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蟷螂

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 芝生のような短い雑草がクッションの代わりを果たしているため、靴音は立たない。変形しているのは無論雑草だが、靴底が踏みしめるたびに僅かに大地が沈み、衝撃を吸収しているようにも感じられる。道の左右から突き出た草の葉が剥き出しの腕を掠めるため、むず痒く、時折痒さ以上痛み未満の感覚を覚える。鬱陶しいと言えば鬱陶しいが、本来人間が通行するべきではない山中を通行しているのだから、謙虚に受け入れるべきだろう。そう鷹揚な気持ちでいられるのは、建物から抜け出せた安堵感からか。それとも、大自然が清々しい気分をもたらしてくれたお陰か。
 道の周辺に人の姿は認められず、人気も感じない。この山の中にいる人間は私だけなのかもしれない。通行人で賑わう街道を歩いていた頃を顧みれば、随分と寂しい場所まで来てしまった。
 歩きながら道の左右に目を配ったが、生物は殆ど目にしない。唯一の例外は、全身がパステルピンクの、小指ほどの大きさの蟷螂。木の下枝の中程やや先端寄りや、雑草の葉の縁など、中途半端な場所で凝然としているのを時折見かける。茶色と緑色ばかりの景色の中に鮮やかなピンク色だから、視界に入るとつい注目してしまう。
 ピンク色の蟷螂のフォルムは、一般的な蟷螂とほぼ同じだ。その種類の昆虫の体は、周囲の景色に同化するべく、緑色や茶色をしているのが通例だが、桜花や梅花とは似て非なる、底抜けに色鮮やかなピンク。
 よくよく観察すると、前肢の鎌状になった部分、より正確には鎌の刃の部分だけが赤い。一定量集約して然るべき形に整えれば、ルビーかと見紛うに違いないほどに、鮮やかで艶やかで美麗な赤色だ。刃は草刈り鎌のそれのように、極小の逆三角形が隙間なく並んでいるのではなく、櫛の歯にも似た細い突起が等間隔に付属している。獲物に引っかけて手前に引けば、肉を切り裂くのに好都合な方向に刃は飛び出している。薄皮一枚で辛うじて体裁を保っている芋虫の類であれば、容易く肉を切り分けられそうだ。
 私が接近すると、蟷螂は決まって私の方を振り向く。向き直るのではなく、首のみを回して。その挙動はステレオタイプのロボットを連想させる。
 考えてみれば、昆虫というのは生き物の中で最も機械的な種族かもしれない。
 小学校の頃、理科の授業の一環として飼育していた紋白蝶の幼虫を、誤って捻り潰してしまったことがある。のた打ち回る姿からは必死さが伝わってきたし、真剣さが感じられたが、どこか演技がかっていた。アドリブではなく、予めプログラミングされた動作だという印象を受けた。
 いつの日かテレビのバラエティ番組で見た、芸人の一人に釣り上げられた、釣り針に口を貫かれたまま暴れ回る熱帯の魚の方が、よっぽど「死にたくない」と叫んでいた。記憶が確かならば、蒲公英色と墨色のツートンカラーのその熱帯の魚は、骨が多いものの肉自体は美味だ、という解説だった。
 魚であれば、皮や骨や内臓を取り除かれて切り身にすれば、完全に死んだという印象を受ける。しかし芋虫は、ちぎれた体を接着剤で一つにして、常温で一定時間放置しておけば、何食わぬ顔で活動を再開しそうだ。
 熱帯の魚の獲り方を芸人一同にレクチャーしていた現地の女性は、初老と言ってもいい年齢に見えたが、ビキニを着用していた。この国では若い女性しか着ないような、若い女性以外が着れば顰蹙を買うような、面積の狭い水着を。ビキニの色は、熱帯の魚の蒲公英色よりも鮮やかなレモンイエロー。その色彩があまりにも鮮烈だったせいで、レポーター役の男性芸人が魚の味をどう表現していたのかも、魚の大きさや形も、どこの国に棲息している何という名前の魚なのかも、ことごとく失念してしまった。
 カメラに向かって笑いかけていた水着の初老の女性の像が、テレビの電波が急に悪くなったように乱れたかと思うと、ベアトリーチェに変身を遂げている。腰までの長さの金髪、碧眼、白磁の肌という、標準的な彼女の姿。しかしその体は、私が通っていた幼稚園の制服に包まれていて、膨れ面をしている。視線の方向は、私だ。
「生き物を妄りに殺しては駄目でしょう」
 人工音声めいたベアトリーチェの声が私に苦言を呈した。左手の指先に目を落とすと、芋虫が体の中程を握り潰されて息絶えている。
 やけにつるつるした手だな、指だな、爪だな、と思った時には、私は小学一年生になっている。
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