深淵の孤独

阿波野治

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龍平・筧・谷口②

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 一瞬、心臓が止まった。
 再び打ち出した鼓動は、停止する前よりも明白にテンポが速い。尋ねたあと、谷口は返答を待つ目的で口を噤んでいたため、部屋の中は極めて静かで、自らの心音さえ明瞭に聞き取れた。

「あるいは、その悩みがあったせいで体調を損ねたとか。休んで、また学校に来るようになってからの楠部を見ていると、何か困ったことがあるような、問題を抱えているような……。何となくそんな感じがするから、ちょっと気になって」

 聡明さでは頭一つ抜けているが故に、僕や筧を冷笑的な目で見ることもある谷口だが、現在の彼の瞳にその色は微塵も浮かんでいない。
 僕が悩みを抱えていると、見抜いてくれたのだ。悩みを抱えている僕を、本気で心配してくれているのだ。透明度の高い高揚感が腹の底から込み上げ、目の奥が淡く熱を帯びる。

「筧って、俺らが真剣に何か言ってもすぐに茶化すだろ。だから、もし悩みとかがあるなら、俺が一番話しやすいんじゃないか? 自惚れるわけじゃないけど」

 階下からドアが開かれ、閉まる音が聞こえた。筧はどうやらトイレに入ったらしい。その認識が踏ん切りをつけるきっかけになった。

「悩みというか、不安って言うべきかもしれない。漠然とした不安」

 抱えている事情を打ち明けることに対する感情は、正も負も様々あったが、思い切ってそう切り出した。谷口は眉根と眉根の間を少し狭める。

「漠然とした不安……。もう少し具体的に言えないの?」
「それは、ちょっと難しい。一言で言うと、何が起こるか分からないことが不安だから、他人に説明するのは……」
「その『何が起こるか分からないことが不安』な状態になった経緯とか、事情とかを話すことも?」
「うん。それも含めてちょっと、っていう感じだから」

 気まずい沈黙が室内を満たす。谷口はかける言葉を探すような表情を見せているが、唇が開かれることはない。
 切断された少女の頭部を持ち帰ってしまった。殺人鬼からの返還要請を拒んだので、今後どんな目に遭わされるか分からない。そうストレートに告げる以外の方法で、僕が陥っている窮状をどう伝えればいいのだろう?
 答えが見つからないまま時が流れ、トイレのドアが開く音が階下から聞こえた。足音は洗面所を経由してキッチンへ向かう。帰室までには一分も要さないだろう。

「グッさん、何か、ごめん。せっかく心配してもらったのに、中途半端で」
「いや、俺が勝手にお節介を焼いただけだから」

 お節介。
 その単語の選択は言葉の綾のようなもので、僕を突き放す意図があったわけではない。そう理解しながらも、谷口との間に懸隔を感じた。僕が本当の意味での窮地に立たされた時に縋りついても、谷口は僕を救ってはくれない。そんな気がした。

「考えがまとまったら、メールで気軽に相談してくれ。とりあえず、楠部が悩みを持っていることは頭に入れておくよ」

 僕に言葉をかければかけるほど、谷口の声音は柔和さを深めていていく。しかし、距離を感じてしまった僕には、親切心からではなく、自己保身から出た言葉だとしか思えない。

「画面を見つめていると気分が悪くなる」と申告したからだろう、谷口は一緒にゲームで遊ぼうと誘ってはこない。筧がおかわりのジュースを手に部屋に戻ってくるまでの一分足らずは、酷く長く感じられ、居心地が悪かった。

「グッさん! 龍平! さっき思い出したんだけど」

 オレンジ味の液体で満たされたグラスを僕の前に置くなり、筧は僕と谷口の顔を交互に見ながら切り出した。

「新しいナイフを手に入れたんだ。見てくれよ」

 机の一番下の引き出しを開け、一振りのナイフを取り出す。ダガーナイフだ。柄は漆黒で、鈍色の刃は手首から指先にかけてよりも長い。

「どうよ、これ。刃渡りなんと二十センチだぜ、二十センチ。すげぇだろ」

 はしゃぐ筧の声音と手振りは、新しく買ってもらった玩具を自慢する幼児そのものだ。
 谷口に続き、僕も筧の傍まで歩み寄る。二人に、特に凶器の所持者の気持ちに水を差さないように、ナイフという単語を聞いた瞬間に抱いた、言い様のない不快感が顔に出ないように気を配りながら。
 谷口が頼りにならないから筧にすり寄る、ということなのだろうか? そうかもしれないし、そうではないかもしれない。考えてみるのも億劫だ。

「でかいだけあって威圧感があるよな。安物だから、切れ味はそんなによくないと思うけど」

 三人の男が形成する輪の中心で、筧はさながらタクトを一振りするかのごとく、凶器で虚空を薙ぎ払った。一瞬全身を緊張させた僕に筧が気づいていたとしたら、危険な色香が漂う笑みを口元に灯していたに違いない。
 筧が危険なものに関心を持っていることを僕が知ったのは、小学五年生の時のこと。三人で筧家に集まった際に、ゲームソフトを買うために貯めていた金で購入したのだと、自慢気に見せびらかされた。二つに分かれた柄を回転させると刃が飛び出す、いわゆるバタフライナイフだった。威圧感のある禍々しいフォルム、照明を浴びた刃の煌めき、きっさきの鋭利さ。臓腑を素手で鷲掴みされたような感覚に襲われたことを、今でも覚えている。

「ちょっと試してみるか」

 筧は机の上の消しゴムを掴み、鉛筆を削る時の角度でナイフの刃を入れた。その双眸は、庭に下り立った小鳥を狙う猫の瞳のように爛々と輝いている。谷口は筧の手元ぎりぎりまで顔を近づけ、眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
 僕は消しゴムから顔を背ける。
 手でちぎれるほど柔らかい物体なのだから、結果は分かり切っているではないか。
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