深淵の孤独

阿波野治

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湖①

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 北山が髪尾山へ行く日を土曜日に指定しなかったのは幸いだった。日曜日に行くことにすれば、土曜日を準備日として活用できる。
 複数の案を検討した結果、髪尾山まで下見に行くことにした。
 動機は我ながら不明確だ。せっかくの休日を頭部と一緒に部屋で過ごすのは嫌だ。息抜きをする意味も込めて、外出がしたい。しかし、これといった候補地が思い浮かばないから、実益を兼ねて髪尾山へ。そういうことなのかもしれない。未知の場所を既知の場所にしておくことで、不安材料を少しでも減らしておきたい。それもあっただろう。
 髪尾山と荻原団地の場所は、父親から借りた住宅地図で確認した。正確な所要時間は不明だが、徒歩二十分ほどだろうか。
 まだ見ぬ湖の底に、僕が所有している肉塊の片割れが沈んでいるのだと思うと、顔を歪めたり洟をすすったりせずに、ただ静かに頬に涙を伝わせたいような心境になる。ただ、今日のところは一人で足を運ぶのだと思えば、憂鬱な気分はある程度抑制できる。
 髪尾山の標高は高くない。動きやすい服装。履き慣れたスニーカー。それだけの装備で自宅を発った。午前十時半のことだ。

 特筆するべき点のない景色が続く道を、遅すぎず速すぎずの足取りで、目的地を目指して進む。歩行者も通行車両もさほど多くない。
 リュックサックに宮下紗弥加の頭部を入れ、夜道を歩いた日のことが思い出される。当時と比べると、状況が違い過ぎるので当然だが、現在のところ心は至って平静だ。ピクニック気分とは流石にいかないが、無闇やたらに気が急いて、頭が回らないくせに思案せずにはいられないような、追い詰められた精神状態からは掛け離れている。
 二十分ばかり歩くと荻原団地に着いた。メインストリートと思しい、七月に入ったにもかかわらず葉が乏しい街路樹が等間隔に植わった、定規で引いたような通りを道なりに進む。団地というと、似通った外観の住宅が密度高く軒を連ねているというイメージを持っていたが、個々の家には個性が感じられる。更地の割合は三分の一程度あまりで、空白が目立っている。
 足を踏み入れて早々、家庭菜園で作業をしている老爺を、しばらく歩くと、玄関先で掃き掃除をしている中年女性を、それぞれ見かけた。通行する人と車は見かけない。この時間帯、団地の住人はあまり出歩かないらしい。

 登山口は道の終点、家並みが尽きてすぐの場所にあった。看板や標識の類は設置されていないが、この道で間違いない。
 道はなだらかな上り坂になっている。死んだ葉の褐色と生きている雑草の緑色とで、湿り気を帯びた焦げ茶色の地面の露出面積は著しく限定されている。右方左方上方を見ても、目に飛び込んでくるのは幹と枝の褐色に葉の緑色と、同じ二色のみ。鮮やかな色の花を咲かせた植物が少なく、殺風景に感じられる。進めば進むほど木漏れ日の面積が狭くなっていき、鬱蒼とした、という形容が頻々と脳裏を掠めた。
 生き物の気配は感じない。ほーほー、ほほー、と鳴く例の鳥がいかにも棲んでいそうな環境だ。もっとも、あの特徴的な鳴き声も、それ以外の鳥の鳴き声も聞こえてこない。耳に入ってくるのは、落ち葉を踏む音、雑草の葉先が衣服に擦れる音。どこまでも褐色と緑色だ。やがて辿り着くはずの湖でさえ、その二色のみで構成されている気がしてくる。湖底に沈んだ宮下紗弥加の首なし死体が腐り、溶け出し、元は透明だった湖水をおぞましい茶褐色へと変貌させ、今となっては藻や苔の類が肩身狭そうに水際に僅かに生えているばかり。非現実的だという理性からの批判を承知の上で、そんな退廃的な情景を脳内に描いた。

 風景に対する新鮮味が一段落すると、厳粛な寂寥感が胸中における支配領域を伸ばし始めた。異界の入口に近づいている感覚、とでも言えばいいのか。いかにも死体を捨てに行くために通る道だ、という印象を受ける。
 九十度近い大きなカーブを曲がると、道は緩やかな下り坂へと転じた。立ち止まって上着の袖で額を拭い、再び歩き出す。
 行く手に淡く光るものがある。水面が木漏れ日を受けて煌めいているのだ。悟った瞬間、足は自ずと速まった。次第に勢力を強めていく雑草を掻き分けながら道を進む。

 視界が開けた。
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