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二輪
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行く手に線路が横断しているのが見えた。こぢんまりとした木造の駅舎が建っていて、カメラを手にした数名の男女が建物を撮影している。何をどう撮るかについて協議しつつ、時折戯れのようにシャッターを押している。全員二十歳前後だろうか。彼らが所持しているカメラは、素人目にも安物ではないと分かる。カメラの構え方は実に様になっている。
「あの人たち、芸大生かな」
仲睦まじく手を繋いでいる年下のカップルを見たかのようにニイミさんは言う。首の動きと言葉、両方を使ってタカツグは同意を示す。駅舎が見え、芸大生らしきグループが野外活動に勤しんでいる。目的地に近づいてきているのは間違いなさそうだ。
踏切を横断する寸前、タカツグはニイミさんの手首を掴んで引き留めた。怪訝そうな顔がタカツグへと向けられる。引き留めた理由を説明しようとしたが、躊躇いを覚えた。躊躇った理由を推測することすらできないらしく、ニイミさんも沈黙する。
芸大生らしき集団は撤収作業を開始した。三脚などの金属製の大型の道具もあるが、物音は殆ど発生せず、行儀よくはしゃぐといった響きの話し声ばかりが目立つ。誰一人として二人には目もくれない。
「線路を渡るのはやめておこう」
「何で?」とニイミさんは目で問いかける。その目を見返しながらタカツグは答える。
「何となく、渡ったらいけない気がするから」
何となく、という理由は、理由として認められるのだろうか? 不安はあったが、それ以外の言葉は見つけられない。仮にも今春から芸術大学の文芸学科に通うというのに。
「目的地へは別の道を通っても行けるはずだよ。だから、線路を渡るのはやめよう。その方がいいと思う」
「……そうだね。じゃあ、そうしようか」
提案を受け入れてくれた感謝と、方針を転換した己の身勝手さ、両方の意味からタカツグは弱々しく苦笑し、線路に沿って続く道へと折れた。
建ち並ぶマンションが陽光を遮っていて、昼日中にもかかわらず暗く、薄ら寒く、陰気な道だ。セイタカアワダチソウが狂い咲きしていて、二人の背丈よりも三十センチは高い。
自転車のベルの音が聞えた。音量はさほどでもないが、ひっきりなしに鳴らされる。進行方向から自転車が走ってきた。赤いママチャリで、運転している男は酷く汚らしい身なりをしている。
二人は道の左側を歩いていて、外側を歩いているのはニイミさんだ。タカツグはニイミさんの手を引いて道の端へと移動させ、入れ替わりに自らが外側に出た。
後方でブレーキ音が甲高く響いた。
振り向くと、バナナ色の自転車に跨った、スキンヘッドで強面の中年男性がタカツグを睨んでいる。
タカツグの自転車を追い抜こうと思い、ベルを再三鳴らして警告したが、タカツグが道の左右を行ったり来たりしたため、通るに通れなかった。
中年男性はそのような大意の主張を展開し、タカツグを手厳しく非難した。タカツグは戸惑いながらも適時頭を下げる。
タカツグの言い分は男性とは異なる。タカツグは歩道のほぼ中央をやや低速で走っていた。すると後方からベルが鳴らされたので、道の左に避けた。ところが、再びベルが鳴らされた。左側を通り抜けようとしたところ左に移動したため、却って通行の邪魔になったのだろう。そう考え、今度は右に避けたのだ。中年男性が指摘したような、後続の自転車の通行の阻害しようという意図は全くなかった。理不尽だ、という思いが胸中で黒い渦を描く。
男性の怒りは静まる気配がない。
程なくして、二回目のベルは道を開けてくれた礼の意味から鳴らされたものだった、という可能性に思い至った。タカツグはそれを別の意味に受け取り、結果的に中年男性の走行を邪魔し、怒らせるような真似をしてしまったのだ。
中年男性の怒気に染まった顔。高圧的な物言い。それらに続く第三の圧力を加えられ、タカツグは下げた頭を元の高さに戻せなくなった。推測が正しいか否かを男性に問うてみる勇気はない。仮に男性が怒りを露わにしていなかったとしても、いかつい容貌ではなかったとしても、実行には移せなかっただろう。
言い出せない不甲斐なさ。勘違いをした間抜けさ。怒らせるような真似をした罪悪感。過剰な叱責を受けている理不尽さ。タカツグは、自分が地球上で最も惨めな存在に思えてならなかった。
沈鬱な表情で項垂れる姿を見て、遅まきながらやりすぎたと悟ったのか、はたまた充分に留飲を下げたのか。男性はニッパーで断ち切ったように小言を収め、しかし最後まで表情は険しいまま、その場から走り去った。綺麗に剃られた後頭部が遠ざかる速度は、自転車よりも遅く見えた。
今日のような出来事は、今後何度となく僕の身に降りかかるのだろう。きっと、死ぬまで。
男性に対する怒りは微塵もない。己の惨めさを噛み締め、決められた道を進まなければならない予感に途方に暮れながら、青信号に変わったばかりの横断歩道を渡り、巨大な朱色の鳥居を潜る。
「あの人たち、芸大生かな」
仲睦まじく手を繋いでいる年下のカップルを見たかのようにニイミさんは言う。首の動きと言葉、両方を使ってタカツグは同意を示す。駅舎が見え、芸大生らしきグループが野外活動に勤しんでいる。目的地に近づいてきているのは間違いなさそうだ。
踏切を横断する寸前、タカツグはニイミさんの手首を掴んで引き留めた。怪訝そうな顔がタカツグへと向けられる。引き留めた理由を説明しようとしたが、躊躇いを覚えた。躊躇った理由を推測することすらできないらしく、ニイミさんも沈黙する。
芸大生らしき集団は撤収作業を開始した。三脚などの金属製の大型の道具もあるが、物音は殆ど発生せず、行儀よくはしゃぐといった響きの話し声ばかりが目立つ。誰一人として二人には目もくれない。
「線路を渡るのはやめておこう」
「何で?」とニイミさんは目で問いかける。その目を見返しながらタカツグは答える。
「何となく、渡ったらいけない気がするから」
何となく、という理由は、理由として認められるのだろうか? 不安はあったが、それ以外の言葉は見つけられない。仮にも今春から芸術大学の文芸学科に通うというのに。
「目的地へは別の道を通っても行けるはずだよ。だから、線路を渡るのはやめよう。その方がいいと思う」
「……そうだね。じゃあ、そうしようか」
提案を受け入れてくれた感謝と、方針を転換した己の身勝手さ、両方の意味からタカツグは弱々しく苦笑し、線路に沿って続く道へと折れた。
建ち並ぶマンションが陽光を遮っていて、昼日中にもかかわらず暗く、薄ら寒く、陰気な道だ。セイタカアワダチソウが狂い咲きしていて、二人の背丈よりも三十センチは高い。
自転車のベルの音が聞えた。音量はさほどでもないが、ひっきりなしに鳴らされる。進行方向から自転車が走ってきた。赤いママチャリで、運転している男は酷く汚らしい身なりをしている。
二人は道の左側を歩いていて、外側を歩いているのはニイミさんだ。タカツグはニイミさんの手を引いて道の端へと移動させ、入れ替わりに自らが外側に出た。
後方でブレーキ音が甲高く響いた。
振り向くと、バナナ色の自転車に跨った、スキンヘッドで強面の中年男性がタカツグを睨んでいる。
タカツグの自転車を追い抜こうと思い、ベルを再三鳴らして警告したが、タカツグが道の左右を行ったり来たりしたため、通るに通れなかった。
中年男性はそのような大意の主張を展開し、タカツグを手厳しく非難した。タカツグは戸惑いながらも適時頭を下げる。
タカツグの言い分は男性とは異なる。タカツグは歩道のほぼ中央をやや低速で走っていた。すると後方からベルが鳴らされたので、道の左に避けた。ところが、再びベルが鳴らされた。左側を通り抜けようとしたところ左に移動したため、却って通行の邪魔になったのだろう。そう考え、今度は右に避けたのだ。中年男性が指摘したような、後続の自転車の通行の阻害しようという意図は全くなかった。理不尽だ、という思いが胸中で黒い渦を描く。
男性の怒りは静まる気配がない。
程なくして、二回目のベルは道を開けてくれた礼の意味から鳴らされたものだった、という可能性に思い至った。タカツグはそれを別の意味に受け取り、結果的に中年男性の走行を邪魔し、怒らせるような真似をしてしまったのだ。
中年男性の怒気に染まった顔。高圧的な物言い。それらに続く第三の圧力を加えられ、タカツグは下げた頭を元の高さに戻せなくなった。推測が正しいか否かを男性に問うてみる勇気はない。仮に男性が怒りを露わにしていなかったとしても、いかつい容貌ではなかったとしても、実行には移せなかっただろう。
言い出せない不甲斐なさ。勘違いをした間抜けさ。怒らせるような真似をした罪悪感。過剰な叱責を受けている理不尽さ。タカツグは、自分が地球上で最も惨めな存在に思えてならなかった。
沈鬱な表情で項垂れる姿を見て、遅まきながらやりすぎたと悟ったのか、はたまた充分に留飲を下げたのか。男性はニッパーで断ち切ったように小言を収め、しかし最後まで表情は険しいまま、その場から走り去った。綺麗に剃られた後頭部が遠ざかる速度は、自転車よりも遅く見えた。
今日のような出来事は、今後何度となく僕の身に降りかかるのだろう。きっと、死ぬまで。
男性に対する怒りは微塵もない。己の惨めさを噛み締め、決められた道を進まなければならない予感に途方に暮れながら、青信号に変わったばかりの横断歩道を渡り、巨大な朱色の鳥居を潜る。
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