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神社
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平日の昼下がりだけあって、境内は閑散としている。初詣の賑わいの面影はなく、不景気だ、と思ってもみない感想を心中で呟いてみる。
コンクリートで味気なく固められた道ではなく、その脇の砂利の上を歩く。一個一個の大きさは高が知れているが、奏でられる音の主張は決して弱くない。それに別種の音が混じったと思ったら、木々の枝葉がざわめく音だった。砂利の外側の土の地面から生えたそれらは、一本一本が樹齢百年を超えるかと思われるほど巨大だ。複数の種類の木が植わっているが、植物に疎いタカツグは松の木くらいしか名前が分からない。
やがて左手に駐車場が見えた。出入口の脇に設置された公衆トイレは、不潔そうなので利用したことは一度もないが、通り過ぎるたびに、薄汚い小便器に向かって尿を飛ばした過去があったような錯覚を覚える。右隣の便器には、薄黄色の吐瀉物が放置され、左隣では、両足を肩幅に開いたサラリーマンが男性器を執拗に上下に振って雫を切っている。徳島駅の、清潔とは言えないトイレのイメージを引きずっているものと思われるが、その徳島駅にも最近はめっきり足を運ばなくなった。
鳥居と同じ色の欄干が備わった短い橋からは、今にも枯渇しそうな川が流れる河原が見下ろせる。いつの日か家族四人で初詣に来た時、猿がいる、と姉が叫んだことがある。あの時に姉が言った猿とは、姉にしか通じない隠語のようなものだったのだろう、と今では思う。
「ねえ、おみくじ引いていこうよ」
賽銭を投じ、さあ帰ろうかと賽銭箱に背を向けた途端、ニイミさんがそう提案したので、タカツグは驚いた。一緒に初詣に行くという話が持ち上がってからというもの、彼女がおみくじを引きたいと口にしたことは一度もなかった。「引いていかない?」ではなく、「引いていこうよ」という言い回しを使った点からは、意志の強さが窺えた。
タカツグは気圧されたように首肯する。ニイミさんは「やった」と言って小さくガッツポーズするという、時折見せる子供らしい仕草で喜びを表明し、人混みを掻き分けておみくじ売り場へと向かう。砂利を踏む音が遠ざかっていく。
急ぎ足で後を追いながら、初詣が一家総出のイベントだった時代、姉が毎年のようにおみくじを引いていたことを思い出した。紙切れに綴られた忠告や励ましの言葉を熟読し、揚げ足を取っては自分一人で、あるいは母親を巻き込んで笑い転げていた。タカツグはそんな姉を、浅ましいと思いながら傍観していたが、浅ましいと思った対象は、姉の救いようがない性格だったのか、おみくじを買うという行為自体だったのか。
一歩目が遅れたのが仇となり、二人の間に大勢の初詣客が挟まり、すぐには追いつけない情勢となった。声を飛ばそうとすると、おみくじ売り場の前でニイミさんが振り向き、身振り手振りでシグナルを送ってきた。その場で待っていて、と言っているらしい。
頷いて了解の意を示すと、ニイミさんは売り場に向き直った。それに続いて、財布を取り出しているらしい挙動を見せた。直後、タカツグの前を通過する人の数が急増したため、彼女の姿を目視できなくなった。
一時的にとはいえ、離れ離れになったのがいかにも不吉で、ニイミさんと再会できないのでは、という不安が萌した。心の底からその未来が現実と化すと思ったわけではなかったが、そのような発想を抱いたということ、それ自体が不吉で、好ましからざることに思える。
諸々の負の感情を振り払うために、二度と会えないと思ったとニイミさんに正直に打ち明けて、美しい笑顔で笑い飛ばしてほしかった。
しかし、今、タカツグの傍にニイミさんはいない。
待つ。それしかなかった。
程近くにある、神木を囲った白い縄の前まで移動し、元日には相応しくない陰鬱な息を吐いた。その直後だった。
「どこから来たの?」
手持無沙汰と沈黙の気まずさを同時に解消しようと目論んだらしく、引率の女性教師が話しかけてきた。
「大阪? 神戸? それとも京都? ……どこなのかな」
出し抜けの質問に、タカツグは回答を口にすることができない。質問内容は単純で、答える単語の数も少なくて済むが、予期せぬタイミングで話しかけられた時点で、彼は使い物にならなかった。通行人が途絶えた歩道の先を、形も色も大きさも様々な自動車が、排気ガスを置き土産に次から次へと走り去っていく。
女性教師は質問を重ねることも、沈黙を返した理由を問い質すこともない。タカツグは女性教師の隣に佇み、顔をコンビニエンスストアに向けているので、彼女が現在どのような表情をしているのかは把握していない。しかし、薄気味悪さ、あるいは恐れを覚えているのだろうと想像がつく。
この結果を受けて、彼女は今後、必要事項を伝える以外の機会にはタカツグに話しかけてこないはずだ。
人と話すのが苦手な彼にとって、それは確かな喜びだった。しかし、同時に、静かな悲しみでもある。
コンクリートで味気なく固められた道ではなく、その脇の砂利の上を歩く。一個一個の大きさは高が知れているが、奏でられる音の主張は決して弱くない。それに別種の音が混じったと思ったら、木々の枝葉がざわめく音だった。砂利の外側の土の地面から生えたそれらは、一本一本が樹齢百年を超えるかと思われるほど巨大だ。複数の種類の木が植わっているが、植物に疎いタカツグは松の木くらいしか名前が分からない。
やがて左手に駐車場が見えた。出入口の脇に設置された公衆トイレは、不潔そうなので利用したことは一度もないが、通り過ぎるたびに、薄汚い小便器に向かって尿を飛ばした過去があったような錯覚を覚える。右隣の便器には、薄黄色の吐瀉物が放置され、左隣では、両足を肩幅に開いたサラリーマンが男性器を執拗に上下に振って雫を切っている。徳島駅の、清潔とは言えないトイレのイメージを引きずっているものと思われるが、その徳島駅にも最近はめっきり足を運ばなくなった。
鳥居と同じ色の欄干が備わった短い橋からは、今にも枯渇しそうな川が流れる河原が見下ろせる。いつの日か家族四人で初詣に来た時、猿がいる、と姉が叫んだことがある。あの時に姉が言った猿とは、姉にしか通じない隠語のようなものだったのだろう、と今では思う。
「ねえ、おみくじ引いていこうよ」
賽銭を投じ、さあ帰ろうかと賽銭箱に背を向けた途端、ニイミさんがそう提案したので、タカツグは驚いた。一緒に初詣に行くという話が持ち上がってからというもの、彼女がおみくじを引きたいと口にしたことは一度もなかった。「引いていかない?」ではなく、「引いていこうよ」という言い回しを使った点からは、意志の強さが窺えた。
タカツグは気圧されたように首肯する。ニイミさんは「やった」と言って小さくガッツポーズするという、時折見せる子供らしい仕草で喜びを表明し、人混みを掻き分けておみくじ売り場へと向かう。砂利を踏む音が遠ざかっていく。
急ぎ足で後を追いながら、初詣が一家総出のイベントだった時代、姉が毎年のようにおみくじを引いていたことを思い出した。紙切れに綴られた忠告や励ましの言葉を熟読し、揚げ足を取っては自分一人で、あるいは母親を巻き込んで笑い転げていた。タカツグはそんな姉を、浅ましいと思いながら傍観していたが、浅ましいと思った対象は、姉の救いようがない性格だったのか、おみくじを買うという行為自体だったのか。
一歩目が遅れたのが仇となり、二人の間に大勢の初詣客が挟まり、すぐには追いつけない情勢となった。声を飛ばそうとすると、おみくじ売り場の前でニイミさんが振り向き、身振り手振りでシグナルを送ってきた。その場で待っていて、と言っているらしい。
頷いて了解の意を示すと、ニイミさんは売り場に向き直った。それに続いて、財布を取り出しているらしい挙動を見せた。直後、タカツグの前を通過する人の数が急増したため、彼女の姿を目視できなくなった。
一時的にとはいえ、離れ離れになったのがいかにも不吉で、ニイミさんと再会できないのでは、という不安が萌した。心の底からその未来が現実と化すと思ったわけではなかったが、そのような発想を抱いたということ、それ自体が不吉で、好ましからざることに思える。
諸々の負の感情を振り払うために、二度と会えないと思ったとニイミさんに正直に打ち明けて、美しい笑顔で笑い飛ばしてほしかった。
しかし、今、タカツグの傍にニイミさんはいない。
待つ。それしかなかった。
程近くにある、神木を囲った白い縄の前まで移動し、元日には相応しくない陰鬱な息を吐いた。その直後だった。
「どこから来たの?」
手持無沙汰と沈黙の気まずさを同時に解消しようと目論んだらしく、引率の女性教師が話しかけてきた。
「大阪? 神戸? それとも京都? ……どこなのかな」
出し抜けの質問に、タカツグは回答を口にすることができない。質問内容は単純で、答える単語の数も少なくて済むが、予期せぬタイミングで話しかけられた時点で、彼は使い物にならなかった。通行人が途絶えた歩道の先を、形も色も大きさも様々な自動車が、排気ガスを置き土産に次から次へと走り去っていく。
女性教師は質問を重ねることも、沈黙を返した理由を問い質すこともない。タカツグは女性教師の隣に佇み、顔をコンビニエンスストアに向けているので、彼女が現在どのような表情をしているのかは把握していない。しかし、薄気味悪さ、あるいは恐れを覚えているのだろうと想像がつく。
この結果を受けて、彼女は今後、必要事項を伝える以外の機会にはタカツグに話しかけてこないはずだ。
人と話すのが苦手な彼にとって、それは確かな喜びだった。しかし、同時に、静かな悲しみでもある。
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