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虚無
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「遅いね」
「ごめん。ちょっと友達に捕まって、話に付き合わされていたから」
「いや、アリオカの話」
「……ああ。そう言えばそうだね。アリオカ先生、時間にはきっちりしている方なんだけど」
ニイミさんはノートの上にペンを走らせ始めた。イラストだ。何を描いているのかを突き止めるよりも先に、アリオカが教室に入ってきた。
「この世界の本質は虚無です」
教壇に立ったアリオカは、出欠も取らずに、受講生に向かって語り始めた。
「その真実を認めずに、開き直って何らかの意味ある行為に励むか、真実だと認めて、絶望して虚無と同化するか、二つに一つなのです。前者を選んだとしても、最終的には虚無と同化することからも、この世界の本質が虚無であることが分かりますね。みなさんはこれから、意味があるとされる知識や無意味に思える知識など、様々な知識を得ていくわけですが、情報を溜め込む器がいつか必ず崩壊するという意味で、全て無意味な知識に他なりません。それでもみなさんは大学で学び続けますか。私の話を聞いて、大学で学ぶことに意味を見出せなくなった方は、どうぞ今すぐお辞めなさい。私はみなさんを引き留めません。しかし、無意味さを理由に辞めたところで、意味に出会うことは絶対にありませんよ。なぜならば、この世界の本質は虚無なのですから」
「意味不明。アリオカ、頭おかしいんじゃないの」
心底どうでもよさそうにニイミさんは呟いた。
直後、タカツグはノートに描かれているものの正体を悟った。ミッキーマウスだ。彼女が描くミッキーマウスの目は据わっていて、全裸で、股間から男性器がピサの斜塔の角度で突き出している。
アリオカは、この世界の本質が虚無であることについて語り続けている。
タカツグはこの世界についてよりも、ニイミさんのことが気がかりだった。大学に入学して以来、言葉遣いが乱暴になったし、タカツグと行動を共にすることが少なくなった。
社交的な人だから、共に過ごす時間が減るのではないかという危惧は、入学前から抱いていた。一方で、環境の変化の影響を多少なりとも受けるかもしれないが、関係が根幹から揺らぐことはない、と高を括ってもいた。
懸念は今や現実と化しつつあった。浮気という、フィクションの世界でしか接したことがない二文字を、タカツグは最近、何かにつけて思い浮かべてしまう。
隣に座る男の苦悩など知る由もないニイミさんは、ミッキーマウスの耳を黒く塗り潰している。ペンの動きは軽快だ。唇は今にも歌を口ずさみそうな形をしている。
ニイミさんに新しく恋人ができるとすれば、きっと容姿端麗な男なのだろう。僕なんて足元にも及ばないくらいの。
未来のことを想像すると、腹の底からタールのようなどす黒い感情が込み上げてきて、思わず叫び出しそうになる。
しかし幸いにも、本日のニイミさんは、タカツグの精神を安定させるものを創造している。
ミッキーマウス。全裸で、目が据わっていて、男性器を屹立させた、ミッキーマウスではないミッキーマウスを。
ニイミさんはきっと、このイラストを僕以外の誰にも見せない。狂ったキャラクターのイラストを新たに描いて、それが誰かの目に入ることはあるかもしれないが、過去のイラストをわざわざ誰かに見せることはない。絶対にない。
僕は特別な存在なのだ。いつか必ず消える運命にあるけれど、それでも特別な存在なのだ。
「要するに、私たちは虚無と同化する以前から虚無なのであって――」
室内で発生していた音声の一切が消滅した。クラスメイト一同と椎野先生が一斉にタカツグに注目する。瞳から放射された不可視の光線が突き刺さり、身動きが取れなくなる。
世界が終わる前触れのような沈黙の中、気泡が生じるように、席に着かなければ、という考えが浮かんだ。しかし、ほぼ二か月の間学校に来なかったタカツグは、自分の席がどこにあるかが分からなかった。学校の方針なのか、椎野先生の方針なのか、彼のクラスでは一か月に一回席替えが行われる。従って、タカツグの机は、彼が記憶しているのとは別の場所にあるはずだ。
転校生が来たという話は聞いたことがないから――いや、転校生が来ていたとしても、教室には少なくとも一つ以上の空席が存在し、そのいずれかがタカツグの席のはずだ。
探せば絶対に見つかるはずなのだが、プレッシャーに押し潰されて、首を動かすことさえもままならない。
「佐々木、座りなさい」
椎野先生が冷ややかな声で命じる。タカツグはここで漸く、教室を見回すだけの気力を回復した。空席は一つしかなかった。
「席はあそこだから、早く着席」
その情報を最初に教えてくれればよかったのに。腹立たしいというよりは寂しい気持ちで、自席へと移動を開始する。教室にいる全ての人間から、一挙手一投足を注視されているのをひしひしと感じる。
椎野先生が最初からそう言ってくれれば、速やかに席に着けて、過度に注目を浴びることもなかったのに。寂しさは怒りへと変じたが、表に出す勇気も気力もなく、露わにする局面でもない。
「ごめん。ちょっと友達に捕まって、話に付き合わされていたから」
「いや、アリオカの話」
「……ああ。そう言えばそうだね。アリオカ先生、時間にはきっちりしている方なんだけど」
ニイミさんはノートの上にペンを走らせ始めた。イラストだ。何を描いているのかを突き止めるよりも先に、アリオカが教室に入ってきた。
「この世界の本質は虚無です」
教壇に立ったアリオカは、出欠も取らずに、受講生に向かって語り始めた。
「その真実を認めずに、開き直って何らかの意味ある行為に励むか、真実だと認めて、絶望して虚無と同化するか、二つに一つなのです。前者を選んだとしても、最終的には虚無と同化することからも、この世界の本質が虚無であることが分かりますね。みなさんはこれから、意味があるとされる知識や無意味に思える知識など、様々な知識を得ていくわけですが、情報を溜め込む器がいつか必ず崩壊するという意味で、全て無意味な知識に他なりません。それでもみなさんは大学で学び続けますか。私の話を聞いて、大学で学ぶことに意味を見出せなくなった方は、どうぞ今すぐお辞めなさい。私はみなさんを引き留めません。しかし、無意味さを理由に辞めたところで、意味に出会うことは絶対にありませんよ。なぜならば、この世界の本質は虚無なのですから」
「意味不明。アリオカ、頭おかしいんじゃないの」
心底どうでもよさそうにニイミさんは呟いた。
直後、タカツグはノートに描かれているものの正体を悟った。ミッキーマウスだ。彼女が描くミッキーマウスの目は据わっていて、全裸で、股間から男性器がピサの斜塔の角度で突き出している。
アリオカは、この世界の本質が虚無であることについて語り続けている。
タカツグはこの世界についてよりも、ニイミさんのことが気がかりだった。大学に入学して以来、言葉遣いが乱暴になったし、タカツグと行動を共にすることが少なくなった。
社交的な人だから、共に過ごす時間が減るのではないかという危惧は、入学前から抱いていた。一方で、環境の変化の影響を多少なりとも受けるかもしれないが、関係が根幹から揺らぐことはない、と高を括ってもいた。
懸念は今や現実と化しつつあった。浮気という、フィクションの世界でしか接したことがない二文字を、タカツグは最近、何かにつけて思い浮かべてしまう。
隣に座る男の苦悩など知る由もないニイミさんは、ミッキーマウスの耳を黒く塗り潰している。ペンの動きは軽快だ。唇は今にも歌を口ずさみそうな形をしている。
ニイミさんに新しく恋人ができるとすれば、きっと容姿端麗な男なのだろう。僕なんて足元にも及ばないくらいの。
未来のことを想像すると、腹の底からタールのようなどす黒い感情が込み上げてきて、思わず叫び出しそうになる。
しかし幸いにも、本日のニイミさんは、タカツグの精神を安定させるものを創造している。
ミッキーマウス。全裸で、目が据わっていて、男性器を屹立させた、ミッキーマウスではないミッキーマウスを。
ニイミさんはきっと、このイラストを僕以外の誰にも見せない。狂ったキャラクターのイラストを新たに描いて、それが誰かの目に入ることはあるかもしれないが、過去のイラストをわざわざ誰かに見せることはない。絶対にない。
僕は特別な存在なのだ。いつか必ず消える運命にあるけれど、それでも特別な存在なのだ。
「要するに、私たちは虚無と同化する以前から虚無なのであって――」
室内で発生していた音声の一切が消滅した。クラスメイト一同と椎野先生が一斉にタカツグに注目する。瞳から放射された不可視の光線が突き刺さり、身動きが取れなくなる。
世界が終わる前触れのような沈黙の中、気泡が生じるように、席に着かなければ、という考えが浮かんだ。しかし、ほぼ二か月の間学校に来なかったタカツグは、自分の席がどこにあるかが分からなかった。学校の方針なのか、椎野先生の方針なのか、彼のクラスでは一か月に一回席替えが行われる。従って、タカツグの机は、彼が記憶しているのとは別の場所にあるはずだ。
転校生が来たという話は聞いたことがないから――いや、転校生が来ていたとしても、教室には少なくとも一つ以上の空席が存在し、そのいずれかがタカツグの席のはずだ。
探せば絶対に見つかるはずなのだが、プレッシャーに押し潰されて、首を動かすことさえもままならない。
「佐々木、座りなさい」
椎野先生が冷ややかな声で命じる。タカツグはここで漸く、教室を見回すだけの気力を回復した。空席は一つしかなかった。
「席はあそこだから、早く着席」
その情報を最初に教えてくれればよかったのに。腹立たしいというよりは寂しい気持ちで、自席へと移動を開始する。教室にいる全ての人間から、一挙手一投足を注視されているのをひしひしと感じる。
椎野先生が最初からそう言ってくれれば、速やかに席に着けて、過度に注目を浴びることもなかったのに。寂しさは怒りへと変じたが、表に出す勇気も気力もなく、露わにする局面でもない。
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