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6 人間サイド
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意識を失う間、ずっと彼の悲痛な叫びが聞こえていた。
(そんなに泣かなくていい。こんなのはただの風邪だ…)
情けないことに少々無理が祟ってしまったらしい。
"今日はもう帰って休め"と職場から追い返されてしまったように、こんなものは眠れば良くなる。大したことじゃない。
「君にそんな顔をさせるなんて…」
けれど口がうまく動かない。
体は重く、燃えるように熱い。
早くこの子を安心させなきゃならないのに…
"大丈夫。助けるから"
はっきりとそう聞こえた。
反射的に伸ばそうとした手を、振り払うように彼は動いた。
「ーーまっ、待ってくれ!!」
もっとその声を聞かせてほしい。
君の言葉が、なぜか通じた。
悲しそうな声は居た堪れないが、今なら色んなことが話せそうな気がする。
君の名前、君はどこから来たのか、どうしてこの海に辿り着いたのか…
どうか笑って聞いてほしい。
はじめて見たあの日から、俺は君に恋をしている、とー…
・ ・ ・
「ーーっ」
夢から目を覚ました男は愕然とした。
自分が二日間も眠っていたことより、意識を失う直前まで大きな水槽にいたはずの、なによりも大きな存在だった人魚がいなくなっていたのだ。
「あの子はどうした!?」
「申し訳ございません。医者を呼んだあとは旦那様の看病で精一杯になっておりまして…」
「なっ、誰も見ていなかったのか!?」
怒り狂う主人を前に使用人たちは困惑した。
彼らは倒れた主人の安否を心配するばかりで水槽にいた人魚には目もくれていなかった。
すると一人の使用人が手を挙げた。
「彼は、私が海へ戻しました」
「どうしてそんな勝手な真似をした…!?」
殴ってしまいたくなる気持ちを抑えて使用人にキツく詰め寄った。
主人である男が事情があって保護した異国の人魚だ。それを屋敷の使用人が許しもなく海に帰すなど、あってはならないことだろう。
「あの人魚は水槽に戻されるとき酷く抵抗をされました。それでも私はなんとか水槽に戻しましたが、海を恋しむように泣き喚き、はてには水槽に体をぶつける、鱗を剥ぐといった自傷行為にも及んだのです」
「なんだと…?」
「おそらくですが、旦那様が倒れたことを機会に海へ帰ろうとしていたのでしょう。あまりにも居た堪れない光景でしたので…」
これを。と、おそるおそる使用人から差し出された布をめくれば、中身は数枚のキラキラと輝く鱗だった。
「っ、彼の姿があまりにも不憫で海に戻してやったと?」
「……はい。さようでございます」
「……」
嘘だと言いそうになったが、人魚の彼は陸を歩けない。
さらにこんな痛々しい証拠を出されては…、とすっかり消沈してしまった。
触らなくても何度も見てきたのだから分かる。
何度も見てきた蒼く宝石のように輝くそれは、間違いなく彼の鱗だとーー…。
* * *
翌日、男の職場は騒然としていた。
数日ぶりに職場復帰した上司が早速猛スピードで仕事を片付け…、てくれるのはいい。ただその表情は仏頂面を通り越した、鬼人族も顔負けの剣幕でいるのだ。
(っ、くそっ…!)
既にいるはずがないと分かっていて人魚を帰したという海岸を確認しにいった。
自傷行為するほど俺から逃げたかったのか。
ニコニコと笑顔を振りまいていたのは、自分の本心を隠し、海へ帰る機会を窺っていたのか…。
(俺は、あの子の何を見て…っ)
人魚を独占しようとした罰が下ったのだ。
そして仕事が終われば未練がましく海岸へと足を向かわせる。
やり場のない不甲斐なさと人魚への恋しい感情を抱えたまま、辺りが真っ暗になるまで海を見て過ごした。
(やべぇ…さっきの報告書、ミスってるかも…)
(つか、なんであんなに不機嫌そうなん!?ちょっと前までご機嫌さんだったろ!?)
(もしかして噂の恋人に愛想尽かされたとか!?)
(うぁあぁあ!!恋人さぁあぁあん、許してあげてえぇぇ)
ミスひとつでも見つかれば殺気を向けられるんじゃないかと周りがビクビクしている最中、一人の若い部下が席を立った。
それは以前、男と共に人魚を捕獲した部下だった。
「あの、大丈夫っすか?病み上がりだってのに昼メシも食べてないじゃないっすか」
「あぁ。まったく問題ない」
うるさい、ほっておいてくれ。
とにかく仕事をしたかった。屋敷に帰ったところで空の水槽を見上げて過ごすだけなんだ。
「そんなに根詰めてたら風邪をぶり返しますよ?」
「……」
「もう!聞いてますか!?」
「……っ!?」
ムッとした部下に𠮟られてしまった。
その表情が少しだけ、あの子に似ていて固まってしまったなど重症すぎだろ。
「ほーら!ちょっとは外に出て休憩しますよ!」
「おい、腕を引っ張るなっ。まだ仕事が残って、」
「だ、大丈夫です!ここは気にせず、珈琲くらい飲んできてください!」
「取り急ぎの案件は俺らでもなんとかできますから!」
ここでようやく男も気づく。
黙々と仕事をしていただけのつもりが、無意識のうちにピリピリとした空気を作ってしまっていたことに。
ほら、行くっすよ~と、まるで首根っこを掴まれるように部下に連れられるがまま外へと出た。
「……らしくないっすね、どうかしたんすか?」
なんでも打ち明けてください、楽になりますよ。と気さくに笑う部下。
なにを自信満々に言うのか――…とは思ったが、己の情けない失態を誰かに呆れられる、もしくは笑ってもらいたかった。
「お前と保護した人魚の事を覚えているか?」
「あ~~~、あの異国の人魚くん?」
「………」
「………」
苦しそうに口籠る上司の顔を部下はただ見つめる。
肩を落とし、遠くの海を見るかのように瞳は揺らいでいるように見えた。
「……実は俺の失態で、」
「うちにいるっすよ?」
「………は?」
「だから、うちの風呂場にいます、彼」
のちに、この時の上司の様子を語る部下は笑う。
『いやー、あの人ってちゃんと人の子だったんすね』、と。
(そんなに泣かなくていい。こんなのはただの風邪だ…)
情けないことに少々無理が祟ってしまったらしい。
"今日はもう帰って休め"と職場から追い返されてしまったように、こんなものは眠れば良くなる。大したことじゃない。
「君にそんな顔をさせるなんて…」
けれど口がうまく動かない。
体は重く、燃えるように熱い。
早くこの子を安心させなきゃならないのに…
"大丈夫。助けるから"
はっきりとそう聞こえた。
反射的に伸ばそうとした手を、振り払うように彼は動いた。
「ーーまっ、待ってくれ!!」
もっとその声を聞かせてほしい。
君の言葉が、なぜか通じた。
悲しそうな声は居た堪れないが、今なら色んなことが話せそうな気がする。
君の名前、君はどこから来たのか、どうしてこの海に辿り着いたのか…
どうか笑って聞いてほしい。
はじめて見たあの日から、俺は君に恋をしている、とー…
・ ・ ・
「ーーっ」
夢から目を覚ました男は愕然とした。
自分が二日間も眠っていたことより、意識を失う直前まで大きな水槽にいたはずの、なによりも大きな存在だった人魚がいなくなっていたのだ。
「あの子はどうした!?」
「申し訳ございません。医者を呼んだあとは旦那様の看病で精一杯になっておりまして…」
「なっ、誰も見ていなかったのか!?」
怒り狂う主人を前に使用人たちは困惑した。
彼らは倒れた主人の安否を心配するばかりで水槽にいた人魚には目もくれていなかった。
すると一人の使用人が手を挙げた。
「彼は、私が海へ戻しました」
「どうしてそんな勝手な真似をした…!?」
殴ってしまいたくなる気持ちを抑えて使用人にキツく詰め寄った。
主人である男が事情があって保護した異国の人魚だ。それを屋敷の使用人が許しもなく海に帰すなど、あってはならないことだろう。
「あの人魚は水槽に戻されるとき酷く抵抗をされました。それでも私はなんとか水槽に戻しましたが、海を恋しむように泣き喚き、はてには水槽に体をぶつける、鱗を剥ぐといった自傷行為にも及んだのです」
「なんだと…?」
「おそらくですが、旦那様が倒れたことを機会に海へ帰ろうとしていたのでしょう。あまりにも居た堪れない光景でしたので…」
これを。と、おそるおそる使用人から差し出された布をめくれば、中身は数枚のキラキラと輝く鱗だった。
「っ、彼の姿があまりにも不憫で海に戻してやったと?」
「……はい。さようでございます」
「……」
嘘だと言いそうになったが、人魚の彼は陸を歩けない。
さらにこんな痛々しい証拠を出されては…、とすっかり消沈してしまった。
触らなくても何度も見てきたのだから分かる。
何度も見てきた蒼く宝石のように輝くそれは、間違いなく彼の鱗だとーー…。
* * *
翌日、男の職場は騒然としていた。
数日ぶりに職場復帰した上司が早速猛スピードで仕事を片付け…、てくれるのはいい。ただその表情は仏頂面を通り越した、鬼人族も顔負けの剣幕でいるのだ。
(っ、くそっ…!)
既にいるはずがないと分かっていて人魚を帰したという海岸を確認しにいった。
自傷行為するほど俺から逃げたかったのか。
ニコニコと笑顔を振りまいていたのは、自分の本心を隠し、海へ帰る機会を窺っていたのか…。
(俺は、あの子の何を見て…っ)
人魚を独占しようとした罰が下ったのだ。
そして仕事が終われば未練がましく海岸へと足を向かわせる。
やり場のない不甲斐なさと人魚への恋しい感情を抱えたまま、辺りが真っ暗になるまで海を見て過ごした。
(やべぇ…さっきの報告書、ミスってるかも…)
(つか、なんであんなに不機嫌そうなん!?ちょっと前までご機嫌さんだったろ!?)
(もしかして噂の恋人に愛想尽かされたとか!?)
(うぁあぁあ!!恋人さぁあぁあん、許してあげてえぇぇ)
ミスひとつでも見つかれば殺気を向けられるんじゃないかと周りがビクビクしている最中、一人の若い部下が席を立った。
それは以前、男と共に人魚を捕獲した部下だった。
「あの、大丈夫っすか?病み上がりだってのに昼メシも食べてないじゃないっすか」
「あぁ。まったく問題ない」
うるさい、ほっておいてくれ。
とにかく仕事をしたかった。屋敷に帰ったところで空の水槽を見上げて過ごすだけなんだ。
「そんなに根詰めてたら風邪をぶり返しますよ?」
「……」
「もう!聞いてますか!?」
「……っ!?」
ムッとした部下に𠮟られてしまった。
その表情が少しだけ、あの子に似ていて固まってしまったなど重症すぎだろ。
「ほーら!ちょっとは外に出て休憩しますよ!」
「おい、腕を引っ張るなっ。まだ仕事が残って、」
「だ、大丈夫です!ここは気にせず、珈琲くらい飲んできてください!」
「取り急ぎの案件は俺らでもなんとかできますから!」
ここでようやく男も気づく。
黙々と仕事をしていただけのつもりが、無意識のうちにピリピリとした空気を作ってしまっていたことに。
ほら、行くっすよ~と、まるで首根っこを掴まれるように部下に連れられるがまま外へと出た。
「……らしくないっすね、どうかしたんすか?」
なんでも打ち明けてください、楽になりますよ。と気さくに笑う部下。
なにを自信満々に言うのか――…とは思ったが、己の情けない失態を誰かに呆れられる、もしくは笑ってもらいたかった。
「お前と保護した人魚の事を覚えているか?」
「あ~~~、あの異国の人魚くん?」
「………」
「………」
苦しそうに口籠る上司の顔を部下はただ見つめる。
肩を落とし、遠くの海を見るかのように瞳は揺らいでいるように見えた。
「……実は俺の失態で、」
「うちにいるっすよ?」
「………は?」
「だから、うちの風呂場にいます、彼」
のちに、この時の上司の様子を語る部下は笑う。
『いやー、あの人ってちゃんと人の子だったんすね』、と。
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