破滅への道程

阿波野治

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転校

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「タカツグ」

 大人びた姉の声が呼ぶ。顔を上げると、上は水色のスポーツブラ一枚、下は膝丈の紺色のスカートという服装の姉が、しかつめらしい顔をしている。

「あんた、お姉ちゃんの部屋に入って、下着を勝手に見たでしょう」

 比喩でも誇張でもなく、心臓が止まるかと思った。
 タカツグは昨日、姉が指摘した通りの行動を起こしたばかりだった。
 転校先の公立高校で美術部に入部した姉は、帰宅時間が遅くなる日が増えた。不在の隙を衝いて、タカツグは姉の自室に侵入した。散乱するコミックにも、数千円が入った少女趣味の財布にも目もくれず、「火の用心」と記されたシールが側面に貼りつけられた箪笥に直行する。
 最上段の引き出しを恐る恐る開けると、いきなり目当ての物品が目に飛び込んできた。スポーツタイプのブラジャーだ。鼓動がさらに速くなった。姉は無防備とは言わないまでも、警戒心と羞恥心が薄く、下着姿を何回か見たことがあるので、そのタイプのブラジャーを常用していることは知っていた。藍色、水色、白色。寒色系を中心に取り揃えられている。
 一番上の一枚を取り出し、広げてみる。確かに、姉が常用しているものと同じ型だ。この時点で、股間は張り詰めていた。ブラジャーを鼻に近づけ、匂いを嗅いだ瞬間、軽い眩暈に襲われた。同じ洗濯用洗剤を使っているはずなのに、どうしてこうも匂いが甘いのだろう。
 然るべき部位に摩擦を加えたかったが、触った方の手で誤って下着に触れてしまい、臭いや粘液が付着しそうで怖い。しかし、秒刻みに昂ぶる感情を抑え込むことは難しく、膨らんだ股間を衣類越しにさする。
 行為を続けるうちに、下着の内側、乳首が触れる位置に舌を這わせたい、という欲求が芽生えた。実行に移せば、止まるまで突っ走るしかないのは理解していた。しかし、制御できない。
 下着を裏返そうとした矢先、インターフォンが鳴った。
 恐ろしいまでの静寂が姉の私室を満たした。
。考えてみれば当たり前だ。こんなにも早く姉が帰ってくるはずがない。
 ひとまず下着を引き出しに戻そうとして、畳み方が分からないことに気がつく。事態の深刻さを悟り、毛穴という毛穴から汗が噴き出した。
 引き出しに収納されている他の下着を参考にすれば、難を逃れられるかもしれない。ただ、玄関ドアの向こうで宅配業者の男性が待っている。背に腹は代えられない。

「じいちゃん。これ、悪いけど、クリーニングに出しておいて」

 祖父にブラジャーを手渡し、玄関へと走ってドアを開く。生徒一同の視線を一身に浴びながら、クラス担任の後ろについて教卓の脇まで移動する。
 促され、自己紹介を口にするまでの間は、我ながら少々長すぎた。些細な失敗を悔やむ気持ちが、声を微かに掠れさせた。

「佐々木タカツグです。よろしくお願いします」

 型通りの、それなりに温かみが感じられる拍手。宛がわれた席は、窓際の最後列だ。そこへ向かう途中、タカツグの両足はその場に釘づけになった。彼の前の席に、金髪の男子生徒が座っているのを認めたからだ。
 おいおい、漫画かよ。
 タカツグの心は瞬く間に暗澹たる色に塗り潰された。頭の中が真っ白になり、何も考えられない。
 無数の無個性な視線が突き刺さる。凍りついた体を無理矢理動かし、歩き出す。それが引き金になったとでも言うように、笑い出したくなった。顎が外れるような、空気が震えるような、涙が目頭に滲むような、狂気色に染まった呵々大笑を。
 決まり切っているのだ。分かれ道が多いものだから、人は誰しも、可能性は無限だと思い込むが、結局は一点に収斂する。両親についていくのを断固として拒み、祖父母宅に残る道を選んでいたとしても、きっと同じ結果に終わっていた。パッケージこそ異なっていたかもしれないが、同じカテゴリの災厄が降りかかっていたはずだ。
 どうにでもなれ。僕の人生なんて、僕の知ったことか。

「テンコーセー、名前は?」

 自席に着くと、金髪の男子生徒が振り向いて話かけてきた。さっき言ったばかりじゃないか。二重の意味でうんざりしながら、引きつった顔で再び名乗る。

「テンコー前はどこ中?」
「やっとった部活は?」
「何でテンコーしてきたん?」

 金髪の男子生徒は、詮索好きの初老の女性を思わせる執拗さで質問を重ねてくる。
 タカツグは律儀に一つ一つ答えていったが、不意に喋るのを止めた。面倒くささは話しかけられた瞬間から抱いていたが、それが積み重なって許容量を突破したのではない。唐突に凄まじく面倒くさくなり、何も喋りたくなくなったのだ。

「おい、テンコーセー。何で無視するんや」

 男子生徒の声が尖る。疲れちゃったよ。タカツグは力のない、他人から見れば癪に障るに違いない苦笑を口元に滲ませ、沈黙を継続する。
 クラスにおける金髪の男子生徒の地位を考えれば、今後の自分の立場が危うくなることは分かっていた。今からでも機嫌を取れば辛うじて延命が叶うことも、直感的に理解していた。
 しかし、沈黙。
 もう、疲れちゃったよ。
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