36 / 50
混浴
しおりを挟む
「一対一だったら殴り返していたんだけどね」
不意打ちに限りなく近い形で、見知らぬ同年代の同性に恋人の面前で打ちのめされた屈辱感は、警察署を去り、二人きりになった途端に急速に膨らみ始めた。タカツグが強がり以外のなにものでもない発言をしたのは、その感情に耐えかねてのことだったが、ニイミさんは無反応だ。警察署滞在時終盤の不機嫌さが依然として色濃く浮かんだ顔で、恋人の隣を黙々と歩いている。
彼女の自宅の前で別れた時も、「さようなら」の一言に対して小さく頷いただけだった。薄氷に罅が入った音を彼は聞いた。
帰宅すると祖父母が待ち構えていて、夕食はすき焼きだった。孫が見知らぬ少年に殴られたから、当初の献立を変更して鍋物にしたのだと思うと、にわかに疲労感が強まった。
「怪我はなかったか?」
「痛いところはないんで?」
ごく簡単な、形式的な質疑応答を挟み、夕食が始まる。大量に入っている小町麩は味が染みていないし、白菜は大きく切りすぎていて食べづらく、春菊は匂いが好きではない。咀嚼力が弱った老人たちが、溶き卵を絡めた肉や野菜をすする音が汚らしくて耐え難い。
「食欲湧かないから、今日はいらない」
一方的に告げ、背中にかけられた声を無視して自室に引っ込んだ。
ベッドに仰向けに寝そべってメールの文章を打ち、ニイミさんに送信する。触れない方が不自然だと考え、今日の一件についても言及したが、深くは踏み込まなかった。
いつも通り、すぐに返信が送られてきた。事件には一切触れておらず、火にかける前の鍋のように熱量が決定的に不足している。亀裂が走った氷は、どうなってしまうのだろう。
悶々としているうちに七時半を回った。八時までには入浴を済ませなければならない。あまりにも早すぎるが、タカツグは居候の身だし、規則は規則だ。郷に入っては郷に従えのことわざを思えば、腹立たしさは限りなく零に近づく。
脱衣所のドア越しに人声と人の気配を感じ、緊張は否応にも高まった。入るのをやめようとは不思議と思わなかった。
一糸まとわぬ姿になり、ドアを開けると、姉といとこは銀色の湯船に入っていた。
顎まで湯に身を沈めている姉に対して、いとこは突っ立っている。姉の言動に気を取られ、タカツグの入室に直前まで気がつかなかったらしく、佇まいは無防備だ。タカツグの双眸はいとこに引き寄せられた。胸は控え目ながらもしっかりと膨らんでいる。乳暈の色素が薄く、肌の色と殆ど変らない。
タカツグに見つめられて、遅れること二秒後、いとこは顔を少し俯けて片腕で胸を隠した。取り返しがつかないことをした、という思いに全身の筋肉が強張り、立ち尽くしたまま身じろぎ一つできなくなる。
突然、多量の湯がタカツグの顔面を襲った。姉が湯船の湯を飛ばしてきたのだ。いつものようにシャワーで応戦すれば、いとこを巻き込んでしまう。体を丸めて防戦に徹する彼の胸中には、股間を守らなければ、という意識が色濃く漂っていた。
勝利を早々に決定的なものにして、姉は無邪気な笑い声を立てた。唇を尖らせて姉を睨んだタカツグは、視界の端に映るいとこが、依然として胸を隠すポーズで佇んでいるのを見た。彼に注目されていることに気がついたらしく、いとこは漸く、負傷した体の一部分を庇うかのごとき慎重さで肩まで湯に浸かった。
三人までならば湯船にどうにか収まりそうだが、いとこと体を密着させるのを遠慮して、先に体を洗うことにした。姉はいとこと言葉を交わし始めた。お転婆ぶりが一転、弟が辛うじて聞き取れない声量での会話だ。
さあ洗い流そうというタイミングで、笑い声が上がった。姉といとこ、両者共に笑ったらしい。振り向くと、いとこが湯船から出ようとするのが見えたので、慌てて顔を戻す。姉もそれに続いたらしく、水が大きく動く音が立った。
「お先に」
姉の指先がタカツグの肩に触れ、彼は浴室に一人取り残された。それがスイッチとなって何らかの感情が込み上げた、というわけではなかったが、さも憂鬱そうに溜息を吐いた。
シャンプーとボディソープをシャワーで手早く流す。湯船に入ろうとすると、小指ほどの大きさの茶色い物体が湯面に浮いていた。目を凝らして、排泄物だと判明した。
臭いはなく、本来あるべきではない場所に浮かんでいたこともあり、本物なのか疑わしく思った。しかし、まさか触ってみるわけにもいかない。顔を近づけるのも嫌だし、湯に浸かるなんてとんでもない。
とりあえず、出よう。
不意打ちに限りなく近い形で、見知らぬ同年代の同性に恋人の面前で打ちのめされた屈辱感は、警察署を去り、二人きりになった途端に急速に膨らみ始めた。タカツグが強がり以外のなにものでもない発言をしたのは、その感情に耐えかねてのことだったが、ニイミさんは無反応だ。警察署滞在時終盤の不機嫌さが依然として色濃く浮かんだ顔で、恋人の隣を黙々と歩いている。
彼女の自宅の前で別れた時も、「さようなら」の一言に対して小さく頷いただけだった。薄氷に罅が入った音を彼は聞いた。
帰宅すると祖父母が待ち構えていて、夕食はすき焼きだった。孫が見知らぬ少年に殴られたから、当初の献立を変更して鍋物にしたのだと思うと、にわかに疲労感が強まった。
「怪我はなかったか?」
「痛いところはないんで?」
ごく簡単な、形式的な質疑応答を挟み、夕食が始まる。大量に入っている小町麩は味が染みていないし、白菜は大きく切りすぎていて食べづらく、春菊は匂いが好きではない。咀嚼力が弱った老人たちが、溶き卵を絡めた肉や野菜をすする音が汚らしくて耐え難い。
「食欲湧かないから、今日はいらない」
一方的に告げ、背中にかけられた声を無視して自室に引っ込んだ。
ベッドに仰向けに寝そべってメールの文章を打ち、ニイミさんに送信する。触れない方が不自然だと考え、今日の一件についても言及したが、深くは踏み込まなかった。
いつも通り、すぐに返信が送られてきた。事件には一切触れておらず、火にかける前の鍋のように熱量が決定的に不足している。亀裂が走った氷は、どうなってしまうのだろう。
悶々としているうちに七時半を回った。八時までには入浴を済ませなければならない。あまりにも早すぎるが、タカツグは居候の身だし、規則は規則だ。郷に入っては郷に従えのことわざを思えば、腹立たしさは限りなく零に近づく。
脱衣所のドア越しに人声と人の気配を感じ、緊張は否応にも高まった。入るのをやめようとは不思議と思わなかった。
一糸まとわぬ姿になり、ドアを開けると、姉といとこは銀色の湯船に入っていた。
顎まで湯に身を沈めている姉に対して、いとこは突っ立っている。姉の言動に気を取られ、タカツグの入室に直前まで気がつかなかったらしく、佇まいは無防備だ。タカツグの双眸はいとこに引き寄せられた。胸は控え目ながらもしっかりと膨らんでいる。乳暈の色素が薄く、肌の色と殆ど変らない。
タカツグに見つめられて、遅れること二秒後、いとこは顔を少し俯けて片腕で胸を隠した。取り返しがつかないことをした、という思いに全身の筋肉が強張り、立ち尽くしたまま身じろぎ一つできなくなる。
突然、多量の湯がタカツグの顔面を襲った。姉が湯船の湯を飛ばしてきたのだ。いつものようにシャワーで応戦すれば、いとこを巻き込んでしまう。体を丸めて防戦に徹する彼の胸中には、股間を守らなければ、という意識が色濃く漂っていた。
勝利を早々に決定的なものにして、姉は無邪気な笑い声を立てた。唇を尖らせて姉を睨んだタカツグは、視界の端に映るいとこが、依然として胸を隠すポーズで佇んでいるのを見た。彼に注目されていることに気がついたらしく、いとこは漸く、負傷した体の一部分を庇うかのごとき慎重さで肩まで湯に浸かった。
三人までならば湯船にどうにか収まりそうだが、いとこと体を密着させるのを遠慮して、先に体を洗うことにした。姉はいとこと言葉を交わし始めた。お転婆ぶりが一転、弟が辛うじて聞き取れない声量での会話だ。
さあ洗い流そうというタイミングで、笑い声が上がった。姉といとこ、両者共に笑ったらしい。振り向くと、いとこが湯船から出ようとするのが見えたので、慌てて顔を戻す。姉もそれに続いたらしく、水が大きく動く音が立った。
「お先に」
姉の指先がタカツグの肩に触れ、彼は浴室に一人取り残された。それがスイッチとなって何らかの感情が込み上げた、というわけではなかったが、さも憂鬱そうに溜息を吐いた。
シャンプーとボディソープをシャワーで手早く流す。湯船に入ろうとすると、小指ほどの大きさの茶色い物体が湯面に浮いていた。目を凝らして、排泄物だと判明した。
臭いはなく、本来あるべきではない場所に浮かんでいたこともあり、本物なのか疑わしく思った。しかし、まさか触ってみるわけにもいかない。顔を近づけるのも嫌だし、湯に浸かるなんてとんでもない。
とりあえず、出よう。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【本当にあった怖い話】
ねこぽて
ホラー
※実話怪談や本当にあった怖い話など、
取材や実体験を元に構成されております。
【ご朗読について】
申請などは特に必要ありませんが、
引用元への記載をお願い致します。
[恥辱]りみの強制おむつ生活
rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。
保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。
クィアな僕らはカラーフィルムを忘れた【カラーフィルムを忘れたのね 書いてみました】
愛知県立旭丘高校
現代文学
Nina Hagenの『カラーフィルムを忘れたのね』を小説にしてみました。
村上春樹の『風の歌を聴け』に憧れて描いた作品です。
村上春樹っぽさを感じていただけると嬉しいです。
風の音
月(ユエ)/久瀬まりか
ホラー
赤ん坊の頃に母と死に別れたレイラ。トマスとシモーヌ夫婦に引き取られたが、使用人としてこき使われている。
唯一の心の支えは母の形見のペンダントだ。ところがそのペンダントが行方不明の王女の証だとわかり、トマスとシモーヌはレイラと同い年の娘ミラを王女にするため、レイラのペンダントを取り上げてしまう。
血などの描写があります。苦手な方はご注意下さい。
女子切腹同好会
しんいち
ホラー
どこにでもいるような平凡な女の子である新瀬有香は、学校説明会で出会った超絶美人生徒会長に憧れて私立の女子高に入学した。そこで彼女を待っていたのは、オゾマシイ運命。彼女も決して正常とは言えない思考に染まってゆき、流されていってしまう…。
はたして、彼女の行き着く先は・・・。
この話は、切腹場面等、流血を含む残酷シーンがあります。御注意ください。
また・・・。登場人物は、だれもかれも皆、イカレテいます。イカレタ者どものイカレタ話です。決して、マネしてはいけません。
マネしてはいけないのですが……。案外、あなたの近くにも、似たような話があるのかも。
世の中には、知らなくて良いコト…知ってはいけないコト…が、存在するのですよ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる