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式典
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水道の栓を閉めた直後、ドアがノックされる音が聞こえてきた。右隣の部屋のドアだ。タカツグは息を殺して耳を欹てた。
音は途切れることなく続き、時折呼びかける声が混じる。決して大声ではないにもかかわらず、緊張を催すような切迫感を覚えるのは、BGMがノック音だからか。
タカツグは普段、アパートの住人とは極力交流を持たないようにしている。しかし、今回は話が別だという気がした。修理が終わるまで待たなければならない、という事情もある。
ドアスコープを覗いたが、隣室のドアの前までは見えない。覚悟を決めるしかない、という心境になった。長く息を吐いて最低限心を整え、ドアを開く。
隣室のドアを連打していたのは、若い女性だった。隣室に住んでいるのは、タカツグとは別の大学に通う女子大生だということを考えれば、十中八九隣人の友人だろう。細面で、顔立ちは端正な部類に入るが、紫がかったピンク色のブラウスがどこか古くさく、見た目年齢を引き上げている。
若い女性に免疫がないタカツグは、隣人の友人と思われる女性とコンタクトを取ることに躊躇いを覚えた。隣り合った部屋に住んでいるにもかかわらず、隣人の顔を思い出せない事実が追い打ちをかけ、その場に立ち尽くしてしまう。こうしているのは不自然だと頭では分かっているが、体が動いてくれない。
数秒のタイムラグを経て、隣室のドアが開いたことに漸く気がついたらしく、隣人の友人と思われる女性はノックするのをやめた。庭に迷い込んだ中型犬でも見るような顔で、タカツグの顔を凝視する。
「あの、不在なんじゃないですか。それだけノックをしても応答がないということは、多分出かけているんじゃないかと」
ノックの音がうるさいから、やめてほしい。そう暗に訴えているのだと、女性の顔つきを見れば一目瞭然だ。
己の悪意のない行為が、他人に迷惑をかけていた事実を思い知り、タカツグの体温はドアを連打している最中よりも上昇した。反比例するように、ニイミさんに固執することに対する熱は失われていく。
「そう、ですね。また出直します。ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
深くでも浅くでもなく頭を下げる。女性は会釈で応じてさっさと部屋に引っ込んだ。その部屋の前を通過すると、女性がつけていた香水の芳香が滞っていた。足を速め、階段を下りる。上った時よりも靴音が響く気がする。
考えてみれば、先程の女性はニイミさんの隣室に住んでいるのだから、ニイミさんが美貌の若い女性だという事実は、当然把握しているはずだ。ストーカーだと疑われたのではないかと思うと、体温はさらに上がり、頬に灼熱感さえ覚えた。
ゴミの収集日が記された紙が外れかかっている掲示板を通り過ぎ、アパートを後にする。
市道に向かって歩を進めると、パチンコ店の前に行列ができていた。何かの間違いかと思って携帯電話を確認すると、まだ朝の七時半を回ったばかりだ。みな厚着をしていて、明らかに屋外で一定時間過ごすことを念頭に置いている。暇潰しに携帯電話を弄ればいいのに、寒そうに足元を見下ろしているだけの者が多い。
二年か三年前に、家電量販店の新春初売りセールに父親と共に並んだことを思い出した。あの行列を構成していた人々は、赤の他人同士と思われる関係ながらも、ちょっとした世間話を自主的に交わすなどして、まだ人間的なところがあった。
「ゲームと同系統の中毒性があるのだろうけど――」
自分だけに聞こえる声でタカツグは呟く。
「ちょっと理解できないな」
冷ややかな気持ちで、しかし表情には出さずに、行列のすぐ脇を通過する。
横断歩道を渡り、コンビニエンスストアの自動ドアを潜る。サンドウィッチにしようと思ったが、高校生らしき数人の男女が問題の陳列棚の前で固まっていて、辿り着けない。ピーナッツクリームが挟まったロールパンと乳酸飲料を購入し、自転車を走らせて大学へ向かう。キャンパスが近づくにつれて、学生らしき若者の姿が増えていく。
駐輪場は早くもほぼ満車で、大学に在籍している学生の総数以上の自転車が駐輪されている気がしてならない。まごつく姿を人前で晒すのが嫌だから、自転車の置き場所を忘れないようにしようと心に誓うのだが、駐輪場を後にした時には、どこに停めたのかは早くも失念している。
案内表示や教員の指示に従って四肢や口舌を動かしているうちに、入学式が始まった。
不安と、緊張と、気怠さ未満の気怠さがタカツグの心身を支配していた。人が多くいるせいか、体育館の中は微かに臭っている。隣に気の置けない友人がいたとしても、共感を得られないかもしれないと危惧して胸に秘めておく程度の、ほんの微かな臭気だ。
女性校長は長々と喋り続けているが、内容は全く頭に入ってこない。盛んに口が動いているので、ありがたいお言葉を垂れているのだな、と認識できるのみだ。
式の終盤、突如として壇上に複数の和太鼓が用意された。そうかと思うと、十人ほどの法被姿の若い男女が袖から現れ、一心不乱に桴を振るい始めた。不愉快な音色ではないが、腹に響くほどの大音量だ。聞けば聞くほど、呑気に拝聴している場合ではない気がしてくる。
聴衆の困惑と演奏の熱気、二種類の空気が館内には観測できる。二つは水と油のごとく溶け合わない。
音は途切れることなく続き、時折呼びかける声が混じる。決して大声ではないにもかかわらず、緊張を催すような切迫感を覚えるのは、BGMがノック音だからか。
タカツグは普段、アパートの住人とは極力交流を持たないようにしている。しかし、今回は話が別だという気がした。修理が終わるまで待たなければならない、という事情もある。
ドアスコープを覗いたが、隣室のドアの前までは見えない。覚悟を決めるしかない、という心境になった。長く息を吐いて最低限心を整え、ドアを開く。
隣室のドアを連打していたのは、若い女性だった。隣室に住んでいるのは、タカツグとは別の大学に通う女子大生だということを考えれば、十中八九隣人の友人だろう。細面で、顔立ちは端正な部類に入るが、紫がかったピンク色のブラウスがどこか古くさく、見た目年齢を引き上げている。
若い女性に免疫がないタカツグは、隣人の友人と思われる女性とコンタクトを取ることに躊躇いを覚えた。隣り合った部屋に住んでいるにもかかわらず、隣人の顔を思い出せない事実が追い打ちをかけ、その場に立ち尽くしてしまう。こうしているのは不自然だと頭では分かっているが、体が動いてくれない。
数秒のタイムラグを経て、隣室のドアが開いたことに漸く気がついたらしく、隣人の友人と思われる女性はノックするのをやめた。庭に迷い込んだ中型犬でも見るような顔で、タカツグの顔を凝視する。
「あの、不在なんじゃないですか。それだけノックをしても応答がないということは、多分出かけているんじゃないかと」
ノックの音がうるさいから、やめてほしい。そう暗に訴えているのだと、女性の顔つきを見れば一目瞭然だ。
己の悪意のない行為が、他人に迷惑をかけていた事実を思い知り、タカツグの体温はドアを連打している最中よりも上昇した。反比例するように、ニイミさんに固執することに対する熱は失われていく。
「そう、ですね。また出直します。ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
深くでも浅くでもなく頭を下げる。女性は会釈で応じてさっさと部屋に引っ込んだ。その部屋の前を通過すると、女性がつけていた香水の芳香が滞っていた。足を速め、階段を下りる。上った時よりも靴音が響く気がする。
考えてみれば、先程の女性はニイミさんの隣室に住んでいるのだから、ニイミさんが美貌の若い女性だという事実は、当然把握しているはずだ。ストーカーだと疑われたのではないかと思うと、体温はさらに上がり、頬に灼熱感さえ覚えた。
ゴミの収集日が記された紙が外れかかっている掲示板を通り過ぎ、アパートを後にする。
市道に向かって歩を進めると、パチンコ店の前に行列ができていた。何かの間違いかと思って携帯電話を確認すると、まだ朝の七時半を回ったばかりだ。みな厚着をしていて、明らかに屋外で一定時間過ごすことを念頭に置いている。暇潰しに携帯電話を弄ればいいのに、寒そうに足元を見下ろしているだけの者が多い。
二年か三年前に、家電量販店の新春初売りセールに父親と共に並んだことを思い出した。あの行列を構成していた人々は、赤の他人同士と思われる関係ながらも、ちょっとした世間話を自主的に交わすなどして、まだ人間的なところがあった。
「ゲームと同系統の中毒性があるのだろうけど――」
自分だけに聞こえる声でタカツグは呟く。
「ちょっと理解できないな」
冷ややかな気持ちで、しかし表情には出さずに、行列のすぐ脇を通過する。
横断歩道を渡り、コンビニエンスストアの自動ドアを潜る。サンドウィッチにしようと思ったが、高校生らしき数人の男女が問題の陳列棚の前で固まっていて、辿り着けない。ピーナッツクリームが挟まったロールパンと乳酸飲料を購入し、自転車を走らせて大学へ向かう。キャンパスが近づくにつれて、学生らしき若者の姿が増えていく。
駐輪場は早くもほぼ満車で、大学に在籍している学生の総数以上の自転車が駐輪されている気がしてならない。まごつく姿を人前で晒すのが嫌だから、自転車の置き場所を忘れないようにしようと心に誓うのだが、駐輪場を後にした時には、どこに停めたのかは早くも失念している。
案内表示や教員の指示に従って四肢や口舌を動かしているうちに、入学式が始まった。
不安と、緊張と、気怠さ未満の気怠さがタカツグの心身を支配していた。人が多くいるせいか、体育館の中は微かに臭っている。隣に気の置けない友人がいたとしても、共感を得られないかもしれないと危惧して胸に秘めておく程度の、ほんの微かな臭気だ。
女性校長は長々と喋り続けているが、内容は全く頭に入ってこない。盛んに口が動いているので、ありがたいお言葉を垂れているのだな、と認識できるのみだ。
式の終盤、突如として壇上に複数の和太鼓が用意された。そうかと思うと、十人ほどの法被姿の若い男女が袖から現れ、一心不乱に桴を振るい始めた。不愉快な音色ではないが、腹に響くほどの大音量だ。聞けば聞くほど、呑気に拝聴している場合ではない気がしてくる。
聴衆の困惑と演奏の熱気、二種類の空気が館内には観測できる。二つは水と油のごとく溶け合わない。
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