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迷子
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五切れだったのか、四切れだったのか。五切れだったとすれば、胃袋の容量に勝るタカツグ、空腹のニイミさん、どちらが三切れ食べたのか。あるいは、互いにとっての三切れ目を半分に割り、平等に分け合ったのか。
今となっては定かではないが、とにもかくにもたまごサンドのパックが空になったのを機に、タカツグの方針は確固たるものになった。
夏祭り会場に戻ろう。
飲みながら帰るつもりだった、五百ミリリットル入りのミネラルウォーターのペットボトルは、回し飲みを繰り返すうちに空になった。タカツグは腰を上げ、銀色のゴミ箱にペットボトルを捨てようとすると、
「ああ、そこに捨てないで」
中年女性の声に呼び止められたので、思わず体が硬直した。視界の端に、コンビニエンスストアの制服を着た中年女性の迷惑顔が映った。
「そこはゴミを捨てるところじゃないからね。そこに捨てたら大変なことになるから」
頬が熱くなった。穴があったら入りたいという慣用句の使いどころを、身をもって知った恰好だ。
ゴミ箱なのに、なぜ捨ててはいけないだろう。
胸に浮かんだ疑念は、しかし一瞬で消滅し、正規の捨て場を求めて周囲を見回す。
しかし、両親はどこにもいない。
途方に暮れ、両足を投げ出してその場に座り込む。本来ならば腰を下ろすべきではない場所だと理解してはいたが、気力は既に限界を超えていた。
周囲を無数の人々が行き交う。おや、という風に歩を緩め、タカツグを凝視する者は一定の割合でいるが、誰もがすぐに視線を切って歩み去った。客が困り果てていることに気がついた従業員が飛んでくる、ということもない。老若男女で賑わう日曜日のテーマパーク内で、タカツグは一人ぼっちだった。
衣類を介して伝わってくるこの冷たさは、何なのだろう。父親と共にお化け屋敷に踏み込んだ十数分前の出来事が、遠い過去のことのように思える。
暗闇の中、蝋燭を模したライトを頼りに父子は進んだ。接近に応じて飛び出す悪鬼や物の怪の類は、屋敷を探索する人間には接触しないように厳密に計算されていた。道順も、暗さを加味しても惑わないように単純明快だった。出たい、出たいと、ライトを握り締めた手が多量の汗を分泌した。永遠に抜け出すことはできないのではないかと、抜け出せないでいる間は本気で震えた。紆余曲折の末に光の中に出て、救難信号は報われた。
暗闇を脱し、双眸に映る景色は変わったが、タカツグは未だに作り物の嘘の中にいる。嘘からの脱出方法が分からず、途方に暮れている。
両親と姉は今頃、僕がこの世界には存在していないかのように、テーマパークの外で仲良く買い物でもしているのだろう。そう思うと途方もなく寂しくなり、タカツグは泣いた。
涙という明確な救難信号を発することで、手を差し伸べてほしいという下心を掲げていることに、気がつかない彼ではなかった。浅ましいと思ったが、その感情が自分を情けなく思う気持ちへと変化し、それが要因となって涙の放出量が増す、という事態には発展しなかった。タカツグはひとまず、泣くという作業にしばし専心した。
案の定、救いの手は差し伸べられない。
万物は有限だ。九歳児の体内に蓄え得る水分など、高が知れている。溜め込んでいるものが尽きれば人格さえも変わる。
出口を探そう。
決然と立ち上がる。冷たさが尻から離別し、足を動かすだけの気力が戻ってきた。
出口は絶対に見つからない。頭の片隅で思いながらも、人混みの中を進む。見つかるとすれば、他人から与えられた時だけだろうが、それは所詮、口当たりのいい幻影に過ぎない。その幻影を弄する者さえも、この世界には存在しない。それこそが寂しさの正体だった。
かなり長い時間歩き回ったが、これだ、と思う教室には巡り会えない。
見過ごしてしまったのだろうか。あるいは、見つけられる可能性は最初から最後までないのだろうか。
それでも歩くことを止めないのは、いかなる理由からなのだろう。他にすることがないからか。あなたは教室を絶対に見つけられませんよと、この世界における神的な存在からまだ告げられていないからか。それとも――。
つべこべ考えている暇があるならば、歩こう。これ以上歩けなくなるくらい歩き疲れるまで。
校舎の外に出ると、校門を出てすぐの場所に建物が建っているのが見えた。全面スモークガラス張りで、立方体の二階建ての建物だ。
歩を進めると、小学校高学年と思われる男女が、教師に引率されて出入口から続々と出てきた。呆気に取られるほど夥しい数だ。全員が完全に外に出るまで待って、中に足を踏み入れる。
大理石の床の、果てが見通せないほど広い、高級ホテルのロビーを思わせる空間だ。書類を手に行き交う人、粗末な一人掛けのソファに座っている人、などの姿が確認できる。二十メートルほど進んだ場所にフロントカウンターがあり、左手には螺旋階段がある。少し迷って、螺旋階段を上る。
段差が尽きると、抜けるような蒼穹が視界に飛び込んできた。
今となっては定かではないが、とにもかくにもたまごサンドのパックが空になったのを機に、タカツグの方針は確固たるものになった。
夏祭り会場に戻ろう。
飲みながら帰るつもりだった、五百ミリリットル入りのミネラルウォーターのペットボトルは、回し飲みを繰り返すうちに空になった。タカツグは腰を上げ、銀色のゴミ箱にペットボトルを捨てようとすると、
「ああ、そこに捨てないで」
中年女性の声に呼び止められたので、思わず体が硬直した。視界の端に、コンビニエンスストアの制服を着た中年女性の迷惑顔が映った。
「そこはゴミを捨てるところじゃないからね。そこに捨てたら大変なことになるから」
頬が熱くなった。穴があったら入りたいという慣用句の使いどころを、身をもって知った恰好だ。
ゴミ箱なのに、なぜ捨ててはいけないだろう。
胸に浮かんだ疑念は、しかし一瞬で消滅し、正規の捨て場を求めて周囲を見回す。
しかし、両親はどこにもいない。
途方に暮れ、両足を投げ出してその場に座り込む。本来ならば腰を下ろすべきではない場所だと理解してはいたが、気力は既に限界を超えていた。
周囲を無数の人々が行き交う。おや、という風に歩を緩め、タカツグを凝視する者は一定の割合でいるが、誰もがすぐに視線を切って歩み去った。客が困り果てていることに気がついた従業員が飛んでくる、ということもない。老若男女で賑わう日曜日のテーマパーク内で、タカツグは一人ぼっちだった。
衣類を介して伝わってくるこの冷たさは、何なのだろう。父親と共にお化け屋敷に踏み込んだ十数分前の出来事が、遠い過去のことのように思える。
暗闇の中、蝋燭を模したライトを頼りに父子は進んだ。接近に応じて飛び出す悪鬼や物の怪の類は、屋敷を探索する人間には接触しないように厳密に計算されていた。道順も、暗さを加味しても惑わないように単純明快だった。出たい、出たいと、ライトを握り締めた手が多量の汗を分泌した。永遠に抜け出すことはできないのではないかと、抜け出せないでいる間は本気で震えた。紆余曲折の末に光の中に出て、救難信号は報われた。
暗闇を脱し、双眸に映る景色は変わったが、タカツグは未だに作り物の嘘の中にいる。嘘からの脱出方法が分からず、途方に暮れている。
両親と姉は今頃、僕がこの世界には存在していないかのように、テーマパークの外で仲良く買い物でもしているのだろう。そう思うと途方もなく寂しくなり、タカツグは泣いた。
涙という明確な救難信号を発することで、手を差し伸べてほしいという下心を掲げていることに、気がつかない彼ではなかった。浅ましいと思ったが、その感情が自分を情けなく思う気持ちへと変化し、それが要因となって涙の放出量が増す、という事態には発展しなかった。タカツグはひとまず、泣くという作業にしばし専心した。
案の定、救いの手は差し伸べられない。
万物は有限だ。九歳児の体内に蓄え得る水分など、高が知れている。溜め込んでいるものが尽きれば人格さえも変わる。
出口を探そう。
決然と立ち上がる。冷たさが尻から離別し、足を動かすだけの気力が戻ってきた。
出口は絶対に見つからない。頭の片隅で思いながらも、人混みの中を進む。見つかるとすれば、他人から与えられた時だけだろうが、それは所詮、口当たりのいい幻影に過ぎない。その幻影を弄する者さえも、この世界には存在しない。それこそが寂しさの正体だった。
かなり長い時間歩き回ったが、これだ、と思う教室には巡り会えない。
見過ごしてしまったのだろうか。あるいは、見つけられる可能性は最初から最後までないのだろうか。
それでも歩くことを止めないのは、いかなる理由からなのだろう。他にすることがないからか。あなたは教室を絶対に見つけられませんよと、この世界における神的な存在からまだ告げられていないからか。それとも――。
つべこべ考えている暇があるならば、歩こう。これ以上歩けなくなるくらい歩き疲れるまで。
校舎の外に出ると、校門を出てすぐの場所に建物が建っているのが見えた。全面スモークガラス張りで、立方体の二階建ての建物だ。
歩を進めると、小学校高学年と思われる男女が、教師に引率されて出入口から続々と出てきた。呆気に取られるほど夥しい数だ。全員が完全に外に出るまで待って、中に足を踏み入れる。
大理石の床の、果てが見通せないほど広い、高級ホテルのロビーを思わせる空間だ。書類を手に行き交う人、粗末な一人掛けのソファに座っている人、などの姿が確認できる。二十メートルほど進んだ場所にフロントカウンターがあり、左手には螺旋階段がある。少し迷って、螺旋階段を上る。
段差が尽きると、抜けるような蒼穹が視界に飛び込んできた。
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