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塵芥
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うんうんと唸っているうちに、ペンを握っている現在を楽しめていない、ということに不意に気がつく。
これまで詩と向き合ってきた時間の中で、抽象的な思いを具体的な形にするにあたっての困難は、常に仄かな愉快さと抱き合わせだった。ゲームやスポーツなどで、対戦相手や対戦キャラクターが強敵だからこそ心が昂ぶるのと同様、壁を乗り越えた先に喜びが待ち受けているという根拠のない確信があり、その確信にアクセス可能な状態である限り、どんなに苦しくても困難に立ち向かうことができた。
しかし今回は、楽しさが微塵もない。喜びが待っているという確信を抱けない。
楽しさが皆無で、喜びが待っている確信を持てない現在の状態を、タカツグは便宜的に絶望と定義する。
片時も忘れられないほど好きな人なのに、なぜ?
自らに問いかけたが、答えは返ってこない。もう一人の自分も戸惑っているのだ。
それでもタカツグはペンを動かす。敬愛するシンガーソングライターへのメッセージを書き綴ることは断固としてやめない。
『……眠れないのです。奇跡的に眠れたとしても、夜中に必ず目覚めるし、目覚めるとその夜は二度と眠りに就くことができないのです。眠れないで悶々としていると、決まって、どこからか声が聞こえてくるのです。お前はこの世界に必要ない、という声が。耳を塞いでも、別のことを考えても、声の限り叫んでも、掻き消せないのです。お前はこの世界に必要ない、お前はこの世界に必要ない、お前はこの世界に必要ない――』
不意に外の様子が気になった。気のせいかと思って再びペンを動かしかけたが、気がかりな気持ちは確かに持続している。大いなる困難と格闘している間に、劇的ではないが、驚嘆するべき変化が世界に起きたような、そんな気がしてならない。
音楽を止めてイヤホンを外したが、断末魔の絶叫も、銃声も聞こえてこない。立ち上がって窓に向き直ったが、隕石が無数に降り注いでいるわけでも、空が血色に染まっているわけでもない。
コンビニ弁当の空容器を蹴飛ばしてベランダに出て、軽く身を乗り出して様子を窺う。南南東の方角、工事現場の脇には、ゴミ袋は一袋も置かれていない。東南の方角、電信柱の傍らには、既に十個ほど積み上げられている。
溜息を一つついて室内に引き返す。詰め込み過ぎて肥満したゴミ袋を両手に提げ、部屋を出る。ゴミ出しの時は常にそうするように、玄関ドアの鍵は閉めない。
『ゴミ、ここは出すところとは違うから。ちゃんと決められたところに出してね』
先週、いつもの集積場に燃えるゴミを出しに行った際に、隣接する建設現場の入口に佇んでいた警備員にそう注意された。
生活に関わる何らかの変更があった際には、エントランスホールの掲示板に貼り紙が貼り出されることになっている。しかし、ゴミの収集場所が変更になったという告知はされなかった。アパートを出入りする際に必ず通る場所ということもあり、欠かさず確認する習慣がついているから、見落としたわけではないはずだ。集積場の変更は、アパートで暮らす人間にとっては関係が深いが、アパートの外での話なので報せなかった。そう解釈してみたが、強引すぎる感は否めない。
旧集積場にゴミを置こうとした者に注意したのが建設現場の警備員というのも、よくよく考えてみれば妙だ。警備員に依頼し、注意をしてもらうようにしたのかもしれない、とも考えたが、的外れな推理だという気がする。そもそも、タカツグがあの日ゴミ袋を持っていったのは早朝だった。その日の工事はまだ始まっておらず、作業員は現場には不在だった。警備員が出勤しているのは不自然だ。
何かがおかしい。
されども、世界は何事もなく回っている。アパートの住人が出したと思われるゴミ袋は、旧時代とほぼ同じ分量、新しい集積場に積み上げられている。
おかしいのは、今回の問題に関してだけなのか。それとも、この町自体なのか。
結論が出るよりも先に、新しい集積場に到着した。ベランダから見た時と比べて、ゴミ袋の数がいくらか減っている気がする。重荷を投げ捨てて山と一体化させ、東北東へと伸びる道を進む。
「佐々木くん、本当にこの道でいいの?」
微かに不安そうな眼差しと共に、ニイミさんが問う。
「うん、合ってるよ。この道で大丈夫」
今何時かと尋ねられたから、左手首に巻かれた腕時計に目を落としてありのままの事実を告げるように、タカツグは答えた。
根拠があるわけではなかったが、こちらの道を進めば大学に辿り着ける、という確信を彼は抱いていた。無根拠に断言する後ろめたさや、根拠を見つけられない焦燥は、全く感じていなかった。もし間違っていた場合には何と言い訳しよう、などと考えることもない。好きな人と同じ大学に通えることが、こんなにも嬉しいことだなんて、こんなにも人を浮かれさせるだなんて、今まで知らなかった。
これまで詩と向き合ってきた時間の中で、抽象的な思いを具体的な形にするにあたっての困難は、常に仄かな愉快さと抱き合わせだった。ゲームやスポーツなどで、対戦相手や対戦キャラクターが強敵だからこそ心が昂ぶるのと同様、壁を乗り越えた先に喜びが待ち受けているという根拠のない確信があり、その確信にアクセス可能な状態である限り、どんなに苦しくても困難に立ち向かうことができた。
しかし今回は、楽しさが微塵もない。喜びが待っているという確信を抱けない。
楽しさが皆無で、喜びが待っている確信を持てない現在の状態を、タカツグは便宜的に絶望と定義する。
片時も忘れられないほど好きな人なのに、なぜ?
自らに問いかけたが、答えは返ってこない。もう一人の自分も戸惑っているのだ。
それでもタカツグはペンを動かす。敬愛するシンガーソングライターへのメッセージを書き綴ることは断固としてやめない。
『……眠れないのです。奇跡的に眠れたとしても、夜中に必ず目覚めるし、目覚めるとその夜は二度と眠りに就くことができないのです。眠れないで悶々としていると、決まって、どこからか声が聞こえてくるのです。お前はこの世界に必要ない、という声が。耳を塞いでも、別のことを考えても、声の限り叫んでも、掻き消せないのです。お前はこの世界に必要ない、お前はこの世界に必要ない、お前はこの世界に必要ない――』
不意に外の様子が気になった。気のせいかと思って再びペンを動かしかけたが、気がかりな気持ちは確かに持続している。大いなる困難と格闘している間に、劇的ではないが、驚嘆するべき変化が世界に起きたような、そんな気がしてならない。
音楽を止めてイヤホンを外したが、断末魔の絶叫も、銃声も聞こえてこない。立ち上がって窓に向き直ったが、隕石が無数に降り注いでいるわけでも、空が血色に染まっているわけでもない。
コンビニ弁当の空容器を蹴飛ばしてベランダに出て、軽く身を乗り出して様子を窺う。南南東の方角、工事現場の脇には、ゴミ袋は一袋も置かれていない。東南の方角、電信柱の傍らには、既に十個ほど積み上げられている。
溜息を一つついて室内に引き返す。詰め込み過ぎて肥満したゴミ袋を両手に提げ、部屋を出る。ゴミ出しの時は常にそうするように、玄関ドアの鍵は閉めない。
『ゴミ、ここは出すところとは違うから。ちゃんと決められたところに出してね』
先週、いつもの集積場に燃えるゴミを出しに行った際に、隣接する建設現場の入口に佇んでいた警備員にそう注意された。
生活に関わる何らかの変更があった際には、エントランスホールの掲示板に貼り紙が貼り出されることになっている。しかし、ゴミの収集場所が変更になったという告知はされなかった。アパートを出入りする際に必ず通る場所ということもあり、欠かさず確認する習慣がついているから、見落としたわけではないはずだ。集積場の変更は、アパートで暮らす人間にとっては関係が深いが、アパートの外での話なので報せなかった。そう解釈してみたが、強引すぎる感は否めない。
旧集積場にゴミを置こうとした者に注意したのが建設現場の警備員というのも、よくよく考えてみれば妙だ。警備員に依頼し、注意をしてもらうようにしたのかもしれない、とも考えたが、的外れな推理だという気がする。そもそも、タカツグがあの日ゴミ袋を持っていったのは早朝だった。その日の工事はまだ始まっておらず、作業員は現場には不在だった。警備員が出勤しているのは不自然だ。
何かがおかしい。
されども、世界は何事もなく回っている。アパートの住人が出したと思われるゴミ袋は、旧時代とほぼ同じ分量、新しい集積場に積み上げられている。
おかしいのは、今回の問題に関してだけなのか。それとも、この町自体なのか。
結論が出るよりも先に、新しい集積場に到着した。ベランダから見た時と比べて、ゴミ袋の数がいくらか減っている気がする。重荷を投げ捨てて山と一体化させ、東北東へと伸びる道を進む。
「佐々木くん、本当にこの道でいいの?」
微かに不安そうな眼差しと共に、ニイミさんが問う。
「うん、合ってるよ。この道で大丈夫」
今何時かと尋ねられたから、左手首に巻かれた腕時計に目を落としてありのままの事実を告げるように、タカツグは答えた。
根拠があるわけではなかったが、こちらの道を進めば大学に辿り着ける、という確信を彼は抱いていた。無根拠に断言する後ろめたさや、根拠を見つけられない焦燥は、全く感じていなかった。もし間違っていた場合には何と言い訳しよう、などと考えることもない。好きな人と同じ大学に通えることが、こんなにも嬉しいことだなんて、こんなにも人を浮かれさせるだなんて、今まで知らなかった。
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