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 墓石に顔を近づける。「のはか」の上、即ち石の上面の上半分に、何らかの文字が記されていた痕跡が辛うじて認められる。今にも消え入りそうに薄い短い横線は、漢数字の一にも似ている。「のはか」の字の大きさを考えれば、漢数字の一ではなく、横棒を含む何らかの文字が記されていたと断定するのが妥当だろう。
 さらに顔を近づけて、横線は柩であると判明した。
 白色やオレンジ色や空色の花々に囲まれて、白装束に身に包んだベアトリーチェが横たわっている。顔の造作は疑いようもなく彼女のものだ。元々透き通るように白い肌の持ち主だが、現在の顔の白さは、生命活動を終えた人間にしか表現し得ない。
 突然、ベアトリーチェが双眸を見開いた。紅が引かれた唇が凄まじい速さで動き、叱咤激励の類と推察される無声の言葉を吐いたかと思うと、頭部がロケットのごとく真上に発射された。秒速約二センチという低速だ。
 臆することなく、迫りくるベアトリーチェの顔を見据える。事態がこのまま推移すれば、私たちはキスを交わすことになりそうだ。
 予測とは裏腹に、あたかも私の心を読んで故意に別の道を選んだかのごとく、頭部の軌道は徐々に予想ルートから逸れ始めた。キスはしないが、衝突は避けられないルートだ。速度に変化が生じないのだとすれば、私の鼻にぶつかるまであと六秒の猶予しかない。
 許された時間の短さが重圧となり、自らが取るべき選択について検討することさえままならない。米粒ほどだった頭部はあっという間に私の顔ほどになり、私の鼻に直撃した。
 私の体は私の意思を超越して動き出し、しゃがんで首を伸ばして墓石を注視する姿勢から、直立する姿勢へと流れるように移行した。一方のベアトリーチェの頭部は、打ち上がったのとは逆の軌道、同じ速度で下降し、柩に収まる。ベアトリーチェの遺体からズームアウトし、「のはか」の小石に帰還する。
 早く先へ進め、という彼女からのメッセージなのかもしれない。数秒間、魂を抜かれたように立ち尽くす時間を経て、そう結論する。本当は意味などなく、己の都合のいいように考えているだけなのかもしれない。しかし、私の目的は彼女に到達することなのだから、ご都合主義で結構だ。気持ちを切り替える目的で溜息を一つつき、小石から視線を切って歩き出す。
 道は緩やかに下りながら蛇行している。路面を覆っているのは相変わらず短い雑草で、道の左右に生えた背が高い雑草と好対照をなしている。蟷螂の姿は見かけなくなった。
「のはか」の石は、「のはか」と記した人間が深い関わり合いを持つ特定の動物ではなく、天地開闢から現在に至るまで、そして現在から宇宙の終焉に至るまでの間に生まれて死ぬ、全ての生命の墓なのかもしれない。
 墓石がある地点が現在だと仮定したならば、私は過去と未来、どちらへ向かっているのだろう。過去だとすれば、幻影でも、夢でも、過去の記憶でもないベアトリーチェは存在するのだろうか。したとして、到達可能なのだろうか。
 道が平坦になったかと思うと、視界が開けた。
 湖だ。
 形状は正円に近く、広さは直径五十メートルほど。湖の外縁は幅五十センチほどの平坦な黒土に縁取られていて、湿り気を帯びた朽ち葉と大小の木の枝が堆積している。さらにその外周を、私がこれまで歩いてきた道の左右に生えていたのと同種の木々が取り巻いている。湖水が湛えられた領域と、それを縁取る区域の地面からは、樹木は一本も生えていない。ただ、後者のすぐ外側に生えた木々が湖の中心に向かって枝を伸ばし、葉を茂らせているため、空は遮られている。数は少なく、面積は狭いが、木漏れ日が射し込んでいる箇所もある。
 湖水は透き通りすぎない程度に澄んでいる。湖を縁取る領域と同じく、黒土と朽ち葉と木の枝によって湖底は構成されている。限りなく透明に近い白い体を持つ、辞書には名前が記載されていない小魚が、この湖に棲息する唯一の一匹として、しかし孤独感に呑まれることなく、威風堂々と泳いでいそうな雰囲気だ。
 視線を湖底に固定したまま、奥へ奥へと進めていく。水深は次第に深くなっていくが、推移は極めて緩やかで、汀から十メートルほどの位置でも膝に達するほどもない。最も深い場所でも、大人ならば足がつきそうだ。
 湖面のほぼ中央に桃色の球体が浮かんでいる。山道を歩いていた際に頻繁に見かけた、蟷螂の体色に一見似ているが、蟷螂のパステルピンクと比べると遥かに濃密で深みがある。注意深く観察すると、種類が異なるピンク系統の色が、幾重にも塗り重ねられた結果の桃色だと分かる。ある程度距離がある上、孤立しているせいで大きさを把握しづらいが、バレーボールやバスケットボールほどだろうか。湖上を微風が吹き抜けているらしく、緩慢な速度で横方向に回転しながら小幅に浮き沈みしている。
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