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深淵なる夜④
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「ちょい待ち」
自動ドアを潜る寸前、莉奈は足を止めた。自由を確保している方の手で、傘立てと公衆電話の間のスペースを指す。手首を解放すると、莉奈は自らが指差した場所に店舗を背にして佇んだ。僕はその隣に移動する。
「どうした。入らないのか」
「その前に質問。コンビニなんかに来て、何がしたいの?」
「いや、だから、買いたいものがあるんだ」
「それは知ってる。でもお兄ちゃん、リュックサックを背負ってるよね。コンビニで買い物をするだけなのに、何でそんなものが必要なの?」
軽く狼狽してしまう。「中身を見せてもらわなくてもいい」という発言があった時点で、リュックサックにまつわる追及は終結したものと思っていたのだが……。
考えてはみたものの言い訳は思いつかず、焦りが徐々に膨張していく。それを食い止めるべく、心の声で繰り返す。
大丈夫。外から見てもリュックサックに頭部が入っていることが分からないのは、既に確認済みだ。臭いは発生していない。現時点で莉奈はリュックサックには触れていないし、触れさせないようにすることも難しくない。言い訳が苦しいものになったとしても、何とかなる。
「リュックサックを背負ってきた理由は、何となくだよ。気紛れってやつ。特にこれといった理由はないよ」
「は? 何それ」
「本当に何となくだから、これ以上訊かれてもそれ以上は答えられない。だから、そういうことにしておいてくれ」
我ながら強引だと思う。頭が変になったと疑われても文句は言えない、と覚悟した。
一方で、何となく手応えがあった。リュックサックを背負っている理由は何となくではないが、そちらの何となくは正真正銘の何となく。上手く説明できないが、とにかく手応えがあった。
莉奈は夜の闇に擬態するように沈黙し、眉間に皺を作って僕を睨んでいたが、やがて聞こえよがしに溜息をついた。
「分かった。言えないなら、そういうことでいいよ。じゃあ、コンビニで何を買おうとしていたの」
「鞄だよ」
「鞄? 何で?」
「鞄っていうか、袋っていうか、要するに体操着入れ。ほら、一昨日、体調悪くてトイレに籠もってただろ。その時に、吐いたものでちょっと汚れたから、買い換えたいなと思って。明日あるんだよ、体育の授業」
「……ああ、そうだったんだ。こんな時間に買いに行くのは、流石にどうかと思うけど」
「忘れていたんだよ。明日の朝に買ってもよかったんだけど、早めに済ませておきたかったから」
「ていうか、そのリュックサックじゃ駄目なの?」
「これだとでかすぎるだろ。体育があるたびに一々持って行ったり持って帰ったりするなんて、煩わしいよ」
間が生じた。言い分を、形だけでも信じてもらえるか否かの分かれ目だけに、緊張感は凄まじいものがある。
心配性な兄を穏やかに笑い飛ばすかのように、莉奈は表情を緩めた。
「わざわざ買わなくても、わたしのをあげる。体操着を入れるのにちょうどよさそうなサイズのを持ってるから」
「マジで?」
「うん、マジで。いる?」
「女子っぽくないデザインなら、もらおうかな」
「黒一色だから、むしろ男子向けかも」
「そっか。じゃあ、そうする」
「最初からわたしに言ってくれればよかったのに。お兄ちゃんのくせに、妹に心配かけさせないでよね」
僕の二の腕を軽く叩き、莉奈は相好を崩した。無理矢理作った笑顔ではないことは、日常的に彼女の喜怒哀楽と接している僕には一目で呑み込めた。
嘘をついて、納得させた。
僕の顔は微かに苦く歪む。ただし罪悪感はなく、むしろ安堵の念を覚えている。混じり気がないとは言えないが、とにもかくにも安堵の念を。
「しかし、危ないよな、莉奈も」
「え? 何が?」
「物騒な事件が多発しているのに、深夜に一人で出歩くことだよ。まあ、僕が言うのも何だけど。僕が家を出て行くのに気がついて、引き留めたかったんだったら、メールとか電話とかでもよかったのに」
「だって、ケータイ持ってるかどうか分からないし」
「外出時には欠かさず持ち歩くようにしてるよ。とりあえず連絡を入れてみて、不通だった場合は対応を考える、とかでもよかったんじゃないの」
「それは考えたよ。でも、やっぱり電話やメールじゃなくて、追いかけて引き留めた方がいいかな、と思って。窓越しに見たお兄ちゃん、何か雰囲気がいつもと違っていたから。言葉では上手く説明できないけど、とにかく、そうしなきゃって思ったの」
「……そっか」
心配してくれたんだな、お兄ちゃんのこと。
心の声が聞こえて、照れくさくなったとでもいうように、莉奈は髪の毛の先を指で盛んに触っている。
「気をつけろよ。行方不明になった女の子も、今日ハンマーで襲われた二人も小学生だから、莉奈はストライクゾーンに入ってるぜ」
「えー、大丈夫だよ。確か、最初の被害者が小学一年生で、今日襲われた子は二人とも二年生だったよね。わたし、来年から中学生だよ」
「だとしても、気をつけなきゃ駄目だぞ。頭がおかしい人間はどこにいて、何を企んでいるか分からないから」
「分かってる。今日はお兄ちゃんが出ていくのを見たから、特例中の特例。わたしだって、やばい人に殺されたくないし」
兄妹は微笑みを交わす。莉奈の笑顔からは屈託は読み取れない。その事実だけで、宮下紗弥加の頭部発見以降に味わった苦労の全てを許せる気がした。
自動ドアを潜る寸前、莉奈は足を止めた。自由を確保している方の手で、傘立てと公衆電話の間のスペースを指す。手首を解放すると、莉奈は自らが指差した場所に店舗を背にして佇んだ。僕はその隣に移動する。
「どうした。入らないのか」
「その前に質問。コンビニなんかに来て、何がしたいの?」
「いや、だから、買いたいものがあるんだ」
「それは知ってる。でもお兄ちゃん、リュックサックを背負ってるよね。コンビニで買い物をするだけなのに、何でそんなものが必要なの?」
軽く狼狽してしまう。「中身を見せてもらわなくてもいい」という発言があった時点で、リュックサックにまつわる追及は終結したものと思っていたのだが……。
考えてはみたものの言い訳は思いつかず、焦りが徐々に膨張していく。それを食い止めるべく、心の声で繰り返す。
大丈夫。外から見てもリュックサックに頭部が入っていることが分からないのは、既に確認済みだ。臭いは発生していない。現時点で莉奈はリュックサックには触れていないし、触れさせないようにすることも難しくない。言い訳が苦しいものになったとしても、何とかなる。
「リュックサックを背負ってきた理由は、何となくだよ。気紛れってやつ。特にこれといった理由はないよ」
「は? 何それ」
「本当に何となくだから、これ以上訊かれてもそれ以上は答えられない。だから、そういうことにしておいてくれ」
我ながら強引だと思う。頭が変になったと疑われても文句は言えない、と覚悟した。
一方で、何となく手応えがあった。リュックサックを背負っている理由は何となくではないが、そちらの何となくは正真正銘の何となく。上手く説明できないが、とにかく手応えがあった。
莉奈は夜の闇に擬態するように沈黙し、眉間に皺を作って僕を睨んでいたが、やがて聞こえよがしに溜息をついた。
「分かった。言えないなら、そういうことでいいよ。じゃあ、コンビニで何を買おうとしていたの」
「鞄だよ」
「鞄? 何で?」
「鞄っていうか、袋っていうか、要するに体操着入れ。ほら、一昨日、体調悪くてトイレに籠もってただろ。その時に、吐いたものでちょっと汚れたから、買い換えたいなと思って。明日あるんだよ、体育の授業」
「……ああ、そうだったんだ。こんな時間に買いに行くのは、流石にどうかと思うけど」
「忘れていたんだよ。明日の朝に買ってもよかったんだけど、早めに済ませておきたかったから」
「ていうか、そのリュックサックじゃ駄目なの?」
「これだとでかすぎるだろ。体育があるたびに一々持って行ったり持って帰ったりするなんて、煩わしいよ」
間が生じた。言い分を、形だけでも信じてもらえるか否かの分かれ目だけに、緊張感は凄まじいものがある。
心配性な兄を穏やかに笑い飛ばすかのように、莉奈は表情を緩めた。
「わざわざ買わなくても、わたしのをあげる。体操着を入れるのにちょうどよさそうなサイズのを持ってるから」
「マジで?」
「うん、マジで。いる?」
「女子っぽくないデザインなら、もらおうかな」
「黒一色だから、むしろ男子向けかも」
「そっか。じゃあ、そうする」
「最初からわたしに言ってくれればよかったのに。お兄ちゃんのくせに、妹に心配かけさせないでよね」
僕の二の腕を軽く叩き、莉奈は相好を崩した。無理矢理作った笑顔ではないことは、日常的に彼女の喜怒哀楽と接している僕には一目で呑み込めた。
嘘をついて、納得させた。
僕の顔は微かに苦く歪む。ただし罪悪感はなく、むしろ安堵の念を覚えている。混じり気がないとは言えないが、とにもかくにも安堵の念を。
「しかし、危ないよな、莉奈も」
「え? 何が?」
「物騒な事件が多発しているのに、深夜に一人で出歩くことだよ。まあ、僕が言うのも何だけど。僕が家を出て行くのに気がついて、引き留めたかったんだったら、メールとか電話とかでもよかったのに」
「だって、ケータイ持ってるかどうか分からないし」
「外出時には欠かさず持ち歩くようにしてるよ。とりあえず連絡を入れてみて、不通だった場合は対応を考える、とかでもよかったんじゃないの」
「それは考えたよ。でも、やっぱり電話やメールじゃなくて、追いかけて引き留めた方がいいかな、と思って。窓越しに見たお兄ちゃん、何か雰囲気がいつもと違っていたから。言葉では上手く説明できないけど、とにかく、そうしなきゃって思ったの」
「……そっか」
心配してくれたんだな、お兄ちゃんのこと。
心の声が聞こえて、照れくさくなったとでもいうように、莉奈は髪の毛の先を指で盛んに触っている。
「気をつけろよ。行方不明になった女の子も、今日ハンマーで襲われた二人も小学生だから、莉奈はストライクゾーンに入ってるぜ」
「えー、大丈夫だよ。確か、最初の被害者が小学一年生で、今日襲われた子は二人とも二年生だったよね。わたし、来年から中学生だよ」
「だとしても、気をつけなきゃ駄目だぞ。頭がおかしい人間はどこにいて、何を企んでいるか分からないから」
「分かってる。今日はお兄ちゃんが出ていくのを見たから、特例中の特例。わたしだって、やばい人に殺されたくないし」
兄妹は微笑みを交わす。莉奈の笑顔からは屈託は読み取れない。その事実だけで、宮下紗弥加の頭部発見以降に味わった苦労の全てを許せる気がした。
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