深淵の孤独

阿波野治

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湖畔の決戦①

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 待ち合わせ時間の二分前に待ち合わせ場所に到着した。
 北山司は先に来ていた。踊り子のブロンズ像を背に、何をするでもなく佇んで。
 黒のブラウス、ブルージーンズ、レディースのスニーカー。制服姿しか見たことがなかったため、スカートを穿いていない姿には違和感を禁じ得ない。普段からパンツスタイルを好むのか、登山をするから動きやすい服装を選んだのか。自主的に打ち明ける性格ではないし、訊くつもりもない。手荷物は、シンプルで色香に欠ける黒色のハンドバッグのみだ。

「北山さん、おはよう。待たせちゃったかな」

 約束の時間自体には間に合っているが、その台詞を第一声に選んだ。ドラマの登場人物の台詞みたいだな、と思う。

「そんなに待っていないから、平気。それじゃあ、行こうか」

 北山の返答もフィクションの登場人物のそれじみている。肩を並べて歩き出す。気がつかないふりをするのも今日で終わりなのだから、互いに好きな言葉を好きなだけ吐けばいい。
 五分ほどで県道に出て、土曜日に歩いたコースをなぞる。会話はない。北山が沈黙すると、何を考えているのだろう、何を企んでいるのだろうと、これまでは考えざるを得なかったが、現在の僕は随分と心にゆとりがある。
 やがて荻原団地に入った。若い男女が無言で山を目指す姿を奇異に思われるかもしれない、と危惧していたのだが、今日は人の姿は見かけない。

「この道を進めば湖に辿り着けるから」

 山に足を踏み入れる一歩手前で立ち止まり、北山は説明する。

「一本道だし、なだらかだから、楽に湖まで行けると思う。さあ、登りましょう」

 三秒ほどの無言の譲り合いを経て、北山を先頭にして登り始める。
 静謐とした空気に取り巻かれて初めて、僕は緊張と不安を感じ始めた。
 相手は凶器を隠し持っている可能性があるが、こちらも包丁をリュックサックに忍ばせているのだから、少なくとも一方的にやられはしない。体力と腕力はこちらに分があるのだから、むしろ僕の方が有利だ。注意を払うべきは不意打ちだが、三歩離れた後方から北山の一挙手一投足を監視している現状、そのおそれはない。
 安心材料を列挙したものの、安心には程遠い。
 全てが終わった瞬間以降でなければ、真の意味での安寧は訪れないのかもしれない。

「足、疲れてない?」
「休憩をとらなくても大丈夫?」

 時折思い出したように相手を労わる言葉を投げかけるだけで、基本的には黙して山道を登る。静けさは何かについて思案しなければならない空気を醸成するが、自らに不利益をもたらすだけのネガティブな思念に囚われることもなく、精神状態は比較的安定している。自らの性格とこれまでの経験を踏まえ、かつてないほど苦痛に満ちた時間が流れるに違いない、と戦々恐々していた僕からすれば、欣喜雀躍するべき期待外れだ。この僥倖が気の緩みに繋がり、文字通り致命的な失敗に至るのでは、という懸念もなくはなかったが、可能な限り神経を研ぎ澄ませることで可能性を殺した。

 何事もないまま湖に到着した。

「ここが湖。行き止まりだから、先へ行きたくてもこれ以上は行けない」
「大きいし、深いね。水質が綺麗だけど、それが逆に無気味っていうか」
「水際に近い場所でも深いから、かなり危険だよね。でも、死体を投げ込むのにはぴったり」

 死体。
 その一言で、僕たちを包む空気は緊迫の度合いを一気に強めた。北山の視線が湖面から僕へと移動する。

「疲れたから、とりあえず座りましょう。水分補給をしないと」

 三秒ほどの奇妙な間が挿入され、北山、僕の順番に腰を下ろす。汀から一メートルほど離れた地点で、僕たちの間にも同程度の距離が隔たっている。
 それぞれの鞄を地面に置き、飲み物を取り出して飲む。飲食している時の人間は無防備だ。隙を見せないように、北山を横目で窺いながらの摂取となる。警戒しているのは僕だけかと思いきや、北山も僕を横目に見ながらペットボトルの水を飲んでいる。
 殺人などという大それた真似をしおおせたと言っても、北山も所詮はただの人間だ。十四歳の女子だ。人並みの体格と体力を持った同学年の男子である僕を、暴力という手段では簡単には屈服させられないと、向こうだって分かっている。
 堂々としていろ。油断だけはするな。この勝負、絶対に僕が勝ってみせる。

 湖を眺めるだけの時間が流れる。空間の外縁が緩やかに溶けていき、時の流れが徐々に遅くなっていくような、形容しがたい独特の感覚が世界を支配している。
 緊迫感を孕んだ空気を肌に感じながら、隣に座る北山の動向に注意を払い続ける。鳥の鳴き声さえ聞こえてこない、未来永劫持続しそうな静寂の中、僕の方からそれを破ることは、破滅に直結する予感が根拠もなくして、相手が動くのをひたすら待ち受けた。

「楠部くん」

 北山の声が澄んだ空気を震わせた。痺れを切らして口を開いた、という感じではなかった。得も言われぬ嫌な予感を覚えながら、沈黙を打破した人物を直視する。

「リュックサックに入っている中で一番大きな荷物、私に見せてくれる?」

 ああ、来た。
 とうとう、来てしまった。
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