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本編
*13* 雪の降らない街
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その子との出会いは、ある日突然。
反応から察するに、第一印象はあまり褒められたものではなかったように思う。会話ひとつ交わすのにも一苦労。
意地っ張りだけれど心根の優しい子なのだとわかると、とたんに愛しさがあふれた。
もとを正せば赤の他人であっても、この子を放ってはおけない、独りにさせてはいけないと。
この子を守りたい。その想いだけが、生きる糧だった――
「――あ、れ……」
いつの間に街に入っていたのだろう。店を出てからの記憶が曖昧だ。なにか考え事をしていたようだけど、思い出せない。
ひとしきり首をひねり、出らんもんは出らん、と割りきってまた歩み出す。
長引く冬風邪に思考が奪われるのも、いまとなっては日常の一部だ。
幸い軽度であるから、車に跳ねられない程度には気を張ろうと思う。
バイトや学校に追われる日々。やっと自由を確保できたので、今日こそは雪にコートを返そうと道を急ぐ。
なんだか照れくさいから、お礼はクリスマス仕様のカードを、一足早く紙袋に忍ばせて。
ライトグレーの寒空だった。いつもの噴水広場で、そう苦心せず彼を見出す。
「雪!」
振り返り、はにかむ雪。
足取りは鼓動とともに、駆け出す直前。
「さくらさん」
「……え」
空耳、だよね?
でも、聞き慣れた声音で紡がれた名前は、ちがっていて。
「雪さん! お久しぶりです」
なびく黒のロングストレート。ちょうどあたしの後方から駆け出した白いロングコート姿の女性が、雪の手を取った。
なんで、どういう、こと?
「お元気でしたか?」
「おかげさまで、変わりないですよ」
「本当? 私ずいぶんと気掛かりで、お会いするまで仕事が手につかなかったんですよ」
「それは気苦労をおかけしました」
いつもとちがう、紺のトレンチコートを着てるからじゃない。
すらすらと受け答えをする彼はとても大人びていて、あの垢抜けた笑みとは、到底重ならない。
「……セ、ツ……?」
蚊の鳴くようなか細い声に、振り向くふたり。
「あら? こちらの方はお知り合い?」
「…………いえ。はじめてお会いすると思います」
「――っ!」
ウソでしょ……いま、なんて言った?
「雪、あたしだよ。幸だよ……?」
「申し訳ありません。どこかでお会いしましたでしょうか?」
……ウソ。
ウソだウソだウソだ。
これは悪い夢だ、雪があたしを知らないなんて。
信じたくない……のに、どうしてウソをついてるように見えないの……?
「ごめ……なさい。なんでも、ないです……失礼しました……っ!」
消えかけの言葉を放ち、脱兎のごとく逃げ出す。
なんで? どうして? ウソでしょ?
髪を振り乱しながら元来た道をひた走る。ひとの目なんかどうでもよかった。
がむしゃらに走り、凍結した路面に足を取られて派手に転ぶ。
投げ出された紙袋から、ミルクティー色のダッフルコートが飛び出した。
「どうしてっ……なんでよぉ、雪……っ!」
膝の擦り傷より、胸が軋んだ。
コートを抱きしめると、抱きしめられたぬくもりが蘇るようで、とうとう頭が容量オーバーを起こす。
もう、なにがなんだかわからないよ……
「血が出ているわ。大丈夫?」
ガラスを鳴らしたような澄んだ声が、頭上から耳に届く。
あたしのそばにかがみ込んだ女性は、さっきの。
「追いかけてきて正解だったわ。少し待ってね、手当てをするから」
「……あなた、は」
「私はさくら。あなたは、雪さんを知っているのね?」
ハンカチで手早く処置を施す女性、さくらさんを呆然と見やる。雪と親しげに会話を交わしていたひと。
「あたしの、かん違いだったみたいで」
「ムリしなくていいのよ。すぐにわかったわ、とても親しかったのよね、可哀想に。……幸さん、と言ったかしら。あなたの知っている雪さんとさっきの彼は、同じひとよ」
「意味が、わかりません」
「……ここは寒いわね。場所を変えましょうか」
ちょうど止血も済み、さくらさんに手を貸されて立ち上がる。
店に入ろうかと提案されたが、あたしは一刻も早く事実が知りたかった。
近くのベンチに並んで腰掛け少し。さくらさんは口を開く。
「雪さんと話していて、忘れっぽいって感じたことはない?」
「……あります。自分の歳もすぐに出てこなくて」
「それには理由があってね。彼は、記憶障害を患っているの。ある一定の期間をすぎると、それまでのことをすべて忘れてしまうような」
「そんな……じゃあ、あたしのことを覚えてなかったのは」
さくらさんは静かにうなずき、視線を灰色がかった冬空へ飛ばす。
「5年前のことよ。不慮の事故に遭って、雪さんは障害を負ってしまったの。その日以来、彼の脳は記憶することを拒むようになってしまった」
「記憶を……拒む?」
「嫌な記憶を消し去りたかったんでしょうね。どんなものであっても、事故以降の記憶は一定期間を過ぎるとリセットされる。いまの雪さんは、5年前の雪さんのままなの」
「記憶は、戻らないんですか」
「ごめんなさい……色々試してきたんだけど」
あたしが知らない雪。あれが5年前の雪だとするなら、さくらさんを覚えていたのは。
「雪さんとは長いお付き合いをさせてもらっていてね。事故以前から知っているのが、家族以外に私しかいなかったみたいで。私が雪さんを支えなきゃ……って」
やんわりと包まれているけど、その言葉に隠れた事実に、嫌でも気づいてしまう。
さくらさんは素敵な女性だ。親切だし、美人だし、髪だって綺麗な黒髪。あたしのとは大違い。
雪の隣に、ピッタリな。
「幸さん、雪さんのこと、どうか悪く思わないであげて?」
「そう、ですね……忘れちゃったもんは、仕方ないです」
バカ。全然仕方なくなんてないだろ。
「よかった。あなたもどうか、お気に病まずに」
それでも、意思とは裏腹に言葉は紡がれる。
「さくらさんみたいなひとがそばにいて、雪は幸せ者だ……」
――別れは突然。喪失感に包まれたあたしは、身動きが取れなくなった。
そうして気づく。街に、雪は降っていなかったと。
反応から察するに、第一印象はあまり褒められたものではなかったように思う。会話ひとつ交わすのにも一苦労。
意地っ張りだけれど心根の優しい子なのだとわかると、とたんに愛しさがあふれた。
もとを正せば赤の他人であっても、この子を放ってはおけない、独りにさせてはいけないと。
この子を守りたい。その想いだけが、生きる糧だった――
「――あ、れ……」
いつの間に街に入っていたのだろう。店を出てからの記憶が曖昧だ。なにか考え事をしていたようだけど、思い出せない。
ひとしきり首をひねり、出らんもんは出らん、と割りきってまた歩み出す。
長引く冬風邪に思考が奪われるのも、いまとなっては日常の一部だ。
幸い軽度であるから、車に跳ねられない程度には気を張ろうと思う。
バイトや学校に追われる日々。やっと自由を確保できたので、今日こそは雪にコートを返そうと道を急ぐ。
なんだか照れくさいから、お礼はクリスマス仕様のカードを、一足早く紙袋に忍ばせて。
ライトグレーの寒空だった。いつもの噴水広場で、そう苦心せず彼を見出す。
「雪!」
振り返り、はにかむ雪。
足取りは鼓動とともに、駆け出す直前。
「さくらさん」
「……え」
空耳、だよね?
でも、聞き慣れた声音で紡がれた名前は、ちがっていて。
「雪さん! お久しぶりです」
なびく黒のロングストレート。ちょうどあたしの後方から駆け出した白いロングコート姿の女性が、雪の手を取った。
なんで、どういう、こと?
「お元気でしたか?」
「おかげさまで、変わりないですよ」
「本当? 私ずいぶんと気掛かりで、お会いするまで仕事が手につかなかったんですよ」
「それは気苦労をおかけしました」
いつもとちがう、紺のトレンチコートを着てるからじゃない。
すらすらと受け答えをする彼はとても大人びていて、あの垢抜けた笑みとは、到底重ならない。
「……セ、ツ……?」
蚊の鳴くようなか細い声に、振り向くふたり。
「あら? こちらの方はお知り合い?」
「…………いえ。はじめてお会いすると思います」
「――っ!」
ウソでしょ……いま、なんて言った?
「雪、あたしだよ。幸だよ……?」
「申し訳ありません。どこかでお会いしましたでしょうか?」
……ウソ。
ウソだウソだウソだ。
これは悪い夢だ、雪があたしを知らないなんて。
信じたくない……のに、どうしてウソをついてるように見えないの……?
「ごめ……なさい。なんでも、ないです……失礼しました……っ!」
消えかけの言葉を放ち、脱兎のごとく逃げ出す。
なんで? どうして? ウソでしょ?
髪を振り乱しながら元来た道をひた走る。ひとの目なんかどうでもよかった。
がむしゃらに走り、凍結した路面に足を取られて派手に転ぶ。
投げ出された紙袋から、ミルクティー色のダッフルコートが飛び出した。
「どうしてっ……なんでよぉ、雪……っ!」
膝の擦り傷より、胸が軋んだ。
コートを抱きしめると、抱きしめられたぬくもりが蘇るようで、とうとう頭が容量オーバーを起こす。
もう、なにがなんだかわからないよ……
「血が出ているわ。大丈夫?」
ガラスを鳴らしたような澄んだ声が、頭上から耳に届く。
あたしのそばにかがみ込んだ女性は、さっきの。
「追いかけてきて正解だったわ。少し待ってね、手当てをするから」
「……あなた、は」
「私はさくら。あなたは、雪さんを知っているのね?」
ハンカチで手早く処置を施す女性、さくらさんを呆然と見やる。雪と親しげに会話を交わしていたひと。
「あたしの、かん違いだったみたいで」
「ムリしなくていいのよ。すぐにわかったわ、とても親しかったのよね、可哀想に。……幸さん、と言ったかしら。あなたの知っている雪さんとさっきの彼は、同じひとよ」
「意味が、わかりません」
「……ここは寒いわね。場所を変えましょうか」
ちょうど止血も済み、さくらさんに手を貸されて立ち上がる。
店に入ろうかと提案されたが、あたしは一刻も早く事実が知りたかった。
近くのベンチに並んで腰掛け少し。さくらさんは口を開く。
「雪さんと話していて、忘れっぽいって感じたことはない?」
「……あります。自分の歳もすぐに出てこなくて」
「それには理由があってね。彼は、記憶障害を患っているの。ある一定の期間をすぎると、それまでのことをすべて忘れてしまうような」
「そんな……じゃあ、あたしのことを覚えてなかったのは」
さくらさんは静かにうなずき、視線を灰色がかった冬空へ飛ばす。
「5年前のことよ。不慮の事故に遭って、雪さんは障害を負ってしまったの。その日以来、彼の脳は記憶することを拒むようになってしまった」
「記憶を……拒む?」
「嫌な記憶を消し去りたかったんでしょうね。どんなものであっても、事故以降の記憶は一定期間を過ぎるとリセットされる。いまの雪さんは、5年前の雪さんのままなの」
「記憶は、戻らないんですか」
「ごめんなさい……色々試してきたんだけど」
あたしが知らない雪。あれが5年前の雪だとするなら、さくらさんを覚えていたのは。
「雪さんとは長いお付き合いをさせてもらっていてね。事故以前から知っているのが、家族以外に私しかいなかったみたいで。私が雪さんを支えなきゃ……って」
やんわりと包まれているけど、その言葉に隠れた事実に、嫌でも気づいてしまう。
さくらさんは素敵な女性だ。親切だし、美人だし、髪だって綺麗な黒髪。あたしのとは大違い。
雪の隣に、ピッタリな。
「幸さん、雪さんのこと、どうか悪く思わないであげて?」
「そう、ですね……忘れちゃったもんは、仕方ないです」
バカ。全然仕方なくなんてないだろ。
「よかった。あなたもどうか、お気に病まずに」
それでも、意思とは裏腹に言葉は紡がれる。
「さくらさんみたいなひとがそばにいて、雪は幸せ者だ……」
――別れは突然。喪失感に包まれたあたしは、身動きが取れなくなった。
そうして気づく。街に、雪は降っていなかったと。
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