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夕桜の邂逅㈠
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己は罪を犯したのか――否。
彼は不義を働いたのか――否。
誰にも落ち度はないはず。
それなのに何故、視線を逸らし、背を見せてしまったのだろう。
(穂花っ――……!)
伸ばされた腕、悲痛な表情が、茜に焼きついて頭を離れない。
まるで咎人になったよう。我が身が可愛いばかりに、なりふり構わず他者の情を踏みにじる。
体よく逃げおおせたところで、罪悪感に呼吸を奪われるだけだというのに。
滲み、焦点の合わなくなった視界では、逃げ道を映すことすら叶わなくなる。
がむしゃらに四肢を突き動かした穂花は、肉体的にも精神的にも、限界を迎えようとしていた。
「鬼ごっこか」
不意の草笛は、斜向かいの木陰より奏でられたもの。
「わたしもご一緒させてくださいまし」
細まる紅玉は、黄昏時の陽だまり。
さやさやとそよぐ木の葉の影より、そ……と手のひらが差し伸べられる。
「おいでませ」
張り詰めた風船は、とうとう破裂する。
「……べにぃっ……!」
深く考えることもなく、夕照へ身を投げ打った。
重力に忠実な身体を、優しく、それでいて力強く抱きとめられる。
細腕のぬくもりが、安堵の嗚咽をもたらした。
「っ……ふ、ぅうっ……!」
「嗚呼、そんなに泣かれては、瞳が溶けてしまう……わたしのかわいいひとを苛めるのは、とても悪い鬼のようですな」
――ちがう、ちがうの。そうじゃないの。
真知は悪くないのだと伝えたくとも、嗚咽に阻まれ、喉がひゅうひゅうと鳴るばかり。
「ご安心なされませ。お傍には、この紅がおります」
蜂蜜漬けにするかのごとく、際限なく甘やかす。
豹変した真知をよそに、紅は平生と変わらぬ様子であった。なにを問うわけでもなく、穂花の背をあやすのみ。
ぬくもりにひとたび身を預けるだけで、ささくれ立った心の凪ぐのがわかる。
抱きしめられ、この上なく安堵している自分がたしかにいる。どうしてないがしろにできようか。
「紅を……悪く言われたの」
憤りというよりは、衝撃。そして落胆。
心を赦しきっていた真知本人の人格を厭うことだけは、ついぞできはしなかった。
「細君は、わたしのことで傷ついておられると」
「そう……なるのかな。哀しかったから」
「して、誰に?」
「――ッ!」
失言だった。
失念していた。彼の神が常人の眼に映らぬことを。
それでも真知が、だなんて、口が裂けても言えない。
じっと見据える紅蓮の瞳に、冷汗がにじむ。
「まぁ……良い」
「紅、あのね、」
「良いのです」
語尾は意図せずくぐもる。
言葉の終わりを待たず、紺青の衣に顔をうずめさせられた為。
「嗚呼……嗚呼。細君が、わたしの為に……ありがたき幸せ」
草笛の声色は涙ぐんでいる。歓喜に打ち震えているのだ。
「それでよろしい。どうかわたしをお離しになるな。貴女様が望むすべてを、わたしが差し上げましょう。友愛も、親愛も……情愛も。ですから――わたし以外の何者も、欲されるな」
言の葉が宿す意味を、すぐに汲み取れなかった。ゆるりと視線を上げ、恍惚とした紅玉に理解が通る。
彼は不義を働いたのか――否。
誰にも落ち度はないはず。
それなのに何故、視線を逸らし、背を見せてしまったのだろう。
(穂花っ――……!)
伸ばされた腕、悲痛な表情が、茜に焼きついて頭を離れない。
まるで咎人になったよう。我が身が可愛いばかりに、なりふり構わず他者の情を踏みにじる。
体よく逃げおおせたところで、罪悪感に呼吸を奪われるだけだというのに。
滲み、焦点の合わなくなった視界では、逃げ道を映すことすら叶わなくなる。
がむしゃらに四肢を突き動かした穂花は、肉体的にも精神的にも、限界を迎えようとしていた。
「鬼ごっこか」
不意の草笛は、斜向かいの木陰より奏でられたもの。
「わたしもご一緒させてくださいまし」
細まる紅玉は、黄昏時の陽だまり。
さやさやとそよぐ木の葉の影より、そ……と手のひらが差し伸べられる。
「おいでませ」
張り詰めた風船は、とうとう破裂する。
「……べにぃっ……!」
深く考えることもなく、夕照へ身を投げ打った。
重力に忠実な身体を、優しく、それでいて力強く抱きとめられる。
細腕のぬくもりが、安堵の嗚咽をもたらした。
「っ……ふ、ぅうっ……!」
「嗚呼、そんなに泣かれては、瞳が溶けてしまう……わたしのかわいいひとを苛めるのは、とても悪い鬼のようですな」
――ちがう、ちがうの。そうじゃないの。
真知は悪くないのだと伝えたくとも、嗚咽に阻まれ、喉がひゅうひゅうと鳴るばかり。
「ご安心なされませ。お傍には、この紅がおります」
蜂蜜漬けにするかのごとく、際限なく甘やかす。
豹変した真知をよそに、紅は平生と変わらぬ様子であった。なにを問うわけでもなく、穂花の背をあやすのみ。
ぬくもりにひとたび身を預けるだけで、ささくれ立った心の凪ぐのがわかる。
抱きしめられ、この上なく安堵している自分がたしかにいる。どうしてないがしろにできようか。
「紅を……悪く言われたの」
憤りというよりは、衝撃。そして落胆。
心を赦しきっていた真知本人の人格を厭うことだけは、ついぞできはしなかった。
「細君は、わたしのことで傷ついておられると」
「そう……なるのかな。哀しかったから」
「して、誰に?」
「――ッ!」
失言だった。
失念していた。彼の神が常人の眼に映らぬことを。
それでも真知が、だなんて、口が裂けても言えない。
じっと見据える紅蓮の瞳に、冷汗がにじむ。
「まぁ……良い」
「紅、あのね、」
「良いのです」
語尾は意図せずくぐもる。
言葉の終わりを待たず、紺青の衣に顔をうずめさせられた為。
「嗚呼……嗚呼。細君が、わたしの為に……ありがたき幸せ」
草笛の声色は涙ぐんでいる。歓喜に打ち震えているのだ。
「それでよろしい。どうかわたしをお離しになるな。貴女様が望むすべてを、わたしが差し上げましょう。友愛も、親愛も……情愛も。ですから――わたし以外の何者も、欲されるな」
言の葉が宿す意味を、すぐに汲み取れなかった。ゆるりと視線を上げ、恍惚とした紅玉に理解が通る。
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