて仕事に戻らなければならない時間となったため、陽奈子は双子とともに裏庭をあとにした。
 本日の仕事を既に終わらせ、その場に留まって談笑を継続している真綾と弥生の二人が、恨めしいような、羨ましいような気がした。
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