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ひじき
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二列のラックによって構成された通路は延々と続く。収納されている箱の色は、一定の法則に則って反復されているらしい。時折、箱の口からひじきに酷似した、黒く、細く、短く、縮れた物体が顔を覗かせている。
実際に見えているのではなく、そう思いたいだけなのだと、頭では理解している。単調極まる道に辟易するあまり、ひじきなどという馬鹿げた幻影を生み出したのだと。
現在までのところ、建物の内部の明暗に変化はない。子猫と思しきか細い鳴き声は聞こえ続けている。初めて聞いた時から音量に全く変化がない。声の発生源があまりにも遠いせいで、音源との距離は着実に縮まっているものの、聞いた限りでは音量に変化が生じていないように感じられるのか。長時間発声し続けることによって体力を消耗するため、時間が経つにつれて音量が低下していき、距離は着実に縮まっているものの、声の大きさに変化がないように感じられるのか。
声のことは考えないと心に誓ったはずなのに、違反している。
自己嫌悪を覚えたのが引き金となり、絶望に通じる弱気が頭をもたげた。
私は建物から出られるのだろうか?
出られないのだとしても、この建物の中にベアトリーチェがいる、という可能性はないだろうか?
そう考えてみたものの、青色の布に頭上を覆われた、微かだが気がかりな声がひっきりなしに聞こえる、蒸し暑い空間の中、金属ラックにもたれて待ち構えている彼女の姿を、私は思い描くことができなかった。美しく、華やかで、淑やかな彼女には相応しくない場所だからかもしれない。あるいは、単に疲れているからか。私の両脚は、疲労困憊というほどではないが、総歩行距離の割には疲弊していた。
私の意識は、ラックに収納された緑色や黄色の箱へと流れる。
途切れることなく設置され、天井まで高さがあるラックに、無様な間隙を晒すことなく収まっているのだから、総数は相当な数に上るはずだ。私が通り過ぎた箱は自動的に、進行方向にある、私の視野に入らない場所にあるいずこかの棚へと瞬時に移動している、ということではないならば。
物心がついた頃には、コンシューマーゲーム機が一般家庭に普及していた世代の人間としては、建物から脱出するための鍵が箱のいずれかに隠されている、というゲーム的な発想を抱いてしまう。
ただ、実際に箱に手をつける気にはなれない。数が膨大だからというのもあるが、それ以外にも理由がある気がする。建物の中にいると自覚した当初、ファスナーを開けて外に出るか否かに迷っていた際に危惧した、見えない世界と現在いる世界が繋がった瞬間、命が脅かされる恐怖。それとは別の何かに起因する気乗りのしなさだ。
例えば、箱の中にベアトリーチェの死体が押し込められている。
細いながらも頑丈な、宇宙空間の端から端まで長さがある透明な糸が、心臓の中心に突き刺さり、突き進み、突き抜けていったような刹那の感覚。
恐怖も、混乱も、怒りもない。ただただ感心している。ベアトリーチェの死体が入っているから、箱の中身を確認したくない。なるほど、辻褄が合う。
ベアトリーチェは芸術品のようなブロンドヘアの持ち主だが、死ねば艶を失い、変色し、乱れることは避けられまい。その先端数ミリが箱から覗き、ひじき。なるほど、そうだったのか。
比喩がつまらないのは致し方ない。死んでいるのは見目麗しいベアトリーチェだが、観測者はつまらない私なのだから。
顔は、眠るように静かに目を瞑っている、とはいかないのだろう。白磁の肌は、死斑が浮き始めた頃合いかもしれない。豊かではないが整った形の乳房は、萎れてしまっているだろうか。四肢は、弛緩と硬直、どちらの状態に置かれているのだろう。傷が刻まれているのだとすれば、タトゥーの失敗作に見えるに違いない。
こうも冷静に彼女の死について想像できるのは、腹の底では、彼女にその現象は無縁だと認識しているからこそ、だろう。
問題は、私が死んでしまわないかだ。
決して大げさな警告ではない。私が生物である以上、食物を摂取しなければ当然、死に至る。食物の気配がないこの空間から脱出できなければ、どうなる? 無論、死だ。世にも哀れな野垂れ死にだ。現時点では遭遇していないが、私を死に至らしめ得る罠が仕掛けられていないとも限らない。
現時点では死は遥か遠くにあるが、困難な道のりを歩む辛苦は現在進行形だ。この蒸し暑さの中、いつ終わるとも知れない道を歩み続けるのは、精神的に辛い。か弱いが、絶え間なく訴えかけてくる子猫の鳴き声が、負の思念や感情を増幅させるようでもある。心なしか、頭蓋骨が重たい。
実際に見えているのではなく、そう思いたいだけなのだと、頭では理解している。単調極まる道に辟易するあまり、ひじきなどという馬鹿げた幻影を生み出したのだと。
現在までのところ、建物の内部の明暗に変化はない。子猫と思しきか細い鳴き声は聞こえ続けている。初めて聞いた時から音量に全く変化がない。声の発生源があまりにも遠いせいで、音源との距離は着実に縮まっているものの、聞いた限りでは音量に変化が生じていないように感じられるのか。長時間発声し続けることによって体力を消耗するため、時間が経つにつれて音量が低下していき、距離は着実に縮まっているものの、声の大きさに変化がないように感じられるのか。
声のことは考えないと心に誓ったはずなのに、違反している。
自己嫌悪を覚えたのが引き金となり、絶望に通じる弱気が頭をもたげた。
私は建物から出られるのだろうか?
出られないのだとしても、この建物の中にベアトリーチェがいる、という可能性はないだろうか?
そう考えてみたものの、青色の布に頭上を覆われた、微かだが気がかりな声がひっきりなしに聞こえる、蒸し暑い空間の中、金属ラックにもたれて待ち構えている彼女の姿を、私は思い描くことができなかった。美しく、華やかで、淑やかな彼女には相応しくない場所だからかもしれない。あるいは、単に疲れているからか。私の両脚は、疲労困憊というほどではないが、総歩行距離の割には疲弊していた。
私の意識は、ラックに収納された緑色や黄色の箱へと流れる。
途切れることなく設置され、天井まで高さがあるラックに、無様な間隙を晒すことなく収まっているのだから、総数は相当な数に上るはずだ。私が通り過ぎた箱は自動的に、進行方向にある、私の視野に入らない場所にあるいずこかの棚へと瞬時に移動している、ということではないならば。
物心がついた頃には、コンシューマーゲーム機が一般家庭に普及していた世代の人間としては、建物から脱出するための鍵が箱のいずれかに隠されている、というゲーム的な発想を抱いてしまう。
ただ、実際に箱に手をつける気にはなれない。数が膨大だからというのもあるが、それ以外にも理由がある気がする。建物の中にいると自覚した当初、ファスナーを開けて外に出るか否かに迷っていた際に危惧した、見えない世界と現在いる世界が繋がった瞬間、命が脅かされる恐怖。それとは別の何かに起因する気乗りのしなさだ。
例えば、箱の中にベアトリーチェの死体が押し込められている。
細いながらも頑丈な、宇宙空間の端から端まで長さがある透明な糸が、心臓の中心に突き刺さり、突き進み、突き抜けていったような刹那の感覚。
恐怖も、混乱も、怒りもない。ただただ感心している。ベアトリーチェの死体が入っているから、箱の中身を確認したくない。なるほど、辻褄が合う。
ベアトリーチェは芸術品のようなブロンドヘアの持ち主だが、死ねば艶を失い、変色し、乱れることは避けられまい。その先端数ミリが箱から覗き、ひじき。なるほど、そうだったのか。
比喩がつまらないのは致し方ない。死んでいるのは見目麗しいベアトリーチェだが、観測者はつまらない私なのだから。
顔は、眠るように静かに目を瞑っている、とはいかないのだろう。白磁の肌は、死斑が浮き始めた頃合いかもしれない。豊かではないが整った形の乳房は、萎れてしまっているだろうか。四肢は、弛緩と硬直、どちらの状態に置かれているのだろう。傷が刻まれているのだとすれば、タトゥーの失敗作に見えるに違いない。
こうも冷静に彼女の死について想像できるのは、腹の底では、彼女にその現象は無縁だと認識しているからこそ、だろう。
問題は、私が死んでしまわないかだ。
決して大げさな警告ではない。私が生物である以上、食物を摂取しなければ当然、死に至る。食物の気配がないこの空間から脱出できなければ、どうなる? 無論、死だ。世にも哀れな野垂れ死にだ。現時点では遭遇していないが、私を死に至らしめ得る罠が仕掛けられていないとも限らない。
現時点では死は遥か遠くにあるが、困難な道のりを歩む辛苦は現在進行形だ。この蒸し暑さの中、いつ終わるとも知れない道を歩み続けるのは、精神的に辛い。か弱いが、絶え間なく訴えかけてくる子猫の鳴き声が、負の思念や感情を増幅させるようでもある。心なしか、頭蓋骨が重たい。
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