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本編
*19* ひとつの笑顔
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一寸先は闇。言葉的にも状況的にも。
真冬の冷気がはびこり放題の廃墟で、かろうじて隣に楓の体温を感じるくらい。
針の落ちる音すら逃さない静寂を経て、楓は息をもらす。
「よし、追って来てないな」
「……なんでわかんの……」
「発作がないから」
「……物は捉えようか」
「そういうこと。だからユキさん」
「……なに」
「ここまで来たら、大丈夫だよ」
頭にそっと手を添えられたとたん、プツン、と糸が千切れる。
「なんなのよぉ、あのオバハン……っ!」
ヘナヘナ崩れ落ちるあたしを楓が抱きとめ、壁際に座らせてくれた。同じ目線にしゃがみ込まれたなら、もう限界。
「犯罪者相手だもんな、怖かったよな……ありがとう。もう俺は平気だよ」
「かえでぇっ……!」
深い切り傷、大量の血痕。あたしにとっては非現実的、だけど確かに現実で。
恐る恐る左胸へふれた手を、包み込んでくれる手のひら。
楓自身も恐怖していたはず。その上で、トクン、トクン……と応えてくれる鼓動に、ひとしきり安堵の嗚咽を漏らした。
「……ありがと。なんとか整理つきそう……だから、きいてもいいかな、色々」
一瞬の間があって、楓はうなずいた。
再度手を引かれ、立ち上がる。
あいにくライトは敵にプレゼントしてやったから、昔話は、夜目を頼りに歩きながら。
「紗倉は、清楚なフリして男グセ最悪なんだ。俺も中学んときに、目をつけられた」
「うっわぁ、悪趣味……」
「もちろん拒否したさ。それがお気に召さなかったんだろうな」
「そんな……言うこと聞かなかったくらいで殺そうとする? 飛躍しすぎじゃない?」
「気に食わなかった、プラス邪魔になったんだよ。俺がいると思い通りにならないって」
ハチャメチャな言動から察するに、確かに恋愛対象としては見ていなかったな。
〝情けない弟を持ったものだわ〟
曲がりなりにも、一度は異性として見ていた楓を、弟扱いする意味って。
「楓のお兄さん……目をつけられたの」
慣れてきた暗闇の中、唇を噛む横顔。それが答えだ。
「気の優しい人だった。歳が離れたクソガキを、文句ひとつ言わず面倒見てくれて。俺は兄さんに育てられたようなもんなんだ」
「尊敬、してたんだね」
「あぁ……ホントいい人だったから、あいつ調子に乗ったんだ。優しくされたのをかん違いして、兄さんに付きまとって……それであの日……っ」
楓、と腕を引き遮る。
だけど苦しげなまま頭を振られる。
心を固めたような瞳だった。
「あの日……俺を刺したあいつは、兄さんと心中を図ったんだ……!」
「ウソでしょ……」
「途切れ途切れの意識の中、あいつと落ちる兄さんを、5階の窓から見たんだ。なのにようやく病院で目が覚めたとき、ニュースが報道していたのは〝男性が飛び降り自殺をした〟とだけ」
そうか。だから〝みんなが知ってることと真実は違う〟って。
あたしは弥生さんたちから〝亡霊がいる〟としか聞かなかったし、楓からは〝飛び降りたのは女性〟と聞いた。必然的に〝亡霊の正体は飛び降りた女性〟と思う。
でもニュースを観た人からすると、〝亡霊の正体は飛び降りた男性〟だったんだ。
「兄さんが自殺なんてするわけない。だけどあいつと落ちていたことも、あいつの亡骸が見つかっていないのも事実だった。わけわかんなくなったよ……」
10階から飛び降りたなら、タダでは済まないだろうに。楓の混乱も最もだ。
「仮に、超複雑な奇跡が起きていたとして、あの人が今頃あたしたちの前に現れた理由って、なんなんだろう……」
想い人はいない。残ったのは楓。
あたしが傷を知っていたというだけで、楓の想いを見抜いたあの人。
殺し損ねた楓に再び危害を加えるつもりなら、なんであたしを抱かせようとしたの?
そうすることが、あの人にとってのメリットだった?
あたしと楓が結ばれること。あたしたちがそろっていなくなること。
……もしかして、あたし? あたしも邪魔だった?
あたしなにかしたっけ? あの人とは赤の他人もいいところだよ。会ったことなんて、あの日しかないし……
「…………いや、待って。ちょっと待って」
あたしはあの日、見たじゃないか。笑顔で雪と話すあの人を。
あの人があたしに告げた〝記憶障害〟のことも、ちがっていた。雪はあたしを忘れたりしなかった。
〝こんなやり方できみを守ろうなんて、間違っていたんだ……!〟
〝時間がないんだ! 早くしないと、あの人に見つかってしまう!!〟
〝この先に、きっといる。あの子がいてくれるから……頼って。そしてどうか……〟
のどを枯らすように訴えた雪が、最後に残した言葉は。
〝どうか……ぼくのことは忘れて〟
あの子と、幸せになって――と。
「楓……っ!」
グイと引っ張られた腕に、楓の歩みが止まった。振り返った焦げ茶色の瞳を、しかと捉える。
「ユキさん……?」
「教えて。楓のお兄さんの名前は、なに?」
その瞬間、限界まで見開かれる焦げ茶色の瞳。
つばを呑む音。……沈黙。
「ユキさんの話を聞いたとき、クリスマスカードを見たとき」
「……え?」
「まさかとは、思ってたんだ。……やっぱり、まぐれじゃなかった」
向き直る動作が、やけに長く感じる。
お互い強張った表情。楓はあたしの目線にかがみ、ゆっくりと口を開く。
「ゆき……白雪の雪と書いて……セツ。俺の兄さんは、月森雪だ」
「ッ!!」
――大きくなったねぇ。
――こらっ、喧嘩はダメです!
――ほんとは優しい子なんだよね。
――かえくんは、ぼくの大切な弟だよ。
脳裏を駆け巡る声……あたしの記憶じゃないのに……あたしは、知ってる。
〝幸ちゃん! かえくん!〟
ふたつの声音が、ひとつの笑顔に重なった。
「そんなっ……まさかっ……雪が、楓の……でも雪は、元気で、ふれられてっ!」
「ユキさん、落ち着いて!」
「ウソだ! あんなに笑ってたのに、雪が、雪が……!」
雪が、死んでる……なんて。
「う、ぁ……っ!」
「ユキさんっ!?」
痛い……痛い痛い痛い。
頭が真っ二つに割れそうだ……身体だって、沸騰したみたいに熱い……
「熱が悪化したのか! くそ……ユキさん、俺に掴まって。早くここを出よう!」
まるで地震が起きたよう。平衡感覚を保てない。耳鳴りで遮られる断片的な声を頼りに、腕を伸ばす。
やっとの思いで鉛のまぶたをこじ開けたとき、楓の向こうの闇が揺らいだ。
「美しい愛情ですこと。一途で、健気で……つくづく出来損ないの弟ね」
瞬間、楓が身を反転させる。
闇の中からゆらり、ゆらりと現れた彼女は、1歩ごとに恐怖であたしたちを嬲るよう。
大きな背があたしを庇う。広げた両腕は震え、それでも頑として、楓は悪魔をねめつけている。
終始弓なりに口端を曲げていた沙倉だったが、このとき初めて、面白くなさげに柳眉をしかめた。
「……生意気な目をするようになったのね。そんなに愛しているなら、奪えばよかったじゃない」
「俺は、おまえとはちがう。私利私欲のために、彼女を傷つける真似はしない」
「ふふっ……本当に可愛げのない子! 私がせっかく手助けをしてあげたのに、どうして自ら茨の道を進もうとするのかしら! ねぇ楓、あなたが幸さんをモノにしてさえいれば、全部上手く行ったのよ……?」
事情を知り、言葉の意味が少しでも理解できる今、紗倉がどんなに狂っているのかも、わかる。
「あなたがいたから、彼はうなずいてくれなかった。あなたが中途半端だから、幸さんは未だに彼を想っている。あなたがいたから、あなたがいたから……!」
「……ざけんな。あんたの人間性に欠陥があったから、ふたりとも拒否したんでしょ。責任転嫁すんのはお門違いだろうが……!」
「あら、ひがみかしら? そうよねぇ、私に彼を盗られてしまいそうなんですものね」
言葉が通じない。この人になにを言っても無駄だ。楓も同感のようで、息を殺し、隙をうかがう。
「ただ困ったことに、彼の澄んだ瞳も曇らされたようなの。兄弟そろって同じ人を愛す……なんて悲劇なんでしょうね! バッドエンドは悲しいわ……ですから、私が正気に戻してさしあげるの」
――ギラリ。
鈍い銀の光源は……ナイフ。
艶めかしい笑みで刀身の冷たさを確認する姿は、まさに凶器へ頬ずりをする犯罪者だ。
「今度はちゃあんと受け取ってね、楓?」
「逃げて楓! ……楓っ!?」
楓は動かない。あたしがいるから。
血の気が引く。
声にならない悲鳴が口内で消える。
のどが切り裂かれるまさに寸前だった。
楓は身体をひねり、紗倉の右手首をつかむ。
「俺は、おまえが嫌ってる〝男〟だ。ナメんじゃねぇ」
思わず二の腕をさするほど、ドスの効いた低音だった。初めて目にする、楓の激昂。
ギリギリと容赦なく手首を締めつけられ、ついに紗倉がナイフを取り落とす。
楓は鼻を鳴らし、床に転がったそれをかかとで踏みつけた。
形勢逆転。敗因は、楓を見下したその慢心。
「ずいぶんと……お利口になったじゃないの」
「悪あがきはよせよ。今度こそ警察に突き出してやる」
「ふふ、あはははっ!」
「……なにがおかしい」
「あなたに私が貶められると? あり得ないわ! 考え違いも甚だしい! あはははっ!」
狂っているがゆえに、常人の危機感も欠如しているのか。なんにせよ、丸腰なら怖いことはない。あとは人数の利だ。
「こんなとこに長居したくない。行こ、楓。見張るの手伝う」
あたしも楓も、油断したつもりは毛頭なかった。
それでも、壁に手を付き慎重に立ち上がったあたしを、紗倉は嗤う。
「――隙ありよ」
甘美な艷声が耳に届いた直後、息が詰まる。
「…………ユキ、さ……ユキさんッ!」
なんだよ楓、顔真っ青にして。
口にしたつもりが、上手くお腹に力が入らなくて、声にはならない。
「な……んだコレ……」
楓の視線を辿り、目を見張る。
違和感を覚えた腹部に、深々と、銀の刃が突き刺さっていたのだ――
真冬の冷気がはびこり放題の廃墟で、かろうじて隣に楓の体温を感じるくらい。
針の落ちる音すら逃さない静寂を経て、楓は息をもらす。
「よし、追って来てないな」
「……なんでわかんの……」
「発作がないから」
「……物は捉えようか」
「そういうこと。だからユキさん」
「……なに」
「ここまで来たら、大丈夫だよ」
頭にそっと手を添えられたとたん、プツン、と糸が千切れる。
「なんなのよぉ、あのオバハン……っ!」
ヘナヘナ崩れ落ちるあたしを楓が抱きとめ、壁際に座らせてくれた。同じ目線にしゃがみ込まれたなら、もう限界。
「犯罪者相手だもんな、怖かったよな……ありがとう。もう俺は平気だよ」
「かえでぇっ……!」
深い切り傷、大量の血痕。あたしにとっては非現実的、だけど確かに現実で。
恐る恐る左胸へふれた手を、包み込んでくれる手のひら。
楓自身も恐怖していたはず。その上で、トクン、トクン……と応えてくれる鼓動に、ひとしきり安堵の嗚咽を漏らした。
「……ありがと。なんとか整理つきそう……だから、きいてもいいかな、色々」
一瞬の間があって、楓はうなずいた。
再度手を引かれ、立ち上がる。
あいにくライトは敵にプレゼントしてやったから、昔話は、夜目を頼りに歩きながら。
「紗倉は、清楚なフリして男グセ最悪なんだ。俺も中学んときに、目をつけられた」
「うっわぁ、悪趣味……」
「もちろん拒否したさ。それがお気に召さなかったんだろうな」
「そんな……言うこと聞かなかったくらいで殺そうとする? 飛躍しすぎじゃない?」
「気に食わなかった、プラス邪魔になったんだよ。俺がいると思い通りにならないって」
ハチャメチャな言動から察するに、確かに恋愛対象としては見ていなかったな。
〝情けない弟を持ったものだわ〟
曲がりなりにも、一度は異性として見ていた楓を、弟扱いする意味って。
「楓のお兄さん……目をつけられたの」
慣れてきた暗闇の中、唇を噛む横顔。それが答えだ。
「気の優しい人だった。歳が離れたクソガキを、文句ひとつ言わず面倒見てくれて。俺は兄さんに育てられたようなもんなんだ」
「尊敬、してたんだね」
「あぁ……ホントいい人だったから、あいつ調子に乗ったんだ。優しくされたのをかん違いして、兄さんに付きまとって……それであの日……っ」
楓、と腕を引き遮る。
だけど苦しげなまま頭を振られる。
心を固めたような瞳だった。
「あの日……俺を刺したあいつは、兄さんと心中を図ったんだ……!」
「ウソでしょ……」
「途切れ途切れの意識の中、あいつと落ちる兄さんを、5階の窓から見たんだ。なのにようやく病院で目が覚めたとき、ニュースが報道していたのは〝男性が飛び降り自殺をした〟とだけ」
そうか。だから〝みんなが知ってることと真実は違う〟って。
あたしは弥生さんたちから〝亡霊がいる〟としか聞かなかったし、楓からは〝飛び降りたのは女性〟と聞いた。必然的に〝亡霊の正体は飛び降りた女性〟と思う。
でもニュースを観た人からすると、〝亡霊の正体は飛び降りた男性〟だったんだ。
「兄さんが自殺なんてするわけない。だけどあいつと落ちていたことも、あいつの亡骸が見つかっていないのも事実だった。わけわかんなくなったよ……」
10階から飛び降りたなら、タダでは済まないだろうに。楓の混乱も最もだ。
「仮に、超複雑な奇跡が起きていたとして、あの人が今頃あたしたちの前に現れた理由って、なんなんだろう……」
想い人はいない。残ったのは楓。
あたしが傷を知っていたというだけで、楓の想いを見抜いたあの人。
殺し損ねた楓に再び危害を加えるつもりなら、なんであたしを抱かせようとしたの?
そうすることが、あの人にとってのメリットだった?
あたしと楓が結ばれること。あたしたちがそろっていなくなること。
……もしかして、あたし? あたしも邪魔だった?
あたしなにかしたっけ? あの人とは赤の他人もいいところだよ。会ったことなんて、あの日しかないし……
「…………いや、待って。ちょっと待って」
あたしはあの日、見たじゃないか。笑顔で雪と話すあの人を。
あの人があたしに告げた〝記憶障害〟のことも、ちがっていた。雪はあたしを忘れたりしなかった。
〝こんなやり方できみを守ろうなんて、間違っていたんだ……!〟
〝時間がないんだ! 早くしないと、あの人に見つかってしまう!!〟
〝この先に、きっといる。あの子がいてくれるから……頼って。そしてどうか……〟
のどを枯らすように訴えた雪が、最後に残した言葉は。
〝どうか……ぼくのことは忘れて〟
あの子と、幸せになって――と。
「楓……っ!」
グイと引っ張られた腕に、楓の歩みが止まった。振り返った焦げ茶色の瞳を、しかと捉える。
「ユキさん……?」
「教えて。楓のお兄さんの名前は、なに?」
その瞬間、限界まで見開かれる焦げ茶色の瞳。
つばを呑む音。……沈黙。
「ユキさんの話を聞いたとき、クリスマスカードを見たとき」
「……え?」
「まさかとは、思ってたんだ。……やっぱり、まぐれじゃなかった」
向き直る動作が、やけに長く感じる。
お互い強張った表情。楓はあたしの目線にかがみ、ゆっくりと口を開く。
「ゆき……白雪の雪と書いて……セツ。俺の兄さんは、月森雪だ」
「ッ!!」
――大きくなったねぇ。
――こらっ、喧嘩はダメです!
――ほんとは優しい子なんだよね。
――かえくんは、ぼくの大切な弟だよ。
脳裏を駆け巡る声……あたしの記憶じゃないのに……あたしは、知ってる。
〝幸ちゃん! かえくん!〟
ふたつの声音が、ひとつの笑顔に重なった。
「そんなっ……まさかっ……雪が、楓の……でも雪は、元気で、ふれられてっ!」
「ユキさん、落ち着いて!」
「ウソだ! あんなに笑ってたのに、雪が、雪が……!」
雪が、死んでる……なんて。
「う、ぁ……っ!」
「ユキさんっ!?」
痛い……痛い痛い痛い。
頭が真っ二つに割れそうだ……身体だって、沸騰したみたいに熱い……
「熱が悪化したのか! くそ……ユキさん、俺に掴まって。早くここを出よう!」
まるで地震が起きたよう。平衡感覚を保てない。耳鳴りで遮られる断片的な声を頼りに、腕を伸ばす。
やっとの思いで鉛のまぶたをこじ開けたとき、楓の向こうの闇が揺らいだ。
「美しい愛情ですこと。一途で、健気で……つくづく出来損ないの弟ね」
瞬間、楓が身を反転させる。
闇の中からゆらり、ゆらりと現れた彼女は、1歩ごとに恐怖であたしたちを嬲るよう。
大きな背があたしを庇う。広げた両腕は震え、それでも頑として、楓は悪魔をねめつけている。
終始弓なりに口端を曲げていた沙倉だったが、このとき初めて、面白くなさげに柳眉をしかめた。
「……生意気な目をするようになったのね。そんなに愛しているなら、奪えばよかったじゃない」
「俺は、おまえとはちがう。私利私欲のために、彼女を傷つける真似はしない」
「ふふっ……本当に可愛げのない子! 私がせっかく手助けをしてあげたのに、どうして自ら茨の道を進もうとするのかしら! ねぇ楓、あなたが幸さんをモノにしてさえいれば、全部上手く行ったのよ……?」
事情を知り、言葉の意味が少しでも理解できる今、紗倉がどんなに狂っているのかも、わかる。
「あなたがいたから、彼はうなずいてくれなかった。あなたが中途半端だから、幸さんは未だに彼を想っている。あなたがいたから、あなたがいたから……!」
「……ざけんな。あんたの人間性に欠陥があったから、ふたりとも拒否したんでしょ。責任転嫁すんのはお門違いだろうが……!」
「あら、ひがみかしら? そうよねぇ、私に彼を盗られてしまいそうなんですものね」
言葉が通じない。この人になにを言っても無駄だ。楓も同感のようで、息を殺し、隙をうかがう。
「ただ困ったことに、彼の澄んだ瞳も曇らされたようなの。兄弟そろって同じ人を愛す……なんて悲劇なんでしょうね! バッドエンドは悲しいわ……ですから、私が正気に戻してさしあげるの」
――ギラリ。
鈍い銀の光源は……ナイフ。
艶めかしい笑みで刀身の冷たさを確認する姿は、まさに凶器へ頬ずりをする犯罪者だ。
「今度はちゃあんと受け取ってね、楓?」
「逃げて楓! ……楓っ!?」
楓は動かない。あたしがいるから。
血の気が引く。
声にならない悲鳴が口内で消える。
のどが切り裂かれるまさに寸前だった。
楓は身体をひねり、紗倉の右手首をつかむ。
「俺は、おまえが嫌ってる〝男〟だ。ナメんじゃねぇ」
思わず二の腕をさするほど、ドスの効いた低音だった。初めて目にする、楓の激昂。
ギリギリと容赦なく手首を締めつけられ、ついに紗倉がナイフを取り落とす。
楓は鼻を鳴らし、床に転がったそれをかかとで踏みつけた。
形勢逆転。敗因は、楓を見下したその慢心。
「ずいぶんと……お利口になったじゃないの」
「悪あがきはよせよ。今度こそ警察に突き出してやる」
「ふふ、あはははっ!」
「……なにがおかしい」
「あなたに私が貶められると? あり得ないわ! 考え違いも甚だしい! あはははっ!」
狂っているがゆえに、常人の危機感も欠如しているのか。なんにせよ、丸腰なら怖いことはない。あとは人数の利だ。
「こんなとこに長居したくない。行こ、楓。見張るの手伝う」
あたしも楓も、油断したつもりは毛頭なかった。
それでも、壁に手を付き慎重に立ち上がったあたしを、紗倉は嗤う。
「――隙ありよ」
甘美な艷声が耳に届いた直後、息が詰まる。
「…………ユキ、さ……ユキさんッ!」
なんだよ楓、顔真っ青にして。
口にしたつもりが、上手くお腹に力が入らなくて、声にはならない。
「な……んだコレ……」
楓の視線を辿り、目を見張る。
違和感を覚えた腹部に、深々と、銀の刃が突き刺さっていたのだ――
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