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沈降、そして浮上
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死ぬのだな、と思う。
思うだけで、実感は伴わない。桃色の球体を目前にしてから、死に直通するベルトコンベアに追いやられるまでがあまりにも性急で、あまりにも劇的で、死にゆくのは自分でも、自分と直接繋がりがある人間でもない、赤の他人であるかのようだ。
沈み始めた当初抱いていたはずの、恐怖と焦りの感情はいつの間にか消滅している。走馬灯が流れることもない。もうすぐ死ぬとはとても思えない。
私は死なないのだろうか?
そんなはずはない。私が死ぬ未来は確定している。それは絶対に揺るぎない。
死とは、実感を伴わないものなのだ。だから私は、死のうとしているにもかかわらず、死ぬという実感を抱いていない。
私の解釈が正しいのだとすれば、実に呆気ない。こんなにも呆気なく、掛け替えのない命が、個性が、永久に、完全に消滅してしまうとは。
実感も恐怖も走馬灯もないが、嫌だな、とは思う。可能ならば、死にたくない。
当たり前だ。私にはベアトリーチェに到達するという目的がある。
しかし、沈下が止まらないのだから、自力では止められないのだから、死ぬしかない。呆気なくても、嫌でも、死ぬしかない。回避したくても回避できないのだから、運命を受け入れるしかない。いくら運命といえども、自らに不都合な運命は受け入れたくないが、回避できないならば致し方ない。そう諦める気持ちもあった。
生を諦めたくない。生を諦めるしかない。どちらに心を定めようとも、私が死ぬことに変わりはない。
そう思う私は、現時点ではまだ死んでいない。死ぬことに変わりはない、などと思考できているのが、その確たる証拠だ。
私はもうじき死ぬ、などと思っている間は、人は死なないのではないか。そう考えた瞬間に死ぬ気もしたが、死なない。
死が遠い、と思う。私は近い未来に確実に死ぬはずなのに、死なない。近いはずの未来が中々訪れない。そのせいで、愚にもつかないことを考え、死を回避できない事実を何度も何度も噛み締めさせられ、消耗している。不要な苦痛を味わっている。
何と馬鹿げたことだろう。いくら大いなる存在の所業といえども、軽侮の念を抱かずにはいられない。
さっさと殺してくれ。無にしてくれ。思考能力を奪い去ってくれ。
叫んだ直後、私は死にたくないのだった、と気がつく。ベアトリーチェに到達するために、死ぬわけにはいかないのだった。
しかし、私は死ぬ。なぜなのか? それは、確定済みの未来だからだ。
咀嚼すれば咀嚼するほど、何という結末だろう。逍遥の果てに待ち受けていたものが幸福ではなく、死だったとは。
私の体は着実に湖底の土に埋まっていく。光り輝く湖面は着実に遠のいていく。私は確実に死ぬのだろう。
まだ息は苦しくない。しかし、いずれ苦しみが襲ってくる。この「いずれ」というのが恐ろしい。時期が分かっていれば心構えができるが、分からないから不可能。いっそのこと、今すぐに殺してくれ。そう叫びたくなる。
しかし、言うまでもなく、私は死にたくない。ベアトリーチェに至るその瞬間まで、呼吸が、命が、継続することを懇望している。
それでも息は止まる。命は無に帰す。今のところは死んでいないが、近い未来に死ぬ。絶対に死ぬ。ほぼ確実に、ベアトリーチェに到達するよりも先に。
確定した未来を回避する方法はないだろうか?
自力では不可能だろう。では、他力ではどうかと言うと、湖周辺には人間の一人はおろか、動物の一匹も存在しないのだから、その可能性も同じく絶望的だ。
やはり、どう足掻いても私は死ぬようだ。
顧みれば、これまでの道のり、誰の助けも借りずに歩いてきた。ずっと一人だった。よくぞここまで歩いてこられたものだ。その褒美として、誰か私を助けてはくれないだろうか。
厚かましく願ったところで、湖畔に私以外の人間は存在しないのだから、叶わぬ夢だ。大いなる存在も、ベアトリーチェも、救いの手を差し伸べてはくれない。
婉曲に死刑を宣告した、ということなのか。私を現在の境遇に陥らせた首謀者の感がある大いなる存在はともかく、彼女がそのような対応を取ったのだとすれば、ショックだ。しかし同時に、彼女らしいな、と微笑ましくもある。
悔やむ気持ちや納得がいかない気持ちはあるが、致し方ない。よくぞここまで歩いてきた。自画自賛を浴びせながら、浴びながら、死のう。
腹を括った瞬間、体が軽くなった。それと共に沈降が止まった。
二つの変化を合図に、私の体は水面に向かって上昇を開始した。私の力ではない力が私を動かしている。
沈む時よりも心持ち速い速度で湖面が近づいてくる。体の埋まった部分が土中からせり出していくのを感じる。眩しさが次第に強まる。
出る、出る、出る、
と思っているうちに、私の顔は水面から出た。
思うだけで、実感は伴わない。桃色の球体を目前にしてから、死に直通するベルトコンベアに追いやられるまでがあまりにも性急で、あまりにも劇的で、死にゆくのは自分でも、自分と直接繋がりがある人間でもない、赤の他人であるかのようだ。
沈み始めた当初抱いていたはずの、恐怖と焦りの感情はいつの間にか消滅している。走馬灯が流れることもない。もうすぐ死ぬとはとても思えない。
私は死なないのだろうか?
そんなはずはない。私が死ぬ未来は確定している。それは絶対に揺るぎない。
死とは、実感を伴わないものなのだ。だから私は、死のうとしているにもかかわらず、死ぬという実感を抱いていない。
私の解釈が正しいのだとすれば、実に呆気ない。こんなにも呆気なく、掛け替えのない命が、個性が、永久に、完全に消滅してしまうとは。
実感も恐怖も走馬灯もないが、嫌だな、とは思う。可能ならば、死にたくない。
当たり前だ。私にはベアトリーチェに到達するという目的がある。
しかし、沈下が止まらないのだから、自力では止められないのだから、死ぬしかない。呆気なくても、嫌でも、死ぬしかない。回避したくても回避できないのだから、運命を受け入れるしかない。いくら運命といえども、自らに不都合な運命は受け入れたくないが、回避できないならば致し方ない。そう諦める気持ちもあった。
生を諦めたくない。生を諦めるしかない。どちらに心を定めようとも、私が死ぬことに変わりはない。
そう思う私は、現時点ではまだ死んでいない。死ぬことに変わりはない、などと思考できているのが、その確たる証拠だ。
私はもうじき死ぬ、などと思っている間は、人は死なないのではないか。そう考えた瞬間に死ぬ気もしたが、死なない。
死が遠い、と思う。私は近い未来に確実に死ぬはずなのに、死なない。近いはずの未来が中々訪れない。そのせいで、愚にもつかないことを考え、死を回避できない事実を何度も何度も噛み締めさせられ、消耗している。不要な苦痛を味わっている。
何と馬鹿げたことだろう。いくら大いなる存在の所業といえども、軽侮の念を抱かずにはいられない。
さっさと殺してくれ。無にしてくれ。思考能力を奪い去ってくれ。
叫んだ直後、私は死にたくないのだった、と気がつく。ベアトリーチェに到達するために、死ぬわけにはいかないのだった。
しかし、私は死ぬ。なぜなのか? それは、確定済みの未来だからだ。
咀嚼すれば咀嚼するほど、何という結末だろう。逍遥の果てに待ち受けていたものが幸福ではなく、死だったとは。
私の体は着実に湖底の土に埋まっていく。光り輝く湖面は着実に遠のいていく。私は確実に死ぬのだろう。
まだ息は苦しくない。しかし、いずれ苦しみが襲ってくる。この「いずれ」というのが恐ろしい。時期が分かっていれば心構えができるが、分からないから不可能。いっそのこと、今すぐに殺してくれ。そう叫びたくなる。
しかし、言うまでもなく、私は死にたくない。ベアトリーチェに至るその瞬間まで、呼吸が、命が、継続することを懇望している。
それでも息は止まる。命は無に帰す。今のところは死んでいないが、近い未来に死ぬ。絶対に死ぬ。ほぼ確実に、ベアトリーチェに到達するよりも先に。
確定した未来を回避する方法はないだろうか?
自力では不可能だろう。では、他力ではどうかと言うと、湖周辺には人間の一人はおろか、動物の一匹も存在しないのだから、その可能性も同じく絶望的だ。
やはり、どう足掻いても私は死ぬようだ。
顧みれば、これまでの道のり、誰の助けも借りずに歩いてきた。ずっと一人だった。よくぞここまで歩いてこられたものだ。その褒美として、誰か私を助けてはくれないだろうか。
厚かましく願ったところで、湖畔に私以外の人間は存在しないのだから、叶わぬ夢だ。大いなる存在も、ベアトリーチェも、救いの手を差し伸べてはくれない。
婉曲に死刑を宣告した、ということなのか。私を現在の境遇に陥らせた首謀者の感がある大いなる存在はともかく、彼女がそのような対応を取ったのだとすれば、ショックだ。しかし同時に、彼女らしいな、と微笑ましくもある。
悔やむ気持ちや納得がいかない気持ちはあるが、致し方ない。よくぞここまで歩いてきた。自画自賛を浴びせながら、浴びながら、死のう。
腹を括った瞬間、体が軽くなった。それと共に沈降が止まった。
二つの変化を合図に、私の体は水面に向かって上昇を開始した。私の力ではない力が私を動かしている。
沈む時よりも心持ち速い速度で湖面が近づいてくる。体の埋まった部分が土中からせり出していくのを感じる。眩しさが次第に強まる。
出る、出る、出る、
と思っているうちに、私の顔は水面から出た。
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