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しおりを挟むドクドクと激しく心臓が鼓動する。
痛いのも、つらいのも、寂しいのも耐えられる。だけど俺には、どうしたって耐えられないものがあった。
はじめてそれを体験したのはまだ幼い頃。
『雪路。泣かないで、大丈夫よ』
ーーーいやだ、母さん!!
逝かないで!!おれを、ひとりにしないで!!
消えていく命の灯火に、ガラガラと音を立てながら崩れ去る平穏を感じた。
(あの場に一緒にいたのは、俺だけなのに…)
最後まで、微かでも動いていた母さんの口元は覚えているのに、今際の際の言葉を俺は覚えていない。なんという親不孝か。
母さんと過ごした日々だけが最大の幸福だった。母さんの言葉を信じていれば、お父様達からの【愛】を受け入れることもできた…
そっと目を閉じて耳を塞げば、すぐ隣にある記憶の断片。
乾いた音、痛む頬。
部屋に響くお父様の怒号…。
『お前はどうしてこんなことも出来ない!?分からないんだ!?』
許してください、ごめんなさいっ!もうお父様の仕事を知りたいなんて言いません!興味なんて持ちませんからっ
ひっ!?やめて、やめてくださいっ、鞭だけは許して…っ、あぅ゛っ!!
『泣くな、逃げるな!!これはお前を矯正するための躾だぞ!』
……ひ、あ゛ぁ、!!
バシッ!!と何度も何度も鞭を浴びせられ、喉を裂くような叫び声と許しを求める声をひたすら上げた。
(ごめんなさい、許して、ごめんなさいっ!!)
どんなに痛くても怖くても、お父様が振り翳す鞭や腕から逃げちゃいけない。
俺のような存在が無視されず、躾を与えてもらえてるだけ感謝しなければ…
よけいにお父様を怒らせて、その手を煩わせてしまう…。
「今日はこのくらいでいいだろう。早く部屋を出ていけ」
許しを得た後は震える口で感謝を述べて痛む身体を引き摺りながら長い廊下をひたすら歩くのだ。
早く、小屋に戻りたい…。
『ねぇ見てあの古臭い着物』『また勘十郎様を怒らせたそうよ。他のご兄弟は立派な方々ばかりなのに…』
榊家の使用人達は誰も俺などと口を聞きたがらない。けれど自分達使用人よりもずっと見窄らしい俺の姿をヒソヒソと笑うのだ。
……そんな声に耐えて歩くしかないのも酷く惨めだった。
『雪路。また父さんから折檻されたのか?』
『じゅんじ、兄様…?』
『成り損ないに兄と呼ばれたくないなぁ…くくっ。お前の相手をしなきゃならん、高橋の次男も可哀想なもんだ』
『どうだ?ちゃんと役に立つか診てやろうか?』
すべては雪路のため――――と。
生まれた時から俺に男の矜持などない。
お兄様達の言う通り、男なのに子宮を持って生まれた成り損ないだ。
家督を継ぐことも許されず、妻を娶ることもできない。
(そうだ。俺には大事な役割がある…。全うしないと、何のために厳しく躾けられたのかも分からないじゃないか)
この身が主人の役に立つなら、喜んで差し出そう。
逃げることだけは許されない。
いつまでも鬼崎家には置いてもらえないんだから、目の前の幸せに溺れて怠慢になってはいけない…。
鬼崎家に来た翌朝。
俺が家の手伝いをしたいと申し出た時、真斗様は悩んだのか複雑そうな表情を浮かべたけど許可してくれた。
お優しい方だ。おおかた、”お前のその細い腕で大丈夫か?"と心配したに違いない。
だから、いっそう励もうと意気込んだ。
「ふふ、母さん。今日は使用人の田中さんが俺のこと褒めてくれたよ。いつも怠けなくて偉いってさ」
今日も一日、寝る前にあった出来事を母さんに報告する。
「田中さんはね気品があって穏やかなお兄さんって感じの方だよ。それで、真斗様と同じ年なんだって」
真斗様が24歳だってことも今日はじめて知った。
ほんと仮にも婚約者だってのに呆れちゃうよね、まだ半月とはいえ真斗様のことを何も知らなかったなんてさ。
「真斗様の好き嫌いとか色々知りたいなぁ。いつか機会があるといいのだけど、難しいと思う?」
母さんの簪をこんなに時間をかけて磨いたのはいつぶりだろ。簪についてる琥珀も喜んでいるのか、前よりずっとキラキラして見える。
「うん。この手拭いも綺麗だよね……」
白くて丈夫な、どこにも穴なんか空いてない真新しい手拭いだ。
これは火は扱うなと真斗様から注意された俺が、いつも水回りばかりやるもんだから田中さんがくれたものだった。
(素敵な方々ばかりに恵まれてしまった…)
真斗様だって俺が挨拶したら返事を返してくれるし、仕事から帰る時間も教えてくれる。
一緒に食べる温かい食事に日当たりのいい部屋、そして見るからにふかふかのベッド。
夢のような生活だけど……
堪らず、ふっと表情に影を落としてしまう。
根本的に違いすぎる。
この着物を脱げば一目でわかる、古傷だらけの汚い体。
いや、汚いなんて思っちゃダメだ。これは俺がどんな苦境でも強く生きれるよう躾けてもらった証なのだ…。
(あぁ!!だめだっ、モヤモヤしてないで座禅でも組んでしっかりしろ!!)
気を抜けば甘えようとする弱い自分を律するため座禅を組もうとしたとき、窓の外から機械音が聞こえた。
……車の音?こんな時間に?
窓を開いて見下ろせば、夜更けだというのに軍服に着替え車に乗り込む真斗様の姿があった。
外灯が照らす、凛々しい横顔に思わず息を呑んで、
【お前ごときが目上の人間を見上げるな、主人の隣を歩くな。】
ーー!
すぐお父様からの教えを思い出し、パッと窓から離れた。
「……っ」
あ、危ない…!もし目が合ったなら不敬と思われるところだった。
……軍のお仕事も大変なんだろうな。真斗様、なんだかいつもより険しそうな顔をされてたけど朝までには戻ってこられるのかな…?
『雪路』
……う゛ぅ~~~っ。
最近の俺は絶対おかしい。あの日の出来事を思い出すたびに耳のあたりが熱くなってしまうんだ。
(あぁ、……そうだった!)
すくっと立ち上がると箪笥の引き出しの奥、隠すように閉まっていた小さな包み紙を取り出した。
先日、真斗様が俺にくれた琥珀糖だ。
食べるのが勿体無くて大事にとっておいたけど、そろそろ食べないと本当に食べられなくなってしまう。
躊躇うようにそっと噛めば、口いっぱいに果物のような甘い味が広がった。
「……ふふ、あまいなぁ」
自然と溢れる笑み.
そして、
「、っ」
ツンと痛くなる鼻先をつまむ。
あ、ぁ、だめだ
泣くな
――――俺は、泣いちゃいけない。
いま挫いてしまったら、もう二度と立ち上がれなくなるような気がした。
「こっ…、こんこん狐のふるさとは~♪」
けれどいまだけは母さんの言いつけを言いたくなくて代わりに子守唄を歌う。
人の優しさも、簪や歌のように閉まっておければいいのに。
* * *
翌朝は、あまり眠れなかったせいかズキズキと響くような頭痛が酷かった。
顔色は……正直自分でも分からないから大丈夫だと思う。ちゃんと真っすぐ歩けるし、うん!大丈夫だ!
昨夜、真斗様は勤め先である軍部に呼ばれてから帰られなかったらしい。
今日の夕食までには戻る予定だと田中さんから聞いたあとは、鬼崎家に来てはじめて一人で朝食を食べた。
そして今日も仕事を分けてもらい、いつものように庭の掃き掃除や窓拭きを行う。
"役立たずに居場所などは与えられない"
鬼崎様の家にいたいなら榊にいたころの倍以上の努力して、少しでも己の価値をアピールしなければならない。
そう必死にもがく俺の姿は、さぞかし醜悪だったに違いない。
「家事をするな」
真斗様から夕食時に告げられた一言に 全身の血の気が引いていくのを感じた。
どうして、ですか…?
あっけなく崩壊していく感覚に、一瞬で目の前が真っ暗になった。
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