破滅への道程

阿波野治

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片恋

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 久しぶりに腰を下ろした椅子は、予想していた以上に硬い座り心地だった。亀のように首を伸ばし、正円形にくり抜かれた窓から海中を窺う。海水は緑がかっていて、海面から差し込む光によって明るい。白黒の縞模様の魚とオレンジ色の魚がそれぞれ四・五匹ずつ、鰭を健気に動かしながらゆっくりと浮上していく。
 何があるのだろう、と視線を上げる。白っぽい粒のような、粉雪にも似た欠片が無数に降り注いでいて、人為的に撒かれた餌だと悟る。
 現在窓外にいるような魚が、界隈の海に棲息しているのは確かだが、水中観光船が海に出る時間に都合よく現れてくれるとは限らないため、餌でおびき寄せているのだ。大人たちはそれを承知の上で、魚たちが泳ぐ姿を眺めて楽しんでいるのだ。
 七歳にして知った事実に、タカツグは世界が微震するような感覚を覚えた。
 もっとも、失望の念は追随しなかった。魚たちが餌を食べるところを、もっと見てみたい。
 身を乗り出すと、硝子の表面と鼻先が接した。透明な障壁の先には冷たい海水が広がっているはずなのに、仄かに温かい。
 先頭の一匹が、餌の雨の下端に辿り着くのに前後して、餌の背後に歪な白い塊が浮かんでいるのをタカツグは認めた。魚ではないと一目で分かる巨大さだ。
 体の自由が利かないが、恐怖はない。泳げない自分の態度としては不自然だ。そう冷静に考えられること自体が異常だと頭の片隅で思ったが、その思いはパニックを誘発しない。ゆっくりと、しかし着実に沈んでいきながら、顔を持ち上げた。
 透明な中に、無数の細かな塵埃が混ざっているような水を介して、男と目が合った。監視塔の頂上に座した監視員の男性だ。
 目が合った瞬間を合図に、監視員の男性の一切合財が動き出そうとしている。タカツグが水中に沈んだのは見えていたが、溺れていると認識するまでにタイムラグがあったのだろう。
 当時の記憶は全くないが、無事に家に戻ってきているということは、あの場にいた誰かが保健室まで運んでくれたはずだ。タカツグとしては、真っ先に声をかけてくれた、あの女子生徒の働きだと思いたかった。
 あの場には男子生徒もいたし、女性ではあるが教師もいた。体格に優れた男性教師を呼んでくるという選択肢もある。女性生徒の顔は覚えていないが、女性であることを差し引いても華奢な体つきだった。
 以上の点を考慮すれば、件の女子生徒に運ばれた可能性は絶望的かもしれない。それでもタカツグは、彼女に運ばれたのだと信じたかった。
 これは、とタカツグは思う。恋だ。僕は恋をしているのだ。
 ふとした瞬間に、恋をしている人のことを思い出す。FMラジオでJポップを聴いていると、そのような意味の歌詞の楽曲に頻々と遭遇するが、タカツグは共感できない。その人の存在が常に胸裏に留まり続け、ひとときも忘れる瞬間がない。それが彼にとっての恋だった。
 手紙を書こう。出すか出さないかの問題は先送りにして、とにもかくにも、彼女に対する想いを紙にしたためよう。
 タカツグは不登校時代に聴き始めた、海外でも活躍する日本人女性シンガーソングライターの影響を受けて、ノートに断片的な詩を綴る習慣を持つようになっていた。内容は、その女性シンガーソングライターが紡ぐ歌詞の極めて劣悪なコピーに過ぎなかったが、その影響下から飛び立つ時が来たのだ。
 書き物をする際には必ずするように、女性シンガーソングライターの曲を流す。ノートを開き、ペンを握ったものの、書き出しが決まらない。片想い相手に送る手紙なのだから、彼女への想いを綴ればいい。そう理解してはいるのだが、どのような単語を、どのような言い回しを選べばいいのか。
 やっとのことで、これかな、と思うものを見つけ、書き込んだ途端、これは違う、という思いが急激に強まり、消しゴムをかけることになる。消した後は、より慎重に言葉を選ぶのだが、いざ紙に記すと、改悪された表現に感じられて、またもや消しゴムの出番と相成る。
 書いては消し、書いては消し、ということが繰り返された。煌びやかな宝石のようにも思えた、愛を賛美する歌詞が、伸びやかな声が、次第に陳腐でつまらないものに感じられてきた。オリジナルの詩を書いている際に、単語選びや作品をまとめるのに苦労したことは何度もあるが、スタートを切って早々に躓き、首を傾げながらスタート地点まで引き返し、再び走り出した直後に躓く、ということが延々と繰り返されるのは、今回が初めてだ。
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