2 / 49
一日目
車中で弥生と
しおりを挟む
車内には香水の匂いが淡く充満している。助手席と運転席の物理的な近さもあり、少々落ち着かない。
助手席の窓越しに車外を見やる。待ち合わせ場所に向かう道中に見た景色が流れていく。現在道は空いていて、二人が乗っている車はスピードを出しているので、流れる速度も速い。
今日で生まれ故郷ともお別れだ。これからは全く知らない土地で暮らしていくのだ。
自分に言い聞かせるように心の中で呟いてみたが、実感も感慨も湧かない。
「与太郎くん、だっけ」
最初の交差点を右折した直後、弥生が話しかけてきた。
「あなたにとってよっぽど大切なのね、その子は。運転席にまで連れてきて」
「なんとなく持ってきちゃっただけです。荷物として後ろの席に置いておくのが可哀相だったというのも、少しはあるけど」
「あ、呼び捨て? 私のこと呼び捨てにしちゃう? いいね、そういうの」
弥生は再び笑った。
「仕事先の先輩と一対一で話すとなると、最初はどうしても遠慮しちゃうものだけど、あなたは例外に属するみたいね。やっぱり面白い子ね、陽奈子は」
赤信号に引っかかって車が停まる。弥生は上体を捻って陽奈子のほうを向く。
「まずは私から質問させて。ずばり訊いちゃうけど、陽奈子はどうしてメイドの仕事を引き受ける気になったの?」
「色々ありますけど……」
微かに躊躇いを覚えたが、正直に打ち明ける。
「一番の理由は、無職だったからです。親が働け、働けと口うるさいのにうんざりしていたところに、たまたま今回の話が舞い込んできたので、まあちょうどいいかな、と」
「メイドとして働くのが子供のときからの夢でした、とかじゃなくて?」
頷く。
「あら、それは残念。うちで働いている子の中には、メイドっていう職業への思い入れが強い子も少なくないんだけど」
小柳家に仕えるメイドたちは、どんなきっかけで働き始めたのだろう? まさか全員が全員、真綾にスカウトされたわけではないはずだ。
少し気になったが、新入りの立場で立ち入っていい話題ではないかもしれないと思い、この場で尋ねるのは控えることにする。小柳家での暮らしに慣れれば、いずれ話を聞く機会もあるはずだ。
信号が青に変わった。弥生は顔を前に戻し、車を発進させる。
陽奈子は運転者の横顔を注視する。運転に必要な真剣さを保ちながらも、ほどよくリラックスした表情。今にも音楽に合わせて口ずさみ出しそうだ。
「説教はしないんですか? 無職だったから仕方なくとか、そういう心構えで働かれるのは迷惑だ、みたいな」
「んー、別にいいんじゃない? そういう細かいことは」
与太郎の頭を軽く撫でながらの陽奈子の言葉に、弥生は事もなげに答えた。
「小柳家で働く人間に必要なものは、ただ一つ、真綾お嬢さまを愛し、敬い、称える心のみ。陽奈子にはある?」
「ありますよ。当然あります。だってあたしに仕事をくれた人間なんですから――って、こんな適当な感じでいいのかな」
「いいのよ、細かいことは。一口にリスペクトと言っても、形は色々あって当然なんだから。……ただ」
「ただ?」
「琴音の前では、そういう誤解を招くというか、誠実さを疑われかねない発言は、できれば避けたほうが無難かな」
「琴音? ……ああ、神崎さんですか」
「そう。陽奈子が電話で話した神崎琴音。メイド長兼お嬢さまの教育係で、二十五歳独身。Gカップ」
「おっぱいのサイズは別に知りたくないですけど……。要は偉い人だから逆らうな、ということですか」
「偉い人だからと言うか、気難しいからと言うか」
弥生の横顔に苦笑が滲む。脳裏には、陽奈子はまだ見ぬ神崎琴音の顔が浮かんでいるのかもしれない。
「琴音と仲良く、というよりは、嫌われないようにやっていく。それが小柳家で上手くやっていく一番のコツね」
「そんなにとっつきづらい人なんですか? 電話で話した限りでは、特に悪印象はなかったですけど」
「そのときは他人同士の関係だったからね。とにかく、同じ屋根の下で暮らしてみれば自ずと分かると思うよ。彼女がどんな人間かが」
「脅すようなことを言うんですね」
「いや、そういうつもりはないんだけど。琴音のこともそうだけど、困ったことがあれば気軽に相談してくれていいからね。同僚から慕われまくっていて、良きお姉さん的存在の私に」
「自称している時点で怪しいものですね」
「本当だって」
緊張がほぐれてきたところで、遅まきながら、互いに詳細な自己紹介をする流れとなった。趣味嗜好、家族構成、その他諸々。その中で弥生は、現在カーステレオから流れている曲を歌っているバンドのファンで、ライブにもよく足を運でいた、という話をした。
「『足を運んでいる』じゃなくて『足を運んでいた』、ですか。今は熱が冷めたということ?」
「ううん、行くチャンスがないだけ。真綾さまのために常に待機しておかなければいけないから、自由に出かけることができないの」
「へえ。それは大変ですね」
「まあ、仕事だからね。メイドだろうが運転手だろうが、働いているからには大変なのは当たり前だから」
「正直、ちょっと不安になってきたかも」
「初めてなんだから不安はあって当然。でも、みんないい子たちばかりだし、慣れたら結構楽しいと思うよ。大変は大変だけどね」
弥生は今度も、陽奈子の発言に苦言を呈することはなかった。仕事に対する消極的な姿勢に対して、母親から日常的に小言を言われてきた身としては、ほっとするものがある。
弥生はいい人だ。その弥生が「みんないい子」だと言うのだから、同僚はいい人たちばかり。きっとそうに違いない。
助手席の窓越しに車外を見やる。待ち合わせ場所に向かう道中に見た景色が流れていく。現在道は空いていて、二人が乗っている車はスピードを出しているので、流れる速度も速い。
今日で生まれ故郷ともお別れだ。これからは全く知らない土地で暮らしていくのだ。
自分に言い聞かせるように心の中で呟いてみたが、実感も感慨も湧かない。
「与太郎くん、だっけ」
最初の交差点を右折した直後、弥生が話しかけてきた。
「あなたにとってよっぽど大切なのね、その子は。運転席にまで連れてきて」
「なんとなく持ってきちゃっただけです。荷物として後ろの席に置いておくのが可哀相だったというのも、少しはあるけど」
「あ、呼び捨て? 私のこと呼び捨てにしちゃう? いいね、そういうの」
弥生は再び笑った。
「仕事先の先輩と一対一で話すとなると、最初はどうしても遠慮しちゃうものだけど、あなたは例外に属するみたいね。やっぱり面白い子ね、陽奈子は」
赤信号に引っかかって車が停まる。弥生は上体を捻って陽奈子のほうを向く。
「まずは私から質問させて。ずばり訊いちゃうけど、陽奈子はどうしてメイドの仕事を引き受ける気になったの?」
「色々ありますけど……」
微かに躊躇いを覚えたが、正直に打ち明ける。
「一番の理由は、無職だったからです。親が働け、働けと口うるさいのにうんざりしていたところに、たまたま今回の話が舞い込んできたので、まあちょうどいいかな、と」
「メイドとして働くのが子供のときからの夢でした、とかじゃなくて?」
頷く。
「あら、それは残念。うちで働いている子の中には、メイドっていう職業への思い入れが強い子も少なくないんだけど」
小柳家に仕えるメイドたちは、どんなきっかけで働き始めたのだろう? まさか全員が全員、真綾にスカウトされたわけではないはずだ。
少し気になったが、新入りの立場で立ち入っていい話題ではないかもしれないと思い、この場で尋ねるのは控えることにする。小柳家での暮らしに慣れれば、いずれ話を聞く機会もあるはずだ。
信号が青に変わった。弥生は顔を前に戻し、車を発進させる。
陽奈子は運転者の横顔を注視する。運転に必要な真剣さを保ちながらも、ほどよくリラックスした表情。今にも音楽に合わせて口ずさみ出しそうだ。
「説教はしないんですか? 無職だったから仕方なくとか、そういう心構えで働かれるのは迷惑だ、みたいな」
「んー、別にいいんじゃない? そういう細かいことは」
与太郎の頭を軽く撫でながらの陽奈子の言葉に、弥生は事もなげに答えた。
「小柳家で働く人間に必要なものは、ただ一つ、真綾お嬢さまを愛し、敬い、称える心のみ。陽奈子にはある?」
「ありますよ。当然あります。だってあたしに仕事をくれた人間なんですから――って、こんな適当な感じでいいのかな」
「いいのよ、細かいことは。一口にリスペクトと言っても、形は色々あって当然なんだから。……ただ」
「ただ?」
「琴音の前では、そういう誤解を招くというか、誠実さを疑われかねない発言は、できれば避けたほうが無難かな」
「琴音? ……ああ、神崎さんですか」
「そう。陽奈子が電話で話した神崎琴音。メイド長兼お嬢さまの教育係で、二十五歳独身。Gカップ」
「おっぱいのサイズは別に知りたくないですけど……。要は偉い人だから逆らうな、ということですか」
「偉い人だからと言うか、気難しいからと言うか」
弥生の横顔に苦笑が滲む。脳裏には、陽奈子はまだ見ぬ神崎琴音の顔が浮かんでいるのかもしれない。
「琴音と仲良く、というよりは、嫌われないようにやっていく。それが小柳家で上手くやっていく一番のコツね」
「そんなにとっつきづらい人なんですか? 電話で話した限りでは、特に悪印象はなかったですけど」
「そのときは他人同士の関係だったからね。とにかく、同じ屋根の下で暮らしてみれば自ずと分かると思うよ。彼女がどんな人間かが」
「脅すようなことを言うんですね」
「いや、そういうつもりはないんだけど。琴音のこともそうだけど、困ったことがあれば気軽に相談してくれていいからね。同僚から慕われまくっていて、良きお姉さん的存在の私に」
「自称している時点で怪しいものですね」
「本当だって」
緊張がほぐれてきたところで、遅まきながら、互いに詳細な自己紹介をする流れとなった。趣味嗜好、家族構成、その他諸々。その中で弥生は、現在カーステレオから流れている曲を歌っているバンドのファンで、ライブにもよく足を運でいた、という話をした。
「『足を運んでいる』じゃなくて『足を運んでいた』、ですか。今は熱が冷めたということ?」
「ううん、行くチャンスがないだけ。真綾さまのために常に待機しておかなければいけないから、自由に出かけることができないの」
「へえ。それは大変ですね」
「まあ、仕事だからね。メイドだろうが運転手だろうが、働いているからには大変なのは当たり前だから」
「正直、ちょっと不安になってきたかも」
「初めてなんだから不安はあって当然。でも、みんないい子たちばかりだし、慣れたら結構楽しいと思うよ。大変は大変だけどね」
弥生は今度も、陽奈子の発言に苦言を呈することはなかった。仕事に対する消極的な姿勢に対して、母親から日常的に小言を言われてきた身としては、ほっとするものがある。
弥生はいい人だ。その弥生が「みんないい子」だと言うのだから、同僚はいい人たちばかり。きっとそうに違いない。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
隣の人妻としているいけないこと
ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。
そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。
しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。
彼女の夫がしかけたものと思われ…
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる