深淵の孤独

阿波野治

文字の大きさ
上 下
35 / 59

龍平・筧・谷口②

しおりを挟む
 一瞬、心臓が止まった。
 再び打ち出した鼓動は、停止する前よりも明白にテンポが速い。尋ねたあと、谷口は返答を待つ目的で口を噤んでいたため、部屋の中は極めて静かで、自らの心音さえ明瞭に聞き取れた。

「あるいは、その悩みがあったせいで体調を損ねたとか。休んで、また学校に来るようになってからの楠部を見ていると、何か困ったことがあるような、問題を抱えているような……。何となくそんな感じがするから、ちょっと気になって」

 聡明さでは頭一つ抜けているが故に、僕や筧を冷笑的な目で見ることもある谷口だが、現在の彼の瞳にその色は微塵も浮かんでいない。
 僕が悩みを抱えていると、見抜いてくれたのだ。悩みを抱えている僕を、本気で心配してくれているのだ。透明度の高い高揚感が腹の底から込み上げ、目の奥が淡く熱を帯びる。

「筧って、俺らが真剣に何か言ってもすぐに茶化すだろ。だから、もし悩みとかがあるなら、俺が一番話しやすいんじゃないか? 自惚れるわけじゃないけど」

 階下からドアが開かれ、閉まる音が聞こえた。筧はどうやらトイレに入ったらしい。その認識が踏ん切りをつけるきっかけになった。

「悩みというか、不安って言うべきかもしれない。漠然とした不安」

 抱えている事情を打ち明けることに対する感情は、正も負も様々あったが、思い切ってそう切り出した。谷口は眉根と眉根の間を少し狭める。

「漠然とした不安……。もう少し具体的に言えないの?」
「それは、ちょっと難しい。一言で言うと、何が起こるか分からないことが不安だから、他人に説明するのは……」
「その『何が起こるか分からないことが不安』な状態になった経緯とか、事情とかを話すことも?」
「うん。それも含めてちょっと、っていう感じだから」

 気まずい沈黙が室内を満たす。谷口はかける言葉を探すような表情を見せているが、唇が開かれることはない。
 切断された少女の頭部を持ち帰ってしまった。殺人鬼からの返還要請を拒んだので、今後どんな目に遭わされるか分からない。そうストレートに告げる以外の方法で、僕が陥っている窮状をどう伝えればいいのだろう?
 答えが見つからないまま時が流れ、トイレのドアが開く音が階下から聞こえた。足音は洗面所を経由してキッチンへ向かう。帰室までには一分も要さないだろう。

「グッさん、何か、ごめん。せっかく心配してもらったのに、中途半端で」
「いや、俺が勝手にお節介を焼いただけだから」

 お節介。
 その単語の選択は言葉の綾のようなもので、僕を突き放す意図があったわけではない。そう理解しながらも、谷口との間に懸隔を感じた。僕が本当の意味での窮地に立たされた時に縋りついても、谷口は僕を救ってはくれない。そんな気がした。

「考えがまとまったら、メールで気軽に相談してくれ。とりあえず、楠部が悩みを持っていることは頭に入れておくよ」

 僕に言葉をかければかけるほど、谷口の声音は柔和さを深めていていく。しかし、距離を感じてしまった僕には、親切心からではなく、自己保身から出た言葉だとしか思えない。

「画面を見つめていると気分が悪くなる」と申告したからだろう、谷口は一緒にゲームで遊ぼうと誘ってはこない。筧がおかわりのジュースを手に部屋に戻ってくるまでの一分足らずは、酷く長く感じられ、居心地が悪かった。

「グッさん! 龍平! さっき思い出したんだけど」

 オレンジ味の液体で満たされたグラスを僕の前に置くなり、筧は僕と谷口の顔を交互に見ながら切り出した。

「新しいナイフを手に入れたんだ。見てくれよ」

 机の一番下の引き出しを開け、一振りのナイフを取り出す。ダガーナイフだ。柄は漆黒で、鈍色の刃は手首から指先にかけてよりも長い。

「どうよ、これ。刃渡りなんと二十センチだぜ、二十センチ。すげぇだろ」

 はしゃぐ筧の声音と手振りは、新しく買ってもらった玩具を自慢する幼児そのものだ。
 谷口に続き、僕も筧の傍まで歩み寄る。二人に、特に凶器の所持者の気持ちに水を差さないように、ナイフという単語を聞いた瞬間に抱いた、言い様のない不快感が顔に出ないように気を配りながら。
 谷口が頼りにならないから筧にすり寄る、ということなのだろうか? そうかもしれないし、そうではないかもしれない。考えてみるのも億劫だ。

「でかいだけあって威圧感があるよな。安物だから、切れ味はそんなによくないと思うけど」

 三人の男が形成する輪の中心で、筧はさながらタクトを一振りするかのごとく、凶器で虚空を薙ぎ払った。一瞬全身を緊張させた僕に筧が気づいていたとしたら、危険な色香が漂う笑みを口元に灯していたに違いない。
 筧が危険なものに関心を持っていることを僕が知ったのは、小学五年生の時のこと。三人で筧家に集まった際に、ゲームソフトを買うために貯めていた金で購入したのだと、自慢気に見せびらかされた。二つに分かれた柄を回転させると刃が飛び出す、いわゆるバタフライナイフだった。威圧感のある禍々しいフォルム、照明を浴びた刃の煌めき、きっさきの鋭利さ。臓腑を素手で鷲掴みされたような感覚に襲われたことを、今でも覚えている。

「ちょっと試してみるか」

 筧は机の上の消しゴムを掴み、鉛筆を削る時の角度でナイフの刃を入れた。その双眸は、庭に下り立った小鳥を狙う猫の瞳のように爛々と輝いている。谷口は筧の手元ぎりぎりまで顔を近づけ、眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
 僕は消しゴムから顔を背ける。
 手でちぎれるほど柔らかい物体なのだから、結果は分かり切っているではないか。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【一話完結】3分で読める背筋の凍る怖い話

冬一こもる
ホラー
本当に怖いのはありそうな恐怖。日常に潜むあり得る恐怖。 読者の日常に不安の種を植え付けます。 きっといつか不安の花は開く。

意味がわかると下ネタにしかならない話

黒猫
ホラー
意味がわかると怖い話に影響されて作成した作品意味がわかると下ネタにしかならない話(ちなみに作者ががんばって考えているの更新遅れるっす)

短編ホラー集〜日常の中に潜む怖い話〜

もっちゃん
ホラー
日常に潜むホラー短編集。 どの物語でも、1話完結です。 一応、そんなにグロくはないと自負してますが念の為、R15にします。

【実体験アリ】怖い話まとめ

スキマ
ホラー
自身の体験や友人から聞いた怖い話のまとめになります。修学旅行後の怖い体験、お墓参り、出産前に起きた不思議な出来事、最近の怖い話など。個人や地域の特定を防ぐために名前や地名などを変更して紹介しています。

ホラー短編集

ショー・ケン
ホラー
ショートショート、掌編等はたくさん書いていますが短編集という形でまとめていなかったのでお試しにまとめてみようと思います。

(ほぼ)1分で読める怖い話

アタリメ部長
ホラー
ほぼ1分で読める怖い話! 【ホラー・ミステリーでTOP10入りありがとうございます!】 1分で読めないのもあるけどね 主人公はそれぞれ別という設定です フィクションの話やノンフィクションの話も…。 サクサク読めて楽しい!(矛盾してる) ⚠︎この物語で出てくる場所は実在する場所とは全く関係御座いません ⚠︎他の人の作品と酷似している場合はお知らせください

日報受取人

智天斗
ホラー
私はある会社で働く社員。 これは、ある男の日報。それをここに書き写します。毎日18時に届く謎の日報。嘘か誠か、それすらも分からない。 ある男が体験した不思議で少し不気味な話の数々。 これを書いた本人とは会ったことはないですが、彼はきっと今もどこかで日報を書いている。 僕はこの仕事を続ける、その日報が届き続ける限り。 短い話となりますのでサクッと見れます。良ければ読んでください。 日報が届き次第、こちらに記載を予定しております。 日報の文面についてこちらで解釈し、添削を加えております。一部表現につきまして、○○などで表現する場合がございます。ご了承ください。 ほぼ毎日18時投稿予定 短編として、登場人物の体験談を掲載しておりますのでよければ見てください。 フィクションです。それを承知の上ご堪能ください。

怪談短歌

牧田紗矢乃
ホラー
短歌のリズムで怖い話を書いてみました。 タイトルの通り一部ホラー的な要素を含みますので苦手な方はご注意ください。 ヤンデレ系(?)も多いです。 全話解説付き。 他のサイトでも公開しています。

処理中です...